空白の卒業アルバム

雨の音が、まだ耳の奥に残っていた。
保健室の白い天井を見上げていると、蛍光灯の光が消毒液の匂いが鼻の奥に刺さって、じわりと滲む。

相沢先生の手にある名簿の紙が、かすかに震えていた。
いや、震えていたのは先生の手じゃなくて、結月の視界のほうかもしれない。

「――その名前の生徒は、この学校にはいない」

先生の声は淡々としていたのに、その言葉だけが刃物みたいに胸に突き刺さった。

「……嘘」

結月の口から出た声は、思ったより小さかった。叫びたかったのに、喉が音を拒んだみたいに掠れている。

「先生、もう一回、見てください。ページ、違うところ――」

「佐伯」

相沢先生が、結月の名前を呼んだ。
怒っているわけじゃない。むしろ、怖がらせないように低く落ち着かせた声。だからこそ、もっと怖かった。

「名簿に載っていない。三年に朝倉陽介という生徒は、いない」

結月の頭の中で、何かがぷつんと切れた。

いない?
そんなはずがない。
雨の日の図書室で、あの人は確かに本を読んでいて。
「結月」と呼んで。
栞をくれて。
渡り廊下で、結月を庇うように抱きしめて。

――抱きしめて、消えた。

「……じゃあ、今、渡り廊下にいたのは誰ですか」

結月の声が震える。
相沢先生は答えない。保健室の先生が、視線をそらす。

「私、ひとりで倒れてたって……みんな言うけど、違うんです。先輩が……」

結月はベッドの端に指を食い込ませた。
爪が白くなるくらい強く握らないと、身体が崩れてしまいそうだった。

「佐伯、今日はもう帰ろう。病院で検査も受けたほうがいい」

「帰れません」

結月は即答した。
帰ったら、全部が夢だったみたいに消えてしまいそうで怖い。

「帰ったら、先輩……」

口にした瞬間、結月は気づく。
先輩と呼んでいるのに、誰もそれが誰かを共有していない。

結月だけが、知っている。
結月だけが、覚えている。

「……先生、写真。出席番号。何でもいいから、先輩の……証拠を――」

「佐伯さん」

保健室の先生が、そっと結月の肩に手を置いた。

「落ち着こう。今は体を――」

「落ち着けません!」

結月の声が跳ねて、喉が痛くなる。
自分の声の大きさに、自分が一番驚いた。

相沢先生が眉を寄せ、名簿を閉じた。

「……今日のところは帰りなさい」

相沢先生は結月の鞄を差し出した。
結月は受け取り、鞄の口を開ける。
教科書の間に、淡い水色が見えた。

「……あ」

付箋。

『雨の日に、また図書室で』

結月はそれを指先でそっと引き抜いた。
紙が、少しだけ湿っている気がした。雨のせいじゃない湿り気。
それは、あの日、先輩が置いていったものだから。

結月はそっと胸ポケットを触った。
栞も、あった。
古い紙の角が、指に当たる。

結月は、胸の奥から息を吐いた。
よかった。
消えてない。
証拠が、ここにある。

その瞬間、涙が滲んだ。
安心したのに、どうして泣きたくなるんだろう。

「……佐伯」

相沢先生が言う。

「それは?」

結月は慌てて付箋を握りしめた。

「……先輩がくれた。……いや、置いていった」

先生は付箋を見ようとしたが、結月は反射的に背中へ隠した。
奪われる気がした。
見せたら、「誰の字?」と聞かれて、「そんな人いない」と言われて、現実が確定してしまう気がした。

結月のそんな反応を見て、相沢先生は一瞬だけ顔を曇らせた。

「……家で休め。今日は」

それだけ言って、先生は保健室を出ていった。