帰りのホームルームが終わるころ。
ぽつり。
窓を叩く音がした。
次の瞬間、雨はあっという間に本気になる。
屋根を打つ音が強くなり、昇降口のほうから傘を広げる音が聞こえた。
結月は、鞄を抱えたまま立ち上がった。
――行く。
図書室へ。
走るほどじゃない。
でも歩くには落ち着かなすぎる。
結月は廊下を早足で進み、階段を上がった。
図書室の引き戸の前で、もう一度深呼吸。
心臓が、速い。
「……失礼します」
小さく言って、そっと開けた。
紙の匂い。
木の匂い。
そして、雨音。
世界が切り替わる。
奥の閲覧席の端。
窓際に近い席。
いた。
朝倉先輩は、今日も本を読んでいた。
机に肘をつき、分厚い本に視線を落としている横顔は、雨の日の図書室に溶け込んで、最初からそこにいたみたいに静かだ。
結月は一歩だけ足を踏み出して、止まった。
近づいたら、言わなきゃいけなくなる。
近づかなかったら、今日も言えない。
結月は鞄の持ち手を握り直した。
指先が少し冷たい。
先輩が、顔を上げた。
目が合う。
結月の息が止まる。
「……来たんだ」
先輩の声は、いつも通り静かだった。
でも、結月にはそれが「待ってた」に聞こえてしまって、胸が熱くなる。
「……来ました」
結月は席の向かいに座って、鞄から一冊の本を取り出した。
先輩が前に読んでいた本だ。
表紙を机に置くと、先輩の目がそこに落ちる。
「……読み終わった?」
「読みました」
「どうだった?」
また、その真剣な目。
結月は胸がぎゅっとなる。
「……最後、ずるいです」
「ずるい?」
「泣くってわかってるのに、ちゃんと泣かされるから」
結月が言うと、先輩は少しだけ目を細めた。
笑ったようにも見えるし、安心したようにも見える。
「君、そういうのに弱い」
「弱いです」
結月は正直に認めた。
言葉にすると、恥ずかしくなるのに。
先輩の前だと、なぜか嘘がつけない。
「でも……好きでした。言えなかったことを、最後にちゃんと言うのが」
結月がそう言った瞬間、先輩の指が、本の背表紙の上で止まった。
空気が、一瞬だけ重くなる。
結月は、言ってから気づく。
言えなかったこと。
最後にちゃんと言う。
それは、今日の結月そのものだった。
先輩は少しだけ視線を落として、それから本をそっと持ち上げた。
「……君は、そういう場面を大事にする」
「だって……言わないままだと、残るから」
先輩の目が、ゆっくり結月のほうへ戻ってくる。
「残る?」
「後悔とか」
先輩は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「先輩」
「うん」
「私、今日……あの……」
喉が固まる。
さっきまでの勢いが、急に消える。
結月が黙ってしまうと、先輩は視線を少しだけ落とした。
それから、机の上の本の端を指でなぞる。
「……雨、強いね」
話題を逸らされた、とわかった。
でも、先輩が気まずさをごまかしてくれているのもわかった。
結月は、頷くしかない。
「……はい。さっきまで降ってなかったのに」
「雨は、急に来る」
先輩がぽつりと言う。
その言い方が、なぜか少しだけ「知ってる」感じがして、結月の胸がきゅっとなる。
「先輩、天気予報みたい」
結月が冗談を言うと、先輩はほんの少しだけ口元を緩めた。
「……そうかな」
先輩は少しだけ目を伏せた。
その睫毛の影が、頬に落ちる。
結月は、今だ、と思った。
「先輩」
「うん」
「私、今日……」
言いかけた瞬間、先輩が、先に口を開いた。
「……結月」
呼ばれた。
下の名前。
結月の心臓が、どくん、と鳴った。
「……はい」
その瞬間、スピーカーから校内放送が流れた。
『本日の図書室はエアコン工事の関係で、間もなく閉館いたします。利用している生徒は、速やかに退室してください』
結月は、固まった。
そんな……!
