資料室の中は、薄暗かった。
榊原先生が壁のスイッチを入れると、天井の蛍光灯が一度だけ瞬いて、それから頼りなく白い光を落とした。
部屋いっぱいに、棚と棚が並んでいる。
段ボール箱。紐で綴じられた書類束。布張りのアルバム。背表紙の色が褪せた台帳。
廊下から聞こえる雨音が、ここでは少し遠い。
まるで、水の底にいるみたいだった。
「古い学籍関係は、奥の右側だ」
榊原先生が言う。
「勝手に持ち出すな。破るな。写真を撮るなら私に言え」
「はい」
真帆が答え、結月と目を合わせる。
二人とも、いつの間にか声を潜めていた。
部屋の奥へ進む。
足元の床が小さく鳴る。
棚のあいだを通るたび、埃っぽい匂いが揺れた。
右側の一番奥に、古い台帳がまとめて入った箱が並んでいた。
ラベルは色褪せているけれど、かろうじて読める。
『学籍簿』
『出席簿』
『異動届』
『旧西棟関係』
真帆が「こっち」と囁き、しゃがみ込む。
結月も膝をついた。
箱の表面に積もった埃を払うと、白い粉が指についた。
その指先を見て、結月はふいに思い出す。
先輩の手の甲にあった、白い傷みたいな線を。
胸がきゅっとなった。
「結月、これ……」
真帆が一冊の台帳を引き出した。
表紙は濃い茶色。角が擦り切れている。
中央に墨で書かれた文字。
『昭和六十一年度 三年E組 出席簿』
結月の呼吸が、止まった。
昭和六十一年度。
今じゃない。
自分たちが生まれるよりずっと前の時間。
三年E組。
確かに、あった。
先輩が言っていたクラスが、ここには当たり前みたいに書かれている。
「……E組」
真帆も小さく呟いた。
ふざけた響きは、ひとかけらもない。
結月は震える手で、台帳を受け取った。
重かった。
分厚い紙の束の重み以上に、時間の重さがある気がした。
表紙を開く。
古い紙が、ぱり、と小さく鳴る。
最初のページに、担任名。
出席番号順の生徒一覧。
丁寧な文字で名前が並んでいる。
結月の目が、まっすぐそこへ向かっていく。
朝倉陽介
見つけた瞬間、世界が遠のいた。
目に入った文字は、ただの四文字のはずなのに、結月の胸を直接掴んだ。
そこにあった。
確かに、あった。
先輩の名前が、紙の上に残っている。
「……いた」
かすれた声が零れる。
結月は、恐る恐る指先をその文字の上に置いた。
ひやりとした。
でも次の瞬間、指先の奥が、じわっと熱くなる。
古い紙の匂いがふっと立つ。
雨の日の図書室。
閉じられる本の音。
窓辺の横顔。
『……結月』
耳の奥で、気のせいみたいな声がした。
結月は息を呑み、顔を上げた。
資料室の中には真帆と榊原先生しかいない。
なのに、今、確かに。
「結月?」
真帆が心配そうに覗き込んでくる。
「……ううん」
違う、と言いたかったのに声がうまく出ない。
違わなかったからだ。
真帆がページをめくる。
月ごとの出欠が、几帳面に丸や斜線で記されていた。
朝倉陽介の欄にも、三月の半ばまで、他の生徒と同じように印が続いている。
三月十日。
丸。
三月十一日。
そこだけ、赤鉛筆で強く線が引かれていた。
そして備考欄に、小さく、冷たい文字。
『旧西棟渡り廊下事故』
その先の数日分は空白だった。
そしてページの端に、後から書き足したような別の字で、さらに一行。
『三月十五日 死亡』
結月は、息ができなくなった。
死亡。
たった二文字。
その二文字が、何より残酷だった。
先輩がいた時間。
本を読んでいた指。
結月の名前を呼ぶ声。
あの日、抱きしめてくれた腕。
それ全部に向かって、この紙は冷たく言う。
死亡。
四十年前に。
「……うそ」
結月の口から零れた声は、自分でもわからないくらい頼りなかった。
「先輩……」
真帆が咄嗟に結月の肩を支える。
「座る?」
「……だいじょうぶ」
大丈夫じゃない。
でも、ここで手を離したら、名前がまた消えてしまいそうだった。
結月はもう一度、朝倉陽介の文字を見る。
