消毒液の匂いが、鼻の奥を刺した。
結月はゆっくりと目を開けた。白い天井。カーテン越しの蛍光灯。時計の秒針の音が、やけに大きい。
「……起きた?」
保健室の先生の声がする。結月は首を動かそうとして、肩に痛みが走り、小さく息を呑んだ。
手のひらにはガーゼが巻かれていた。制服の肩のあたりが、湿ったまま重い。
結月は自分の体を確かめるより先に、記憶を掴もうとした。
雨。
旧校舎。
落ちてくるもの。
温かい腕。
消えた重さ。
「……先輩は?」
結月は起き上がろうとした。保健室の先生が慌てて肩を押さえる。
「無理しないで。脳震盪の可能性もあるから」
「先輩!先輩は!?」
声が大きくなって、自分でも驚いた。喉の奥が痛い。
保健室の先生は困った顔をした。
「……佐伯さんは、一人で倒れてたって聞いてるの。旧校舎の渡り廊下で」
その言葉に、結月の頭の中が真っ白になった。
「一人」――そんなはずがない。
結月は、さっきまで自分の背中を包んでいた温度を思い出そうとする。あの腕の力。耳元の息。古い紙みたいな匂い。
思い出せるほど、現実から遠ざかっていく。
「……ちが、う……」
否定の声は掠れて、自分の耳にも頼りない。
カーテンが少し開いて、担任の先生が入ってきた。
結月のクラス担任、相沢先生は真剣な顔で結月を見下ろした。
「佐伯、具合はどう?」
「先生、先輩が……!旧校舎の渡り廊下で、事故が……」
結月は必死に言葉を繋いだ。
「天井が崩れて……先輩が私を庇って、……そのあと、いなくなって……!」
相沢先生は眉を寄せた。
「先輩……?」
「はい!三年生の……!」
結月は涙が溢れそうになるのを堪えた。
「早く、救急車、呼んで……。私より、先輩の方が――」
相沢先生は、保健室の先生と視線を交わした。
その目が、結月には一番怖かった。
『かわいそうな子を見る目』に見えたから。
「佐伯。落ち着いて」
相沢先生は低い声で言った。
「旧校舎の方は、今、先生たちが確認してる。倒壊の危険があるから」
「でも先輩が……!」
結月は相沢先生の袖を掴んだ。指先が布を掴む感触が、現実を引き留めてくれる。
「先輩が、そこに――」
相沢先生は、結月の指をそっと外した。
「佐伯。君は一人で倒れていたと聞いている」
「そんなはずない!」
結月の声が裏返る。涙が勝手に溜まって、視界が滲んだ。
相沢先生は静かに名簿を取り出した。
こんなときに名簿?と結月は一瞬思った。
けれど先生の手つきは、確かめるように真剣だった。
紙をめくる音がする。
結月の心臓は、その音に合わせて早くなる。
「……三年の名簿、確認する。名前を教えてくれ」
相沢先生は淡々と言った。
結月は頷いて、先輩の名前を教えた。
数秒。
数十秒。
永遠みたいに長い時間。
先生の指が、ページの上で止まった。
そして、先生は顔を上げた。
「佐伯」
「……はい」
相沢先生は、ゆっくり首を振った。
そして、決定打の言葉を落とす。
雨が窓を叩く音が、やけに大きく響いた。まるで世界が、その言葉に頷くみたいに。
「――その名前の生徒は、この学校にはいない」
結月はゆっくりと目を開けた。白い天井。カーテン越しの蛍光灯。時計の秒針の音が、やけに大きい。
「……起きた?」
保健室の先生の声がする。結月は首を動かそうとして、肩に痛みが走り、小さく息を呑んだ。
手のひらにはガーゼが巻かれていた。制服の肩のあたりが、湿ったまま重い。
結月は自分の体を確かめるより先に、記憶を掴もうとした。
雨。
旧校舎。
落ちてくるもの。
温かい腕。
消えた重さ。
「……先輩は?」
結月は起き上がろうとした。保健室の先生が慌てて肩を押さえる。
「無理しないで。脳震盪の可能性もあるから」
「先輩!先輩は!?」
声が大きくなって、自分でも驚いた。喉の奥が痛い。
保健室の先生は困った顔をした。
「……佐伯さんは、一人で倒れてたって聞いてるの。旧校舎の渡り廊下で」
その言葉に、結月の頭の中が真っ白になった。
「一人」――そんなはずがない。
結月は、さっきまで自分の背中を包んでいた温度を思い出そうとする。あの腕の力。耳元の息。古い紙みたいな匂い。
思い出せるほど、現実から遠ざかっていく。
「……ちが、う……」
否定の声は掠れて、自分の耳にも頼りない。
カーテンが少し開いて、担任の先生が入ってきた。
結月のクラス担任、相沢先生は真剣な顔で結月を見下ろした。
「佐伯、具合はどう?」
「先生、先輩が……!旧校舎の渡り廊下で、事故が……」
結月は必死に言葉を繋いだ。
「天井が崩れて……先輩が私を庇って、……そのあと、いなくなって……!」
相沢先生は眉を寄せた。
「先輩……?」
「はい!三年生の……!」
結月は涙が溢れそうになるのを堪えた。
「早く、救急車、呼んで……。私より、先輩の方が――」
相沢先生は、保健室の先生と視線を交わした。
その目が、結月には一番怖かった。
『かわいそうな子を見る目』に見えたから。
「佐伯。落ち着いて」
相沢先生は低い声で言った。
「旧校舎の方は、今、先生たちが確認してる。倒壊の危険があるから」
「でも先輩が……!」
結月は相沢先生の袖を掴んだ。指先が布を掴む感触が、現実を引き留めてくれる。
「先輩が、そこに――」
相沢先生は、結月の指をそっと外した。
「佐伯。君は一人で倒れていたと聞いている」
「そんなはずない!」
結月の声が裏返る。涙が勝手に溜まって、視界が滲んだ。
相沢先生は静かに名簿を取り出した。
こんなときに名簿?と結月は一瞬思った。
けれど先生の手つきは、確かめるように真剣だった。
紙をめくる音がする。
結月の心臓は、その音に合わせて早くなる。
「……三年の名簿、確認する。名前を教えてくれ」
相沢先生は淡々と言った。
結月は頷いて、先輩の名前を教えた。
数秒。
数十秒。
永遠みたいに長い時間。
先生の指が、ページの上で止まった。
そして、先生は顔を上げた。
「佐伯」
「……はい」
相沢先生は、ゆっくり首を振った。
そして、決定打の言葉を落とす。
雨が窓を叩く音が、やけに大きく響いた。まるで世界が、その言葉に頷くみたいに。
「――その名前の生徒は、この学校にはいない」