雨音の中にいると、時間が溶ける。
「……ごめん」
先輩が小さく言った。
結月は首を振る。
「先輩が謝ることじゃないです」
結月は立ち上がり、鞄を持った。
動いた途端に、言えなかった言葉が胸の奥で暴れ出す。
――まだ言ってない。
――今日、言うって決めたのに。
先輩も立ち上がった。
本を閉じ、背表紙を撫でるみたいに整える。
「……行こう」
その「行こう」が、結月の背中を押した。
行こう。
一緒に。
図書室を出る。
引き戸が、静かに閉まる。
廊下の空気は、図書室より冷たかった。
図書室の入口で、結月は先輩の手元を見た。
やっぱり、何も持っていない。
「先輩、傘と鞄は……」
「……ある」
即答なのに、先輩の視線は泳いだ。
結月は思わず言ってしまう。
「ないですよね」
先輩は、困ったみたいに小さく笑った。
「……あるってことにして」
冗談みたいな言い方。
でも、目は笑っていない。
「あの、一緒に帰りませんか。私、先輩が荷物とってくるの待ちますよ」
結月がそう言うと、先輩は静かに首を振った。
「だめ」
「またそれ」
「雨が強くなる前に帰った方がいい。君は、濡れたら風邪をひく」
「先輩だって」
「僕は、平気」
その言い方が、前にも聞いた言葉だとわかって、胸がきゅっとなる。
先輩の袖口は、廊下の湿気の中でも不思議なくらい乾いて見えた。
触れたら確かめられるのに、結月は触れなかった。
雨の匂いが、はっきりする。
窓の外は白く霞んで、校庭の向こうが見えにくい。
傘をさして走る生徒たちの影が、遠くに小さく揺れている。
結月は先輩の横で、言葉の出口を探した。
今。
ここ。
誰もいない。
廊下は、放課後の時間が終わりかけているせいで、ほとんど人気がない。
先生も、もう職員室だろう。
結月は、唇を噛んだ。
「……先輩」
「ん」
「私、今日……」
声が震えた。
自分でもわかるくらい、震えた。
先輩は歩幅を少しだけ落として、結月を見た。
視線が、真っ直ぐだった。
「……言いたいことがあるんだね」
結月は頷いた。
頷いたのに、言葉は出ない。
怖い。
言ったら、何かが変わってしまう。
雨の日だけの関係が、壊れてしまう。
先輩が遠くへ行ってしまう。
でも、言わないままなら、いつか本当に消えるかもしれない。
結月は、胸ポケットの栞を指で押さえた。
紙の角が、指に当たる。
――逃げない。
結月は、息を吸って、口を開いた。
「わたし……先輩のことが――」
そのとき、前方の階段の踊り場に、先生が一人現れた。
「あれ、佐伯?」
相沢先生だ。
結月の喉が、ぴたりと止まる。
相沢先生は結月に手を振りながら、こちらへ近づいてきた。
その視線は、結月の隣にいる先輩には向かない。
結月は、背筋が冷たくなった。
――先輩のこと、見えてない?
先輩のほうを見ると、先輩は少しだけ目を伏せた。
表情が、硬い。
さっきまでのやわらかさが消えている。
そして、先輩の輪郭が、ほんの一瞬だけ薄くなる。
蛍光灯の光が、彼の肩を透けて落ちた気がした。
白い壁の色が、先輩の制服の中に滲むみたいに。
結月は息を呑む。
見間違いじゃない。
だって、目を凝らすほど、先輩の存在が「そこにいない」みたいに揺らぐ。
「佐伯、もう帰るのか。雨、気をつけろよ」
相沢先生の声が、やけに現実的だった。
「……はい」
結月は喉の奥が乾いたまま返事をした。
相沢先生は結月の肩のあたりをぽん、と軽く叩いて、すぐに通り過ぎていく。
その手が、先輩の肩をすり抜ける。
……すり抜けたように見えた。
先生の靴音が、遠ざかっていく。
結月は、先生が角を曲がるのを見届けてから、先輩を見た。
先輩の輪郭は、元に戻っていた。
でも、さっきの揺らぎが、頭から離れない。
「……今、先生……」
結月が震える声で言うと、先輩は結月の言葉を遮るみたいに小さく首を振った。
「……今は、いい」
今は、いい。
その言い方が、まるで「時間がない」みたいで、結月の胸がざわついた。
結月は、ぎゅっと拳を握った。
「でも……」
「結月」
また呼ばれる。
下の名前。
それだけで、口が噤まってしまう。
結月は、自分の鞄の取っ手を握り直した。
昇降口まで行けば、そこで別れる。
そうしたら、今日も言えない。
結月は、ふと、思いついた。
旧校舎へ続く渡り廊下。
あそこを通れば、昇降口まで近い。
けど、人も少ない。
雨の日に靴が濡れるのが嫌で、結月がよく通ってしまう道。
屋根があるから、外を走るよりずっと濡れない。
古い木の床は雨の日に少し滑るけれど、結月はもう足の運び方を知っている。
そして、何より。
あそこなら、誰にも聞かれない。
結月は、心臓が跳ねるのを感じながら、口に出した。
「……先輩、こっち行きましょう」
先輩が結月の視線の先を追う。
渡り廊下。
旧校舎へ続く、古い道。
先輩の表情が、一瞬で変わった。
「……だめ」
即答だった。
結月は、息を呑んだ。
「どうして」
「だめ」
「なんでですか」
結月は、少しだけ声が強くなった。
自分でも驚くくらい。
先輩は、結月の手首を掴みかけて、途中でやめた。
触れようとして、触れない。
その仕草が、苦しそうだった。
「……今日は、そこを通らないで」
今日は。
今日は、って、どういう意味?