朝倉。
陽介。
先輩は、ほんとうにいた。
今の三年生じゃなくて。
四十年前、この学校の三年E組にいて。
そして、旧校舎の事故で死んだ。
頭ではわかる。
わかった瞬間、今までの違和感が全部、痛いくらい一つに繋がっていく。
三年E組。
天体観測部。
今っぽくない言葉遣い。
写真を嫌がったこと。
図書室でしか会わなかったこと。
雨の日だけだったこと。
全部、嘘じゃなかった。
ただ、時間だけが違っていた。
「……見つかったか」
榊原先生の声が、すぐ後ろでした。
結月は振り向くことができなかった。
出席簿から目を離したら、その文字がまた白く塗りつぶされる気がしたから。
「先生……」
真帆が代わりに顔を上げる。
「これ……ほんとなんですか」
榊原先生はしばらく黙って、開かれたページを見た。
先生の目が、朝倉陽介の名前の上で止まる。
まるで、長い間見ないようにしてきた傷を、もう一度見てしまったみたいに。
「……本当だ」
その一言で、結月の胸の奥が音を立てて崩れた。
榊原先生は、ゆっくり息を吐く。
「朝倉陽介。三年E組。天体観測部。図書室にもよくいた」
先生の口から語られるたびに、先輩が記録ではなく人に戻る。
結月はそれが嬉しくて、なのに苦しかった。
「静かな子だったよ。騒ぐタイプじゃない。本が好きで、空を見るのも好きで……雨の日の図書室が落ち着くと、よく言っていた」
結月の指が、無意識に出席簿を握りしめる。
雨の日の図書室。
先輩が言っていたことと、同じだ。
「先生は……知ってたんですか。朝倉先輩のこと」
「知っている」
榊原先生は短く答えた。
「私は、あの年の新任だった」
結月と真帆が同時に顔を上げる。
榊原先生の目は、今の資料室ではなく、もっと遠い時間を見ていた。
「卒業式の準備が始まるころだった。三月の、冷たい雨の日でね。旧西棟の渡り廊下で落下事故が起きた。老朽化していた天井材と金具が落ちた。朝倉は、それに巻き込まれた」
結月の呼吸が浅くなる。
渡り廊下。
天井。
雨の日。
昨日の光景と、ぴたりと重なった。
「……あの日、先輩も」
「そうだ」
榊原先生は頷く。
「数日後に亡くなった。本当なら、卒業式で名前が呼ばれるはずだった」
結月の目の奥が熱くなる。
呼ばれるはずだった。
でも呼ばれなかった。
「じゃあ、なんで……」
真帆が一歩前へ出る。
声が、少し尖っていた。
「なんで、卒アルから消えてるんですか。なんで空白なんですか。事故があったなら、なおさら残すべきでしょ」
榊原先生は、すぐには答えなかった。
代わりに、近くの古い棚へ指を滑らせる。
木の表面がきしむ。
「大人の事情、という言葉で片づけるのは簡単だ。けれど、あまりに汚い」
先生の声は静かだった。
だからこそ、余計に重かった。
「事故の責任を問われたくなかった者がいた。卒業式を予定通り終わらせたい者がいた。騒ぎを大きくしたくない者がいた。理由はいくつもあった。結果として、朝倉の名前は“事故に遭った生徒一名”に変えられた」
結月は息を呑む。
事故に遭った生徒一名。
名前のある人が、数字になる。
「卒業アルバムの校了直前に、写真と名前だけが外された。記録も、一部は整理された。完全には消せなかったから、こうして原本だけが残った」
榊原先生の視線が、出席簿に落ちる。
「君たちが見つけたのは、その消し残しだ」
消し残し。
その言葉に、結月の胸が締めつけられた。
まるで先輩が、書き損じを拭いきれなかった跡みたいに聞こえたから。
「……ひどい」
真帆が絞り出すように言う。
榊原先生は否定しなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
資料室に沈黙が落ちる。
外では、雨が本格的に強くなっていた。
窓の向こうで、世界が白く滲む。
結月は、出席簿の文字から目を離せなかった。
朝倉陽介。
