空白の卒業アルバム

図書室の引き戸を開けると、今日は曇っていた。
雨は降っていない。
だから図書室の空気も、少しだけ普通だ。

それなのに、結月の胸だけがざわざわする。
雨の日じゃない。
先輩はいない。
わかっているのに、どこかで期待してしまう自分がいる。

カウンターに、司書の先生がいた。
眼鏡の奥の目が優しい。

「あら、佐伯さん。怪我、大丈夫?」

昨日の事故の噂は、もう学校中に広がっているらしい。
結月は曖昧に頷いた。

真帆が、卒アル委員の名札を見せて言う。

「先生、すみません。卒アル用に、三年生の貸出履歴って確認できますか?」

「貸出履歴?個人情報だから、基本は本人しか――」

「えっと、本人の許可があれば……って感じですよね」

真帆は一瞬だけ言葉を濁した。
結月は、その本人がいないことを思い出して、胸が痛む。

司書の先生は困った顔をした。

「どうしたの?」

結月は口を開きかけて、閉じた。
言えば、またあの言葉を言われる。
そんな生徒いないと。

代わりに真帆が、少しだけ声を落として言った。

「……事故のとき、結月と一緒にいたっていう三年生がいるらしいんですけど、その人の記録がなくて」

司書の先生の眉がぴくりと動いた。

「記録が、ない?」

「はい。名前も、写真も。……図書室でよく本を読んでたって」

司書の先生は、一瞬だけ目を伏せた。
何かを考えるみたいに。

「……名前は?」

結月の喉が鳴った。
真帆が促すように見てくる。
結月は小さく言った。

「……朝倉陽介、です」

司書の先生は、その名前を聞いて、ほんの少しだけ顔色を変えた。
気のせいじゃない。
結月は、その微かな反応を見逃さなかった。

「先生……知ってるんですか」

結月が震える声で聞くと、司書の先生は、すぐに首を振った。

「いいえ。……ただ、似たような名前の方は、昔、いた気がして」

昔。
その言葉が、結月の胸の奥に落ちた。

真帆が一歩前に出る。

「先生、端末だけでも見せてください。検索するだけ。結果が出なかったら、帰ります」

司書の先生はしばらく迷ってから、カウンターの内側にある職員用端末を指差した。

「……検索だけね。画面は私が操作するから、横から見て」

「ありがとうございます」

真帆が深く頭を下げる。
真帆がこんなふうに頭を下げるの、結月は初めて見た。

司書の先生がキーボードを打つ。
画面に、貸出システムの検索画面が出る。
名前検索欄。

「……朝倉、陽介」

司書の先生が入力する。
エンター。

画面の中央に、結果が表示された。

――該当する利用者は見つかりません。

結月の心臓が、どくん、と鳴った。
息が止まる。

「……やっぱり、ない」

真帆が呟いた。

司書の先生は、結月の顔をちらりと見て、眉を寄せた。

「……佐伯さん、あなた、その人に会ったの?」

結月は頷いた。
頷きながら、涙が滲む。

「雨の日に、図書室で……何回も」

司書の先生は、口元を押さえるようにして、しばらく黙った。
それから、ゆっくり言った。

「……貸出履歴がないなら、普通は、図書室を利用していないことになる。……でも」

「でも?」

真帆が食いついた。

司書の先生は、結月の手元――結月が握りしめている栞を見た。

「その栞……どこで」

結月は、そっと栞を差し出した。
司書の先生が、それを受け取って、指先で撫でる。

そして、息を呑んだ。

「……これ」

声が小さく震えた。

「……昔、図書室で使っていた栞に、似てる」

結月と真帆の心臓が、同時に跳ねた。

「昔って、いつですか」

真帆が聞く。
司書の先生は、困ったように笑った。

「……四十年くらい前かな。私がここに来たばかりの頃。……今はもう、こういう紙の栞は使ってないの」

四十年くらい前。
結月の頭の中で、先輩の制服の着こなしが蘇る。
古い言い回し。
消えるみたいにいなくなる姿。

結月の背筋が冷たくなった。

司書の先生は栞を返しながら、そっと言った。

「……佐伯さん。もし、その人のことを本当に確かめたいなら、データじゃなくて、紙を見たほうがいい」

「紙?」

真帆が聞き返す。

「昔の卒業アルバムとか、学校史とか。……古いものは、データに残っていないこともあるから」

真帆が、結月を見た。
結月の胸が、どくんと鳴る。

真帆はゆっくり頷いた。

「……わかりました。先生、ありがとうございます」

司書の先生は、何か言いたげな顔をしたが、結局それ以上は言わなかった。