昨日はいいの?
明日ならいいの?
結月の頭の中で、疑問が渦を巻く。
でも、今はそれより。
今、言いたい。
結月は、先輩を見上げた。
「先輩、私、今日……言いたいことがあるんです」
先輩の瞳が、揺れた。
「……ここで?」
「ここじゃなくてもいい。でも、今日」
「……」
先輩は、雨の音の向こうを見た。
窓の外の白さ。
遠くの校庭。
誰もいない廊下。
そして、結月の顔に視線を戻す。
「……結月」
呼ばれて、結月の喉が熱くなる。
「君は、……」
先輩が言いかけた、その言葉の続きを、結月は待った。
けれど、先輩は途中で止めた。
唇が、少しだけ動いて、音にならない。
まるで、言ってはいけないことがあるみたいに。
結月は、その沈黙に耐えられなくなった。
怖い。
先輩が、何かを隠しているのが怖い。
何かを言わないまま、消えてしまいそうなのが怖い。
だから結月は、先輩の言葉を待たずに、渡り廊下のほうへ一歩踏み出した。
「……結月」
先輩の声が追ってくる。
結月は振り返らない。
だって振り返ったら、また逃げてしまう。
古い木の匂いがする。
雨の匂いが、窓の隙間から入り込んでくる。
そこに立った瞬間、結月はふっと足を止めた。
隣に並んだ先輩が、さっきからずっと落ち着かない。
結月が口を開こうとした、そのとき。
先輩が、低い声で言った。
「……やめよう」
ぽつり。
窓を叩く音がした。
次の瞬間、雨はあっという間に本気になる。
屋根を打つ音が強くなり、昇降口のほうから傘を広げる音が聞こえた。
結月は、鞄を抱えたまま立ち上がった。
――行く。
図書室へ。
走るほどじゃない。
でも歩くには落ち着かなすぎる。
結月は廊下を早足で進み、階段を上がった。
図書室の引き戸の前で、もう一度深呼吸。
心臓が、速い。
「……失礼します」
小さく言って、そっと開けた。
紙の匂い。
木の匂い。
そして、雨音。
世界が切り替わる。
奥の閲覧席の端。
窓際に近い席。
いた。
朝倉先輩は、今日も本を読んでいた。
机に肘をつき、分厚い本に視線を落としている横顔は、雨の日の図書室に溶け込んで、最初からそこにいたみたいに静かだ。
結月は一歩だけ足を踏み出して、止まった。
近づいたら、言わなきゃいけなくなる。
近づかなかったら、今日も言えない。
結月は鞄の持ち手を握り直した。
指先が少し冷たい。
先輩が、顔を上げた。
目が合う。
結月の息が止まる。
「……来たんだ」
先輩の声は、いつも通り静かだった。
でも、結月にはそれが「待ってた」に聞こえてしまって、胸が熱くなる。
「……来ました」
結月は席の向かいに座って、鞄から一冊の本を取り出した。
先輩が前に読んでいた本だ。
表紙を机に置くと、先輩の目がそこに落ちる。
「……読み終わった?」
「読みました」
「どうだった?」
また、その真剣な目。
結月は胸がぎゅっとなる。
「……最後、ずるいです」
「ずるい?」
「泣くってわかってるのに、ちゃんと泣かされるから」
結月が言うと、先輩は少しだけ目を細めた。
笑ったようにも見えるし、安心したようにも見える。
「君、そういうのに弱い」
「弱いです」
結月は正直に認めた。
言葉にすると、恥ずかしくなるのに。
先輩の前だと、なぜか嘘がつけない。
「でも……好きでした。言えなかったことを、最後にちゃんと言うのが」
結月がそう言った瞬間、先輩の指が、本の背表紙の上で止まった。
空気が、一瞬だけ重くなる。
結月は、言ってから気づく。
言えなかったこと。
最後にちゃんと言う。
それは、今日の結月そのものだった。
先輩は少しだけ視線を落として、それから本をそっと持ち上げた。
「……君は、そういう場面を大事にする」
「だって……言わないままだと、残るから」
先輩の目が、ゆっくり結月のほうへ戻ってくる。
「残る?」
「後悔とか」
先輩は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「先輩」
「うん」
