雨音が、少しずつ強くなっていく。
旧校舎の二階の奥。
人気のない廊下の突き当たりにある小さな扉の前で、結月は息を止めていた。
掠れたプレートに、かろうじて読める文字。
『資料室』
真帆がしゃがみ込み、錆びた南京錠を指先でつつく。
金属は冷たく、触れた途端に乾いた音を立てた。
「……開かないね」
当然だ。
チェーンまで巻かれている。
長いこと人の出入りがなかったのか、扉の下には灰色の埃が細く積もっていた。
結月は扉を見つめたまま、胸ポケットの栞を押さえた。
指先に紙の角が当たる。
ここに、何かがある。
そう思った。
理由なんてなかった。ただ、雨の日の図書室で朝倉先輩が纏っていた、あの古い紙の匂いに似た気配が、扉の向こうから微かに滲んでくる気がしたのだ。
「先生に鍵、借りるしかないかな」
真帆が立ち上がって言う。
でも声はさっきより小さい。
ふざける余裕がなくなっているのが、結月にもわかった。
「借りられるかな」
「わかんない。でも無断でこじ開けたら、さすがに怒られるし」
「うん……」
結月は扉の前に一歩近づいた。
古びた木の表面に指先をそっと触れる。
ひやりとしていた。
その瞬間。
背後で、靴音が止まった。
「そこで何をしている」
低い声だった。
結月と真帆は同時に振り返った。
廊下の向こうに、ひとりの教師が立っていた。
白髪まじりの髪をきちんと撫でつけた、背の高い男の先生。
年齢は六十近いはずなのに、姿勢がまっすぐで、黒いスラックスの折り目まできっちりしている。
榊原先生だった。
三年の社会を担当している先生で、校内でも一番古くからいる教師だと聞いたことがある。
町の祭りでは神社の手伝いをしている姿も見かけるから、どこか学校の先生らしくない、静かな古さをまとっている人だった。
真帆が一瞬で顔を引き締める。
「……すみません。卒アル委員の資料確認で」
「卒アル委員が、封鎖した旧資料室の前で?」
榊原先生の目が細くなる。
怒っているというより、嘘を見抜こうとする目だった。
真帆が言葉に詰まる。
その横で、結月はもう誤魔化せない気がした。
ここで隠したら、また先輩が遠くなる。
結月は喉の渇きを飲み込んで、言った。
「朝倉陽介っていう生徒のことを、調べています」
榊原先生の表情が、止まった。
雨の音だけが廊下を満たす。
先生はすぐには何も言わなかった。
ただ、じっと結月の顔を見た。
その目が、結月の包帯の巻かれた手や、肩のぎこちない動きまで見ているのがわかった。
「……その名前を、どこで聞いた」
声が低くなる。
結月は、胸がどくどく鳴るのを感じながら答えた。
「雨の日の図書室で会いました」
先生の眉が、ごく僅かに寄った。
「何度も、です」
結月は続ける。
「三年E組だって言ってました。天体観測部だって。写真は嫌がってて……雨の日しか会えなくて……でも、名簿にも卒アルにもいなくて」
言葉がこぼれていく。
止められなかった。
「先生、知ってるんですか」
榊原先生は少しだけ目を伏せた。
それから、廊下の窓に打ちつける雨を一度見て、静かに言った。
「……面白半分ではないんだな」
真帆がすぐに首を振る。
「違います」
「そうか」
先生はポケットから鍵束を取り出した。
いくつもの鍵の中から、ひとつだけ古い真鍮色のものを選ぶ。
結月の胸が強く跳ねた。
「入るなら、私の前で見なさい」
榊原先生は扉に歩み寄り、南京錠へ鍵を差し込んだ。
金属が軋み、長い眠りから起こされるみたいな鈍い音がする。
「ここにあるのは、古い書類だ」
先生はチェーンを外しながら、低く続けた。
「学校が残したものと、残しきれなかったもの。どちらも入っている。見たからといって、全部がすぐ答えになるとは限らない」
結月は小さく頷いた。
扉が開く。
途端に、重たい空気が流れ出した。
湿った紙の匂い。
長く閉ざされていた部屋の、よどんだ冷気。
それなのにどこか、図書室に似ている。
