空白の卒業アルバム

次の日、結月は授業中ほとんどノートが取れなかった。

黒板の文字を写しても、頭の中には白い四角しか浮かばない。

三年E組。
四十三名。
一人足りない。

休み時間、真帆が後ろから小さく紙を回してきた。

『放課後、図書室。紙の資料、見る』

結月はそのメモを見て、胸ポケットの栞をそっと押さえた。

返事は書かなかった。
書かなくても、行くつもりだった。

放課後、空は曇っていた。
今にも降りそうなのに、まだ降らない。
校舎の窓が、灰色の光を鈍く返している。

図書室の引き戸を開けた瞬間、結月の胸が少しだけ痛んだ。

いない。

わかっていた。
今はまだ雨じゃない。
だから、いない。

それでも、窓際の席や本棚の奥に、つい視線を探しに行ってしまう。
古い紙の匂いだけが、静かにある。

「結月」

先に来ていた真帆が、参考図書の棚の前で手招きした。

司書の先生はカウンターにいた。
昨日より少し疲れて見える。
でも、結月たちが近づくと、眼鏡の奥の目をやわらかく細めた。

「また来たの」

「はい。あの……昨日言ってた学校史、見てもいいですか」

真帆が聞くと、司書の先生は少しだけ黙った。
それから、立ち上がって奥の書庫へ入っていく。

戻ってきた先生の腕には、分厚い本が三冊と、背の高い灰色のファイルが抱えられていた。

『創立五十周年記念誌』
『校舎改築のあゆみ』
『PTA広報縮刷版』
『旧校舎関係資料 要許可』

最後の灰色ファイルの背表紙を見た瞬間、真帆が小さく息を呑んだ。
結月も、喉が鳴る。

司書の先生はそれらを閲覧席の机に置いた。

「本当は、こういうのは先生に相談してからのほうがいいんだけど……」

「……すみません」

結月が言うと、司書の先生は首を振った。

「ただ、見たことを面白がって広めないで。古い事故のことは、今も気にする人がいるから」

事故。

その言葉に、結月と真帆は顔を見合わせた。

司書の先生は、ほんの少しだけ目を伏せた。

「……学校には長い歴史があるから。何もなかったわけじゃないわ」

何もなかったわけじゃない。

肯定でも否定でもない言い方。
でも、それで十分だった。

「ありがとうございます」

真帆が頭を下げる。
先生は「閉館までね」とだけ言って、カウンターへ戻った。

机の上に並んだ本は、どれも重くて、古い。
結月は『創立五十周年記念誌』の表紙に触れた。
ざらついた布張りの感触が、指先に残る。

先輩の制服の匂いを思い出した。
古い紙の匂い。
雨の日の図書室の匂い。

「……めくるよ」

真帆が、いつもより小さな声で言った。

ページをめくる音が、図書室の静けさに溶ける。

最初に見つかったのは、昔の学校紹介のページだった。

『生徒数増加に伴い、各学年五学級編成』

写真つきで、当時の校舎が載っている。
今よりずっと人が多かったらしい。
校庭に並ぶ生徒の列が、写真の端まで続いていた。

「……E組、ほんとにあったんだ」

真帆が呟く。

結月は、唇を噛んだ。

あった。
やっぱり、あった。

「結月、見て」

真帆が別のページを指差す。

部活動紹介。
色褪せた集合写真と、部の名前。

『天体観測部』

その文字を見た瞬間、結月の指が止まった。

「……どうしたの」

真帆が顔を上げる。

結月は目を逸らせなかった。

「先輩……言ってた」

「え?」

「部活、天体観測部だって」

真帆の目が、見開かれる。
軽く冗談を言うときの目じゃない。
本気でぞくっとしたときの目だった。

「……うそ」

「うそじゃない」

結月は、自分でもびっくりするくらいはっきり言った。