この名前を、先輩は自分で結月に教えてくれた。
でもそのとき結月は、ただの自己紹介だと思っていた。
今は違う。
名前を渡されていたのだ。
誰にも残されなかった、自分の名前を。
「……先生」
結月は、かすれた声で言った。
「どうして、私だけが見えたんですか」
榊原先生の目が、ゆっくりと結月へ向いた。
結月は続ける。
「友達も、先生も、誰も先輩が見えなかった。昨日も……私と一緒にいたのに、みんな私だけ見てて……」
喉が熱くなる。
涙が溢れそうになるのを、結月は必死で堪えた。
「写真も、嫌がってた。図書室でしか会えなかった。雨の日だけ……。なんで、そんなふうに」
榊原先生は、少しだけ困ったように息を吐いた。
教師として話すべきことじゃない、と迷っている顔に見えた。
けれど、その迷いは長く続かなかった。
「……信じるかどうかは、君たちに任せる」
先生はそう前置きしてから、静かに言った。
「この町には昔から、空白になる死者の話がある」
真帆が息を呑む。
結月の指先が、出席簿の端をぎゅっと掴んだ。
「名前をきちんと残されず、思い出してももらえず、どこにも納まれなかった死者は、ときどき学校や土地の中に“空白”として残る、と」
榊原先生の声は淡々としていた。
けれど、その言葉には妙な重みがあった。
昔話をしているようでいて、ただの昔話じゃない重み。
「空白の死者は、写真や印刷やデータみたいな複製には、うまく定着できない。だから写らないし、記録にも残りにくい。人の記憶からも、すり抜ける」
結月の胸に、先輩の拒絶が蘇る。
『……撮らないでほしい』
あのときの、少し怯えたような顔。
「あの子が写真を嫌がったのも、そのせいだろう。嫌がったというより、残れないのを知っていたのかもしれない」
真帆が、乾いた唇を舐めるようにして聞いた。
「……じゃあ、どうして結月には見えたんですか」
榊原先生は、一瞬だけ結月の胸ポケットを見た。
栞のある場所。
それから、結月の手元の出席簿。
「空白が輪郭を持つには、いくつか条件が重なると言われている」
結月の心臓が、どくんと鳴る。
「ひとつ。どこかに、本名が原物として残っていること。こういう出席簿や名簿のような、消しきれなかった紙だ」
先生の指が、朝倉陽介の文字の少し上で止まる。
「ふたつ。その名に、生きている誰かが触れること。直接でも、原物でもいい。名前は、ただの音じゃない。残された輪郭そのものだから」
結月は思い出す。
雨の日の図書室で、先輩が自分の名前を言った瞬間のことを。
あのとき、胸の奥で何かが小さく鳴った。
「そして、みっつめ」
榊原先生の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「その人を、強く思うことだ」
真帆が瞬いた。
「強く……」
「忘れたくないと思うこと。消えてほしくないと思うこと。いてほしいと願うこと」
結月の喉が、ひどく熱くなる。
榊原先生は、まっすぐ結月を見ていた。
「――恋をすることだ」
世界が、一瞬だけ静止した気がした。
真帆の視線が、結月へ向くのがわかる。
でも、結月は動けなかった。
恋。
その文字を、他人に言われるだけで、こんなに苦しいなんて知らなかった。
恥ずかしさじゃない。
見透かされたからでもない。
もっと違う。
もっと深い場所を、その言葉が照らしてしまったからだ。
雨の日の図書室で。
名前を呼ばれるたびに、胸が苦しくなって。
会えない日が怖くなって。
雨を待ってしまって。
あの日、伝えたかった言葉があって。
それが全部、恋だった。
そして、その恋が。
先輩に輪郭を与えていた。
「……じゃあ」
結月は、声が震えるのを止められないまま言った。
「私が、先輩を……」
そこまで言って、先が続かなかった。
自分が何を言いたいのか、わからなくなったからだ。
見えるようにした?
この世につなぎ止めた?
苦しませた?