「私、今日……あの……」
喉が固まる。
さっきまでの勢いが、急に消える。
結月が黙ってしまうと、先輩は視線を少しだけ落とした。
それから、机の上の本の端を指でなぞる。
「……雨、強いね」
話題を逸らされた、とわかった。
でも、先輩が気まずさをごまかしてくれているのもわかった。
結月は、頷くしかない。
「……はい。さっきまで降ってなかったのに」
「雨は、急に来る」
先輩がぽつりと言う。
その言い方が、なぜか少しだけ「知ってる」感じがして、結月の胸がきゅっとなる。
「先輩、天気予報みたい」
結月が冗談を言うと、先輩はほんの少しだけ口元を緩めた。
「……そうかな」
先輩は少しだけ目を伏せた。
その睫毛の影が、頬に落ちる。
結月は、今だ、と思った。
「先輩」
「うん」
「私、今日……」
言いかけた瞬間、先輩が、先に口を開いた。
「……結月」
呼ばれた。
下の名前。
結月の心臓が、どくん、と鳴った。
「……はい」
その瞬間、スピーカーから校内放送が流れた。
『本日の図書室はエアコン工事の関係で、間もなく閉館いたします。利用している生徒は、速やかに退室してください』
結月は、固まった。
そんな……!
雨音の中にいると、時間が溶ける。
「……ごめん」
先輩が小さく言った。
結月は首を振る。
「先輩が謝ることじゃないです」
結月は立ち上がり、鞄を持った。
動いた途端に、言えなかった言葉が胸の奥で暴れ出す。
――まだ言ってない。
――今日、言うって決めたのに。
先輩も立ち上がった。
本を閉じ、背表紙を撫でるみたいに整える。
「……行こう」
その「行こう」が、結月の背中を押した。
行こう。
一緒に。
図書室を出る。
引き戸が、静かに閉まる。
廊下の空気は、図書室より冷たかった。
図書室の入口で、結月は先輩の手元を見た。
やっぱり、何も持っていない。
「先輩、傘と鞄は……」
「……ある」
即答なのに、先輩の視線は泳いだ。
結月は思わず言ってしまう。
「ないですよね」
先輩は、困ったみたいに小さく笑った。
「……あるってことにして」
冗談みたいな言い方。
でも、目は笑っていない。
「あの、一緒に帰りませんか。私、先輩が荷物とってくるの待ちますよ」
結月がそう言うと、先輩は静かに首を振った。
「だめ」
「またそれ」
「雨が強くなる前に帰った方がいい。君は、濡れたら風邪をひく」
「先輩だって」
「僕は、平気」
その言い方が、前にも聞いた言葉だとわかって、胸がきゅっとなる。
先輩の袖口は、廊下の湿気の中でも不思議なくらい乾いて見えた。
触れたら確かめられるのに、結月は触れなかった。
雨の匂いが、はっきりする。
窓の外は白く霞んで、校庭の向こうが見えにくい。
傘をさして走る生徒たちの影が、遠くに小さく揺れている。
結月は先輩の横で、言葉の出口を探した。
今。
ここ。
誰もいない。
廊下は、放課後の時間が終わりかけているせいで、ほとんど人気がない。
先生も、もう職員室だろう。
結月は、唇を噛んだ。
「……先輩」
「ん」
「私、今日……」
声が震えた。
自分でもわかるくらい、震えた。
先輩は歩幅を少しだけ落として、結月を見た。
視線が、真っ直ぐだった。
「……言いたいことがあるんだね」
結月は頷いた。
頷いたのに、言葉は出ない。
怖い。
言ったら、何かが変わってしまう。
雨の日だけの関係が、壊れてしまう。
先輩が遠くへ行ってしまう。
でも、言わないままなら、いつか本当に消えるかもしれない。
結月は、胸ポケットの栞を指で押さえた。
紙の角が、指に当たる。
――逃げない。
結月は、息を吸って、口を開いた。
「わたし……先輩のことが――」
そのとき、前方の階段の踊り場に、先生が一人現れた。
「あれ、佐伯?」
相沢先生だ。
結月の喉が、ぴたりと止まる。
相沢先生は結月に手を振りながら、こちらへ近づいてきた。
その視線は、結月の隣にいる先輩には向かない。
結月は、背筋が冷たくなった。
――先輩のこと、見えてない?