胸の奥にあるものだけは、もう疑えなかったから。

真帆はページと結月の顔を交互に見た。

「いや、でも……天体観測部なんて、今ないよね」

「数年前になくなったって、私も聞いた」

「じゃあ、偶然……?」

真帆の声が弱くなる。

偶然。
その言葉に、結月は助けられる気がした。
まだ偶然でいてくれるなら、決定的じゃない。
でも同時に、偶然で片づけてほしくない気持ちもあった。

「……まだ、わかんない」

結月は自分に言い聞かせるみたいに呟いた。

真帆も、ゆっくり頷く。

「うん。まだ」

その「まだ」が、少しだけ救いになった。

次に二人は、巻末近くの年表を開いた。

創立。
増築。
体育館改修。
新校舎完成。

淡々と並ぶ出来事の中に、真帆の指がぴたりと止まる。

「……これ」

結月が身を乗り出した。

『三月十四日 旧西棟にて事故発生』
『生徒一名、後日死亡』
『翌年度より渡り廊下一部閉鎖』

それだけだった。

結月は何度も読み返す。

三月十四日。
旧西棟。
事故発生。
生徒一名。
後日死亡。

名前がない。

「……短すぎない?」

真帆の声が震えていた。

「人が死んだのに、これだけ?」

結月は答えられない。
文字の並びだけが、冷たく目に入ってくる。

生徒一名。

それはたしかに人なのに、人として書かれていない気がした。
数字みたいだった。
報告書の端に載る数量みたいだった。

結月は、胸の奥がじわじわ痛くなるのを感じた。

「名前、ないね」

やっとそれだけ言うと、真帆は苛立ったみたいにページをめくった。

「前後に説明とか、特集とか、普通ない?」

「……探そう」

二人で記念誌の同じ年代のページを追う。
卒業式の写真。
校舎の写真。
行事予定。

でも、事故の話はほとんど出てこない。
ひとつ、校長の挨拶の中に「悲しみを乗り越え」という曖昧な一文があるだけだった。

「隠してるみたい」

真帆がぼそっと言った。

結月の背中が冷える。

隠してる。
その言葉は、口にした途端に現実味を持った。

司書の先生が、遠くのカウンターからこちらを見ている気がした。
でも、振り向くとすぐに目を逸らされた。

真帆が次に灰色のファイルを開く。

中には、古い校舎の見取り図や補修記録のコピーが綴じられていた。
インクの薄れた図面。
「西棟」「特別教室」「旧資料室」「渡り廊下」といった文字。

結月の呼吸が浅くなる。

「……旧西棟って、今の旧校舎のことだよね」

「たぶん。ほら、この渡り廊下」

真帆の指が、図面の細い通路をなぞる。

結月はその場所を見た瞬間、肩がこわばった。
あの日、自分が天井の下に立っていた場所と、形がよく似ている。

「同じだ」

思わず零れる。

真帆が黙る。

図面の横には、補修記録がついていた。

『三月中旬の降雨により、旧西棟渡り廊下天井部から漏水』
『木部腐食確認』
『事故後、当該箇所の通行制限を実施』

結月の喉が詰まる。

雨。
渡り廊下。
天井。

昨日のことと、ぴたりと重なる。

「……結月」

真帆が、少しだけ心配そうな声を出した。

「大丈夫?」

大丈夫じゃない。
でも、ここで止まりたくなかった。

結月は頷いて、ファイルの次のページをめくった。

そこには、黄ばんだ新聞のコピーが挟まれていた。
地域欄の、小さな記事。

『卒業式目前、校舎で事故』
という見出し。

真帆と結月は、ほとんど同時に身を寄せた。

記事は短い。

『昨日午後、本市立第三中学校旧西棟の渡り廊下付近で、天井材の一部が落下し、卒業式準備のため校内に残っていた三年生の生徒が巻き込まれた。当日は冷たい雨が続き、校舎の老朽化も指摘されていた――』