結月の胸が、ひどく痛んだ。
旧校舎の二階の奥。
人気のない廊下の突き当たりにある小さな扉の前で、結月は息を止めていた。
掠れたプレートに、かろうじて読める文字。
『資料室』
真帆がしゃがみ込み、錆びた南京錠を指先でつつく。
金属は冷たく、触れた途端に乾いた音を立てた。
「……開かないね」
当然だ。
チェーンまで巻かれている。
長いこと人の出入りがなかったのか、扉の下には灰色の埃が細く積もっていた。
結月は扉を見つめたまま、胸ポケットの栞を押さえた。
指先に紙の角が当たる。
ここに、何かがある。
そう思った。
理由なんてなかった。ただ、雨の日の図書室で朝倉先輩が纏っていた、あの古い紙の匂いに似た気配が、扉の向こうから微かに滲んでくる気がしたのだ。
「先生に鍵、借りるしかないかな」
真帆が立ち上がって言う。
でも声はさっきより小さい。
ふざける余裕がなくなっているのが、結月にもわかった。
「借りられるかな」
「わかんない。でも無断でこじ開けたら、さすがに怒られるし」
「うん……」
結月は扉の前に一歩近づいた。
古びた木の表面に指先をそっと触れる。
ひやりとしていた。
その瞬間。
背後で、靴音が止まった。
「そこで何をしている」
低い声だった。
結月と真帆は同時に振り返った。
廊下の向こうに、ひとりの教師が立っていた。
白髪まじりの髪をきちんと撫でつけた、背の高い男の先生。
年齢は六十近いはずなのに、姿勢がまっすぐで、黒いスラックスの折り目まできっちりしている。
榊原先生だった。
三年の社会を担当している先生で、校内でも一番古くからいる教師だと聞いたことがある。
町の祭りでは神社の手伝いをしている姿も見かけるから、どこか学校の先生らしくない、静かな古さをまとっている人だった。
真帆が一瞬で顔を引き締める。
「……すみません。卒アル委員の資料確認で」
「卒アル委員が、封鎖した旧資料室の前で?」
榊原先生の目が細くなる。
怒っているというより、嘘を見抜こうとする目だった。
真帆が言葉に詰まる。
その横で、結月はもう誤魔化せない気がした。
ここで隠したら、また先輩が遠くなる。
結月は喉の渇きを飲み込んで、言った。
「朝倉陽介っていう生徒のことを、調べています」
榊原先生の表情が、止まった。
雨の音だけが廊下を満たす。
先生はすぐには何も言わなかった。
ただ、じっと結月の顔を見た。
その目が、結月の包帯の巻かれた手や、肩のぎこちない動きまで見ているのがわかった。
「……その名前を、どこで聞いた」
声が低くなる。
結月は、胸がどくどく鳴るのを感じながら答えた。
「雨の日の図書室で会いました」
先生の眉が、ごく僅かに寄った。
「何度も、です」
結月は続ける。
「三年E組だって言ってました。天体観測部だって。写真は嫌がってて……雨の日しか会えなくて……でも、名簿にも卒アルにもいなくて」
言葉がこぼれていく。
止められなかった。
「先生、知ってるんですか」
榊原先生は少しだけ目を伏せた。
それから、廊下の窓に打ちつける雨を一度見て、静かに言った。
「……面白半分ではないんだな」
真帆がすぐに首を振る。
「違います」
「そうか」
先生はポケットから鍵束を取り出した。
いくつもの鍵の中から、ひとつだけ古い真鍮色のものを選ぶ。
結月の胸が強く跳ねた。
「入るなら、私の前で見なさい」
榊原先生は扉に歩み寄り、南京錠へ鍵を差し込んだ。
金属が軋み、長い眠りから起こされるみたいな鈍い音がする。
「ここにあるのは、古い書類だ」
先生はチェーンを外しながら、低く続けた。
「学校が残したものと、残しきれなかったもの。どちらも入っている。見たからといって、全部がすぐ答えになるとは限らない」
結月は小さく頷いた。
扉が開く。
途端に、重たい空気が流れ出した。
湿った紙の匂い。
長く閉ざされていた部屋の、よどんだ冷気。
それなのにどこか、図書室に似ている。
結月の胸が、ひどく痛んだ。