榊原先生はゆっくり首を振った。
「君があの子を作ったわけじゃない」
その言葉に、結月は息を止める。
「最初から、朝倉はここにいた。ただ、誰の目にも留まれないほど薄くなっていただけだ。雨の日の図書室で、彼の輪郭が濃くなっていた時に、偶然君が認識できて、名前を受け取れた。そして、彼を思い、恋をしたから、あの子は君だけが見えた」
空白だった彼に。
結月だけが会えた理由。
雨の日の図書室で、あんなに静かにそこにいた理由。
全部が、一本に繋がっていく。
「……雨の日だけだったのは」
真帆が、掠れた声で聞く。
榊原先生は窓の外を見た。
「あの子が死んだ日が、そういう日だったからだろう。人は、最後に強く触れたものに引かれることがある。天気も、場所も、匂いも」
「じゃあ、図書室は」
「朝倉が好きだった場所だ。よくいたよ。天体観測部なのに、星の本より小説の棚にいるほうが多かった」
その言い方が、あまりにも普通で。
“いた”という過去形が、痛いほど優しかった。
結月の目に、涙が滲む。
先輩は本当にいた。
雨の日の図書室が好きで、本が好きで、空を見るのが好きで。
結月と話す前から、ちゃんとそういう人だった。
怪談のために作られた存在じゃない。
誰かに都合よく現れるだけの影でもない。
ただ、名前を消された一人の人だった。
「……先輩、知ってたんでしょうか」
結月は、出席簿を見たまま呟いた。
「自分が、四十年前の生徒だって」
榊原先生は少し考えてから、言った。
「おそらく」
結月の胸が痛む。
「……私に、旧校舎のほうへ行くなって言ったのは」
榊原先生は、結月の包帯を見た。
そして静かに言う。
「同じ場所で、同じことを繰り返させたくなかったのかもしれない」
結月は唇を噛んだ。
昨日、渡り廊下で先輩が見せた切実な顔。
低くて、強い声。
あれはただの不機嫌じゃなかった。
知っていたのだ。
あの場所で、雨の日に、何が起こるか。
そして結月は、結局そこへ行ってしまった。
「……先輩」
名前を呼ぶと、涙がひとつ、紙の上に落ちそうになった。
慌てて結月は目元を拭う。
資料室の蛍光灯が、じ、と小さく鳴る。
外の雨が、さらに強くなる。
結月はもう一度だけ、出席簿の名前に触れた。
朝倉陽介。
今度は、さっきよりはっきりわかった。
指先の下の文字が、ただのインクじゃない。
先輩へ辿るための、たった一本の糸だということが。
榊原先生が壁のスイッチを入れると、天井の蛍光灯が一度だけ瞬いて、それから頼りなく白い光を落とした。
部屋いっぱいに、棚と棚が並んでいる。
段ボール箱。紐で綴じられた書類束。布張りのアルバム。背表紙の色が褪せた台帳。
廊下から聞こえる雨音が、ここでは少し遠い。
まるで、水の底にいるみたいだった。
「古い学籍関係は、奥の右側だ」
榊原先生が言う。
「勝手に持ち出すな。破るな。写真を撮るなら私に言え」
「はい」
真帆が答え、結月と目を合わせる。
二人とも、いつの間にか声を潜めていた。
部屋の奥へ進む。
足元の床が小さく鳴る。
棚のあいだを通るたび、埃っぽい匂いが揺れた。
右側の一番奥に、古い台帳がまとめて入った箱が並んでいた。
ラベルは色褪せているけれど、かろうじて読める。
『学籍簿』
『出席簿』
『異動届』
『旧西棟関係』
真帆が「こっち」と囁き、しゃがみ込む。
結月も膝をついた。
箱の表面に積もった埃を払うと、白い粉が指についた。
その指先を見て、結月はふいに思い出す。
先輩の手の甲にあった、白い傷みたいな線を。
胸がきゅっとなった。
「結月、これ……」
真帆が一冊の台帳を引き出した。
表紙は濃い茶色。角が擦り切れている。
中央に墨で書かれた文字。
『昭和六十一年度 三年E組 出席簿』
結月の呼吸が、止まった。
昭和六十一年度。
今じゃない。
自分たちが生まれるよりずっと前の時間。
三年E組。
確かに、あった。
先輩が言っていたクラスが、ここには当たり前みたいに書かれている。
「……E組」
真帆も小さく呟いた。
ふざけた響きは、ひとかけらもない。
結月は震える手で、台帳を受け取った。