そこまで読んだところで、真帆が「あれ」と声を漏らした。

記事の右端が、不自然に切れていた。

名前が載っていそうな位置だけが、きれいに欠けている。

「……なにこれ」

真帆が新聞コピーを持ち上げる。

「コピーのミス?」

「でも、ここだけ?」

結月は記事の切れた端を見つめた。
紙の上ではっきり途切れている。
まるで、そこにあったものだけを誰かが持っていったみたいに。

「名前のところ……」

結月が呟くと、真帆は唇を引き結んだ。

「普通、被害者の氏名までは書かなくても、学年とか性別とか、もう少しあるよね」

記事の続きはない。
ページ番号も、発行日も、左端に少しだけ残るだけだ。

ただ、欠けた右端のすぐ下に、
『冷たい雨の降る三月の放課後』
という言葉だけが見えていた。

結月は、その一文から目を離せなかった。

冷たい雨の降る三月の放課後。

雨の日。
放課後。
図書室。
旧校舎。
渡り廊下。

結びついていく。
ばらばらだった点が、嫌なくらい自然につながっていく。

それでも、結月は最後の一本を結べなかった。

この事故の生徒が、朝倉先輩なのか。
そこだけは、まだ。

「忘れられた生徒の怪談、あるよね?」

「うん。でも、私にとっては……ちゃんといたから」

雨の日の図書室で、本を閉じる音。
「結月」と呼ぶ声。
傷のある手。
抱き寄せられたときの、古い紙みたいな匂い。

全部、怪談なんかじゃない。

真帆はしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。

「ちゃんと調べよう」

真帆が新聞記事を指で押さえる。

「『忘れられた生徒』の噂がこの事故から来てるのか。それとも、まったく別なのか」

「……別、ってことあるかな」

「あるかもしれない。だって今わかってるのは、四十年前に、旧校舎で、名前の残らない事故があったってことだけ」

真帆はひとつずつ整理するみたいに言った。

「三年E組に一人分の空白がある」

「うん」

「天体観測部は当時ほんとにあった」

「……うん」

「事故は三月の雨の日。旧西棟の渡り廊下で起きて、生徒が一人亡くなった」

真帆はそこで、一度言葉を切った。

「でも、それが朝倉先輩だって証拠は、まだない」

結月は、唇を噛みしめた。

痛い。
でも、その痛みが必要だった。

「……ない」

認めると、胸の奥が少しだけ静かになる。
希望で暴走していたものが、やっと手綱を引かれたみたいに。

「だから次」

真帆の指が、校舎図面のあるページを叩く。

「この『旧資料室』」

見取り図の、旧西棟二階の奥。
今は使われていない場所に、小さくそう書いてある。

「資料室……」

「事故のあと、旧校舎の書類をこっちに移したってメモがある」

真帆が補修記録の端を指す。
たしかに、小さな手書きで走り書きがある。

『名簿・出席簿・一部写真原版 旧資料室保管』

結月の呼吸が止まりそうになる。

名簿。
出席簿。
写真原版。

「……原版」

結月が小さく呟くと、胸ポケットの栞の角が指先に当たった。

紙。
原物。

先輩が残れるもの。

真帆も同じことを思ったらしい。
目が合う。

「ここにあるかも」

真帆が言う。

「空白になる前の、ほんとの記録」

結月は、図面の小さな『旧資料室』の文字を見つめた。
地図の上の小さな部屋なのに、そこだけ妙に暗く見える。

結月は少し迷ってから、言った。

「……ほんとに、付き合ってくれるの?」

真帆は一瞬きょとんとして、それから眉を寄せた。

「今さら?」

「だって、もう卒アル委員の手伝いとかじゃないし」

「うん。完全に違う」

真帆はあっさり認めた。

「でも、ここまで見ちゃったら、放っとけない」

「……怪談好きだから?」

「それもある」

真帆は肩をすくめる。

「でもたぶん、一番は、結月があんな顔してるから」

「あんな顔?」

「この人のこと忘れたくない、って顔」

結月は言葉を失った。

忘れたくない。

その通りだった。
名前がなくても。
写真がなくても。
みんなが知らなくても。

自分まで忘れるわけにはいかない。
まだ何も知らないまま、いなかったことにだけはしたくない。

図書室の窓が、かたん、と小さく鳴った。

二人が同時に振り向く。

いつの間にか、ガラスに小さな雨粒がついていた。

ぽつ、ぽつ、と遅れて増えていく。

「……降ってきた」

結月が呟く。

胸が、きゅっと縮む。

雨の日。
先輩が来る日。

でも今日は、ここにいない。
いるとしたら、もっと別の場所だ。

真帆が図面を閉じた。

「閉館まであと十分」

「うん」

「図書室からは、もう出よう」

結月は名残惜しさを覚えながら、頷いた。
ページの上の『旧資料室』が、閉じる寸前まで目に焼きついている。

片づけようとしたとき、司書の先生が近づいてきた。

「何かわかった?」

真帆が一瞬だけ結月を見る。
結月は迷ってから、記念誌の年表のページを先生に向けた。

先生の目が、『生徒一名、後日死亡』の行で止まる。

それだけで、十分だった。
先生はこの記述を知っている。
そして、その先も。

「……四十年前に事故があったんですよね」

結月が聞くと、司書の先生はすぐには答えなかった。
窓の外の雨を見たまま、静かに言う。

「その頃からよ。この学校で、『忘れられた生徒』なんて噂が出るようになったのは」

結月の心臓が、強く跳ねた。

真帆も息を呑む。

司書の先生は、少しだけ遠くを見る目をした。

「誰が最初に言い出したのかは知らない。でも、雨の日の図書室だとか、旧校舎だとか……そういう話が、いつの間にか残った」

「それって……」

真帆が言いかける。

でも先生は、小さく首を振った。

「噂は噂よ。事故のことと、どこまで本当に繋がっているのかは、私にもわからない」

わからない。
そう言いながら、先生の声は少しだけかすれていた。

「今日はもう帰りなさい。雨、強くなるから」