空白の卒業アルバム

雨が少し弱まったのは、閉館放送から三十分くらい経ってからだった。

窓の外の白さが薄くなり、雨粒の線が細くなる。
それでもまだ降っているけれど、さっきのような横殴りではない。

結月は時計を見て、立ち上がった。

「そろそろ帰ります」

先輩も本を閉じた。

「僕も」

その僕もが、嬉しかった。

一緒に帰れる、という意味に聞こえてしまう。

結月は内心で心臓を押さえた。

先輩がカウンターへ向かう。
結月も少し遅れてついていく。

その背中を見ているだけで、胸があたたかくなる。

けれど、カウンターの近くで、先輩が足を止めた。

「……佐伯さん」

呼ばれて、結月は顔を上げる。

「はい」

先輩は、ほんの少しだけ迷うように視線を落とした。

「今日は……ありがとう」

「え?」

「雨宿り、付き合ってくれて」

結月は一瞬、言葉を失った。

先輩が、ありがとうって言う。
雨宿りに、付き合ってくれてって。

まるで、先輩のほうが結月を引き留めていたみたいな言い方。

結月は、胸がいっぱいになって、笑うしかなかった。

「……私のほうこそ、ありがとうございます」

「何が」

「……一緒にいられて、嬉しいから」

言ってしまった。

結月は言った瞬間、目を逸らした。
顔が熱い。耳まで熱い。

先輩が何も言わなかったら、どうしよう。
変に思われたら。
引かれたら。

そう思って、怖くて、足元を見た。

そのとき、先輩が小さく息を吐く音がした。

「……僕も」

たったそれだけの言葉が、結月の胸に落ちる。

結月は顔を上げた。

先輩は結月を見ていた。

雨の日の薄暗い図書室で、先輩の目だけが不思議なくらい澄んで見える。

そして先輩は、いつもより少しだけ柔らかい声で言った。

「……結月」

呼ばれた。

下の名前。

結月の心臓が、ひどく強く鳴った。

「……はい」

「栞、失くすなよ」

それだけ言って、先輩は視線を外した。

結月は、返事が遅れそうになって慌てて頷く。

「はい……!」

そのやり取りだけで、結月はもう十分に幸せだった。

図書室の入口で、先輩が先に靴音を立てた。

結月は一緒に出ようとして、半歩遅れてついていく。

ところが。

引き戸の前で、先輩がふっと足を止めた。

「……先に行って」

「え?」

「君、傘ある?」

「あります。……先輩は?」

先輩は一瞬だけ黙った。

「……ある」

でも、結月は先輩の手元に傘がないことに気づく。

「ないですよね」

結月が言うと、先輩は視線を落としたまま、小さく笑った。

「……君、鋭い」

「鋭いじゃなくて、普通に見えてます」

結月は思い切って言った。

「一緒に帰りませんか。傘、入ります?」

言いながら、心臓が暴れる。
一つの傘に二人で入るなんて、そんなの、少女漫画みたいだ。

先輩は戸の向こうの廊下を見た。

雨の音が、そこから少しだけ大きく聞こえる。

先輩はしばらく黙ってから、静かに首を振った。

「……だめ」

「どうして」

結月が小声で聞くと、先輩は答えずに、ほんの少しだけ結月に近づいた。

近い。

結月は息を止める。

先輩が、結月の手の中の傘の柄を見て言った。

「君は、濡れたら風邪ひく」

「先輩だって――」

「僕は、平気」

「平気って……」

結月は納得できない。

でも、その次の瞬間、先輩の視線が、結月の胸元に行った。

栞のある場所。

結月が無意識に栞をしまった胸ポケットを押さえているのを、先輩は見逃さない。

「……雨の日に、また」

先輩が小さく言った。

結月は、はっとした。

あの付箋の言葉みたいに。

結月が口を開こうとした瞬間、廊下の向こうから先生の声がした。

「図書室まだ誰かいるのかー?」

近づいてくる足音。

結月が振り返った、その一瞬。

視界の端で、先輩が動いた気がした。

そして――

結月がもう一度先輩のほうを見たときには、そこに、誰もいなかった。

さっきまで隣にいたはずの気配が、ふっと消えている。

図書室の戸は閉まったまま。
廊下は一本道で、隠れる場所なんてない。
なのに、いない。

結月は呆然と立ち尽くした。

胸元だけが、先輩に呼ばれた名前の余韻で熱い。

「……佐伯?」

背後から声がして、結月はびくっと振り返った。

先生が、廊下の角から顔を出している。

「まだいたのか。もう閉めるぞ」

「あ、すみません……今、出ます」

結月は慌てて頭を下げ、傘を握り直した。

廊下を歩きながら、何度も振り返る。

でも、先輩はいない。

足音もしない。
気配もない。

いるときは静かで、いなくなるときはもっと静か。

結月は、胸元の栞を指先で確かめた。

ある。

先輩が確かにいた証拠が、ここにある。

そのはずなのに、世界のほうが「いなかった」と言い張ってくるみたいで、結月は不安になった。