重かった。
分厚い紙の束の重み以上に、時間の重さがある気がした。
表紙を開く。
古い紙が、ぱり、と小さく鳴る。
最初のページに、担任名。
出席番号順の生徒一覧。
丁寧な文字で名前が並んでいる。
結月の目が、まっすぐそこへ向かっていく。
朝倉陽介
見つけた瞬間、世界が遠のいた。
目に入った文字は、ただの四文字のはずなのに、結月の胸を直接掴んだ。
そこにあった。
確かに、あった。
先輩の名前が、紙の上に残っている。
「……いた」
かすれた声が零れる。
結月は、恐る恐る指先をその文字の上に置いた。
ひやりとした。
でも次の瞬間、指先の奥が、じわっと熱くなる。
古い紙の匂いがふっと立つ。
雨の日の図書室。
閉じられる本の音。
窓辺の横顔。
『……結月』
耳の奥で、気のせいみたいな声がした。
結月は息を呑み、顔を上げた。
資料室の中には真帆と榊原先生しかいない。
なのに、今、確かに。
「結月?」
真帆が心配そうに覗き込んでくる。
「……ううん」
違う、と言いたかったのに声がうまく出ない。
違わなかったからだ。
真帆がページをめくる。
月ごとの出欠が、几帳面に丸や斜線で記されていた。
朝倉陽介の欄にも、三月の半ばまで、他の生徒と同じように印が続いている。
三月十日。
丸。
三月十一日。
そこだけ、赤鉛筆で強く線が引かれていた。
そして備考欄に、小さく、冷たい文字。
『旧西棟渡り廊下事故』
その先の数日分は空白だった。
そしてページの端に、後から書き足したような別の字で、さらに一行。
『三月十五日 死亡』
結月は、息ができなくなった。
死亡。
たった二文字。
その二文字が、何より残酷だった。
先輩がいた時間。
本を読んでいた指。
結月の名前を呼ぶ声。
あの日、抱きしめてくれた腕。
それ全部に向かって、この紙は冷たく言う。
死亡。
四十年前に。
「……うそ」
結月の口から零れた声は、自分でもわからないくらい頼りなかった。
「先輩……」
真帆が咄嗟に結月の肩を支える。
「座る?」
「……だいじょうぶ」
大丈夫じゃない。
でも、ここで手を離したら、名前がまた消えてしまいそうだった。
結月はもう一度、朝倉陽介の文字を見る。
朝倉。
陽介。
先輩は、ほんとうにいた。
今の三年生じゃなくて。
四十年前、この学校の三年E組にいて。
そして、旧校舎の事故で死んだ。
頭ではわかる。
わかった瞬間、今までの違和感が全部、痛いくらい一つに繋がっていく。
三年E組。
天体観測部。
今っぽくない言葉遣い。
写真を嫌がったこと。
図書室でしか会わなかったこと。
雨の日だけだったこと。
全部、嘘じゃなかった。
ただ、時間だけが違っていた。
「……見つかったか」
榊原先生の声が、すぐ後ろでした。
結月は振り向くことができなかった。
出席簿から目を離したら、その文字がまた白く塗りつぶされる気がしたから。
「先生……」
真帆が代わりに顔を上げる。
「これ……ほんとなんですか」
榊原先生はしばらく黙って、開かれたページを見た。
先生の目が、朝倉陽介の名前の上で止まる。
まるで、長い間見ないようにしてきた傷を、もう一度見てしまったみたいに。
「……本当だ」
その一言で、結月の胸の奥が音を立てて崩れた。
榊原先生は、ゆっくり息を吐く。
「朝倉陽介。三年E組。天体観測部。図書室にもよくいた」
先生の口から語られるたびに、先輩が記録ではなく人に戻る。
結月はそれが嬉しくて、なのに苦しかった。
「静かな子だったよ。騒ぐタイプじゃない。本が好きで、空を見るのも好きで……雨の日の図書室が落ち着くと、よく言っていた」
結月の指が、無意識に出席簿を握りしめる。
雨の日の図書室。
先輩が言っていたことと、同じだ。
「先生は……知ってたんですか。朝倉先輩のこと」
「知っている」
榊原先生は短く答えた。
「私は、あの年の新任だった」
結月と真帆が同時に顔を上げる。
榊原先生の目は、今の資料室ではなく、もっと遠い時間を見ていた。
「卒業式の準備が始まるころだった。三月の、冷たい雨の日でね。旧西棟の渡り廊下で落下事故が起きた。老朽化していた天井材と金具が落ちた。朝倉は、それに巻き込まれた」