先輩のほうを見ると、先輩は少しだけ目を伏せた。
表情が、硬い。
さっきまでのやわらかさが消えている。
そして、先輩の輪郭が、ほんの一瞬だけ薄くなる。
蛍光灯の光が、彼の肩を透けて落ちた気がした。
白い壁の色が、先輩の制服の中に滲むみたいに。
結月は息を呑む。
見間違いじゃない。
だって、目を凝らすほど、先輩の存在が「そこにいない」みたいに揺らぐ。
「佐伯、もう帰るのか。雨、気をつけろよ」
相沢先生の声が、やけに現実的だった。
「……はい」
結月は喉の奥が乾いたまま返事をした。
相沢先生は結月の肩のあたりをぽん、と軽く叩いて、すぐに通り過ぎていく。
その手が、先輩の肩をすり抜ける。
……すり抜けたように見えた。
先生の靴音が、遠ざかっていく。
結月は、先生が角を曲がるのを見届けてから、先輩を見た。
先輩の輪郭は、元に戻っていた。
でも、さっきの揺らぎが、頭から離れない。
「……今、先生……」
結月が震える声で言うと、先輩は結月の言葉を遮るみたいに小さく首を振った。
「……今は、いい」
今は、いい。
その言い方が、まるで「時間がない」みたいで、結月の胸がざわついた。
結月は、ぎゅっと拳を握った。
「でも……」
「結月」
また呼ばれる。
下の名前。
それだけで、口が噤まってしまう。
結月は、自分の鞄の取っ手を握り直した。
昇降口まで行けば、そこで別れる。
そうしたら、今日も言えない。
結月は、ふと、思いついた。
旧校舎へ続く渡り廊下。
あそこを通れば、昇降口まで近い。
けど、人も少ない。
雨の日に靴が濡れるのが嫌で、結月がよく通ってしまう道。
屋根があるから、外を走るよりずっと濡れない。
古い木の床は雨の日に少し滑るけれど、結月はもう足の運び方を知っている。
そして、何より。
あそこなら、誰にも聞かれない。
結月は、心臓が跳ねるのを感じながら、口に出した。
「……先輩、こっち行きましょう」
先輩が結月の視線の先を追う。
渡り廊下。
旧校舎へ続く、古い道。
先輩の表情が、一瞬で変わった。
「……だめ」
即答だった。
結月は、息を呑んだ。
「どうして」
「だめ」
「なんでですか」
結月は、少しだけ声が強くなった。
自分でも驚くくらい。
先輩は、結月の手首を掴みかけて、途中でやめた。
触れようとして、触れない。
その仕草が、苦しそうだった。
「……今日は、そこを通らないで」
今日は。
今日は、って、どういう意味?
昨日はいいの?
明日ならいいの?
結月の頭の中で、疑問が渦を巻く。
でも、今はそれより。
今、言いたい。
結月は、先輩を見上げた。
「先輩、私、今日……言いたいことがあるんです」
先輩の瞳が、揺れた。
「……ここで?」
「ここじゃなくてもいい。でも、今日」
「……」
先輩は、雨の音の向こうを見た。
窓の外の白さ。
遠くの校庭。
誰もいない廊下。
そして、結月の顔に視線を戻す。
「……結月」
呼ばれて、結月の喉が熱くなる。
「君は、……」
先輩が言いかけた、その言葉の続きを、結月は待った。
けれど、先輩は途中で止めた。
唇が、少しだけ動いて、音にならない。
まるで、言ってはいけないことがあるみたいに。
結月は、その沈黙に耐えられなくなった。
怖い。
先輩が、何かを隠しているのが怖い。
何かを言わないまま、消えてしまいそうなのが怖い。
だから結月は、先輩の言葉を待たずに、渡り廊下のほうへ一歩踏み出した。
「……結月」
先輩の声が追ってくる。
結月は振り返らない。
だって振り返ったら、また逃げてしまう。
古い木の匂いがする。
雨の匂いが、窓の隙間から入り込んでくる。
そこに立った瞬間、結月はふっと足を止めた。
隣に並んだ先輩が、さっきからずっと落ち着かない。
結月が口を開こうとした、そのとき。
先輩が、低い声で言った。
「……やめよう」