結月の呼吸が浅くなる。
渡り廊下。
天井。
雨の日。
昨日の光景と、ぴたりと重なった。
「……あの日、先輩も」
「そうだ」
榊原先生は頷く。
「数日後に亡くなった。本当なら、卒業式で名前が呼ばれるはずだった」
結月の目の奥が熱くなる。
呼ばれるはずだった。
でも呼ばれなかった。
「じゃあ、なんで……」
真帆が一歩前へ出る。
声が、少し尖っていた。
「なんで、卒アルから消えてるんですか。なんで空白なんですか。事故があったなら、なおさら残すべきでしょ」
榊原先生は、すぐには答えなかった。
代わりに、近くの古い棚へ指を滑らせる。
木の表面がきしむ。
「大人の事情、という言葉で片づけるのは簡単だ。けれど、あまりに汚い」
先生の声は静かだった。
だからこそ、余計に重かった。
「事故の責任を問われたくなかった者がいた。卒業式を予定通り終わらせたい者がいた。騒ぎを大きくしたくない者がいた。理由はいくつもあった。結果として、朝倉の名前は“事故に遭った生徒一名”に変えられた」
結月は息を呑む。
事故に遭った生徒一名。
名前のある人が、数字になる。
「卒業アルバムの校了直前に、写真と名前だけが外された。記録も、一部は整理された。完全には消せなかったから、こうして原本だけが残った」
榊原先生の視線が、出席簿に落ちる。
「君たちが見つけたのは、その消し残しだ」
消し残し。
その言葉に、結月の胸が締めつけられた。
まるで先輩が、書き損じを拭いきれなかった跡みたいに聞こえたから。
「……ひどい」
真帆が絞り出すように言う。
榊原先生は否定しなかった。
ただ、少しだけ目を伏せた。
資料室に沈黙が落ちる。
外では、雨が本格的に強くなっていた。
窓の向こうで、世界が白く滲む。
結月は、出席簿の文字から目を離せなかった。
朝倉陽介。
この名前を、先輩は自分で結月に教えてくれた。
でもそのとき結月は、ただの自己紹介だと思っていた。
今は違う。
名前を渡されていたのだ。
誰にも残されなかった、自分の名前を。
「……先生」
結月は、かすれた声で言った。
「どうして、私だけが見えたんですか」
榊原先生の目が、ゆっくりと結月へ向いた。
結月は続ける。
「友達も、先生も、誰も先輩が見えなかった。昨日も……私と一緒にいたのに、みんな私だけ見てて……」
喉が熱くなる。
涙が溢れそうになるのを、結月は必死で堪えた。
「写真も、嫌がってた。図書室でしか会えなかった。雨の日だけ……。なんで、そんなふうに」
榊原先生は、少しだけ困ったように息を吐いた。
教師として話すべきことじゃない、と迷っている顔に見えた。
けれど、その迷いは長く続かなかった。
「……信じるかどうかは、君たちに任せる」
先生はそう前置きしてから、静かに言った。
「この町には昔から、空白になる死者の話がある」
真帆が息を呑む。
結月の指先が、出席簿の端をぎゅっと掴んだ。
「名前をきちんと残されず、思い出してももらえず、どこにも納まれなかった死者は、ときどき学校や土地の中に“空白”として残る、と」
榊原先生の声は淡々としていた。
けれど、その言葉には妙な重みがあった。
昔話をしているようでいて、ただの昔話じゃない重み。
「空白の死者は、写真や印刷やデータみたいな複製には、うまく定着できない。だから写らないし、記録にも残りにくい。人の記憶からも、すり抜ける」
結月の胸に、先輩の拒絶が蘇る。
『……撮らないでほしい』
あのときの、少し怯えたような顔。
「あの子が写真を嫌がったのも、そのせいだろう。嫌がったというより、残れないのを知っていたのかもしれない」
真帆が、乾いた唇を舐めるようにして聞いた。
「……じゃあ、どうして結月には見えたんですか」
榊原先生は、一瞬だけ結月の胸ポケットを見た。
栞のある場所。
それから、結月の手元の出席簿。
「空白が輪郭を持つには、いくつか条件が重なると言われている」
結月の心臓が、どくんと鳴る。
「ひとつ。どこかに、本名が原物として残っていること。こういう出席簿や名簿のような、消しきれなかった紙だ」
先生の指が、朝倉陽介の文字の少し上で止まる。
「ふたつ。その名に、生きている誰かが触れること。直接でも、原物でもいい。名前は、ただの音じゃない。残された輪郭そのものだから」
結月は思い出す。
雨の日の図書室で、先輩が自分の名前を言った瞬間のことを。
あのとき、胸の奥で何かが小さく鳴った。
「そして、みっつめ」
榊原先生の声が、ほんの少しだけ低くなった。
「その人を、強く思うことだ」
真帆が瞬いた。
「強く……」
「忘れたくないと思うこと。消えてほしくないと思うこと。いてほしいと願うこと」
結月の喉が、ひどく熱くなる。
榊原先生は、まっすぐ結月を見ていた。
「――恋をすることだ」
世界が、一瞬だけ静止した気がした。
真帆の視線が、結月へ向くのがわかる。
でも、結月は動けなかった。
恋。
その文字を、他人に言われるだけで、こんなに苦しいなんて知らなかった。
恥ずかしさじゃない。
見透かされたからでもない。
もっと違う。
もっと深い場所を、その言葉が照らしてしまったからだ。
雨の日の図書室で。
名前を呼ばれるたびに、胸が苦しくなって。
会えない日が怖くなって。
雨を待ってしまって。
あの日、伝えたかった言葉があって。
それが全部、恋だった。
そして、その恋が。
先輩に輪郭を与えていた。
「……じゃあ」
結月は、声が震えるのを止められないまま言った。
「私が、先輩を……」
そこまで言って、先が続かなかった。
自分が何を言いたいのか、わからなくなったからだ。
見えるようにした?
この世につなぎ止めた?
苦しませた?
榊原先生はゆっくり首を振った。
「君があの子を作ったわけじゃない」
その言葉に、結月は息を止める。
「最初から、朝倉はここにいた。ただ、誰の目にも留まれないほど薄くなっていただけだ。雨の日の図書室で、彼の輪郭が濃くなっていた時に、偶然君が認識できて、名前を受け取れた。そして、彼を思い、恋をしたから、あの子は君だけが見えた」
空白だった彼に。
結月だけが会えた理由。
雨の日の図書室で、あんなに静かにそこにいた理由。
全部が、一本に繋がっていく。
「……雨の日だけだったのは」
真帆が、掠れた声で聞く。
榊原先生は窓の外を見た。
「あの子が死んだ日が、そういう日だったからだろう。人は、最後に強く触れたものに引かれることがある。天気も、場所も、匂いも」
「じゃあ、図書室は」
「朝倉が好きだった場所だ。よくいたよ。天体観測部なのに、星の本より小説の棚にいるほうが多かった」
その言い方が、あまりにも普通で。
“いた”という過去形が、痛いほど優しかった。
結月の目に、涙が滲む。
先輩は本当にいた。
雨の日の図書室が好きで、本が好きで、空を見るのが好きで。
結月と話す前から、ちゃんとそういう人だった。
怪談のために作られた存在じゃない。
誰かに都合よく現れるだけの影でもない。
ただ、名前を消された一人の人だった。
「……先輩、知ってたんでしょうか」
結月は、出席簿を見たまま呟いた。
「自分が、四十年前の生徒だって」
榊原先生は少し考えてから、言った。
「おそらく」
結月の胸が痛む。
「……私に、旧校舎のほうへ行くなって言ったのは」
榊原先生は、結月の包帯を見た。
そして静かに言う。
「同じ場所で、同じことを繰り返させたくなかったのかもしれない」
結月は唇を噛んだ。
昨日、渡り廊下で先輩が見せた切実な顔。
低くて、強い声。
あれはただの不機嫌じゃなかった。
知っていたのだ。
あの場所で、雨の日に、何が起こるか。
そして結月は、結局そこへ行ってしまった。
「……先輩」
名前を呼ぶと、涙がひとつ、紙の上に落ちそうになった。
慌てて結月は目元を拭う。
資料室の蛍光灯が、じ、と小さく鳴る。
外の雨が、さらに強くなる。
結月はもう一度だけ、出席簿の名前に触れた。
朝倉陽介。
今度は、さっきよりはっきりわかった。
指先の下の文字が、ただのインクじゃない。
先輩へ辿るための、たった一本の糸だということが。



