廊下へ出ると、校舎の中はもうほとんど誰もいなかった。
靴音が響く。雨の匂いが窓の隙間から入り込む。
結月は、旧校舎へ続く渡り廊下の入口で足を止めた。
ここを通れば近道だ。雨の日は靴が濡れるのが嫌で、結月もよく通ってしまう道。
でも今日は、隣を歩いていた先輩がさっきからずっと、目を落ち着かせない。
「……やめよう」
先輩が言った。声が、いつもより低い。
「え?」
「今日は、ここを通らないで」
「でも――」
「結月」
名前を呼ばれて、結月は言葉を飲み込んだ。呼び方が、いつもより切実だった。
結月は笑おうとして、笑えなかった。
「先輩、怖いの?」
冗談のつもりで言ったのに、先輩は首を振った。
「怖いのは、……僕じゃない」
「じゃあ、なに」
「君が、怖い目に遭うのが」
その言葉は、胸にまっすぐ落ちて、呼吸を一瞬止めた。
結月は、先輩の手を見た。
細い指。爪は短く切られている。けれど手の甲には、古い傷みたいな白い線が走っている。
その手が、結月のことを本気で心配している。
結月は、嬉しくて、だからこそ、反抗したくなった。
だって、こんなふうに心配されるのは、特別みたいで――特別だと信じたいから。
「大丈夫だよ」
「……雨の日は滑る」
「ちょっと通るだけなら、いいじゃん」
「だめ」
先輩の声が、さっきより強い。
結月は、先輩の声を聞かずに渡り廊下を歩き始めた。
その瞬間、風が吹いた。
渡り廊下の窓が、雨が横殴りになってガタガタと震える。
結月は反射的に目を閉じる。
「――結月!」
名前を呼ぶ声と同時に、何かが軋む音がした。
古い木材が、耐えきれずに悲鳴をあげるみたいな音。
結月は目を開けた。
天井の隙間から、水が垂れている。蛍光灯が、微かに揺れている。
――上から、落ちてくる。
結月が理解したときには遅かった。
天井の一部。錆びた金具。雨で重くなった木片。蛍光灯のカバー。
それらが、結月の頭上へ向かって一斉に崩れ落ちてくるのが、スローモーションみたいに見えた。
足が動かない。
声も出ない。
雨の匂いと、木の腐った匂いが、喉の奥に詰まる。
結月の身体が、誰かに引き寄せられた。
身体が傾いて、世界が斜めになる。
――あたたかい。
背中に回された腕。結月を包む胸。耳の近くで、息が擦れる。
結月は、彼の制服の匂いを嗅いだ。雨の匂いじゃない。洗剤の匂いでもない。古い紙の匂いに似ていた。
「……大丈夫?」
声がした。すぐそばで。
ガン、と重い衝撃があった。
結月の肩に、何かが当たった感覚。痛みが遅れて走る。
けれど、本当に痛かったのはそこじゃない。
結月の上に覆いかぶさっていた重さが――ふっと、消えた。
音が、遠のく。
雨が、止んだみたいに感じる。
代わりに、耳の奥で、波が引くような音がした。
「……せん、ぱい?」
結月は声を絞り出した。頬に冷たいものが落ちる。雨か、涙か、わからない。
目を開けると、視界いっぱいに雨があった。
渡り廊下の床は濡れて光り、木片が散らばっている。蛍光灯のカバーが割れて、水たまりに沈んでいた。
結月は尻もちをついたまま固まっていた。
――先輩。
さっきまで、ここにいたはずの人の姿が、どこにもない。
結月の身体を抱きしめていた腕も、胸も、消えていた。
結月の肩に残る温度だけが、嘘みたいに熱かった。
「先輩!先輩!」
結月は立ち上がろうとして、足が滑った。濡れた床に手をつく。掌が擦れて、じわりと血が滲む。
でも痛みなんてどうでもよかった。
辺りを見回す。
渡り廊下の向こう。旧校舎の扉。窓。柱の影。
どこにも、いない。
「……嘘でしょ」
喉が震える。目の奥が熱くなる。
「……どうして」
そのとき、遠くから誰かの声がした。
「誰か倒れてる!」
「え、嘘、佐伯じゃない!?」
「先生呼んで!」
結月は顔を上げた。
渡り廊下の入口に、同級生が数人立っている。驚いた顔。心配そうな顔。
結月は、その顔を見て、さらに混乱した。
――今、ここに、先輩がいたのに。
――どうして、みんな、私だけを見るの?
「結月、大丈夫!?」
クラスメイトの真帆が、息を切らして走ってくる。
「なんかすごい音したよ……!」
真帆が結月の肩を掴む。雨の匂いがする。生きている匂いがする。
「真帆……先輩が……」
結月は必死に言った。
「先輩が、ここにいて……落ちてきて……私を……」
「え?」
真帆はきょとんとした。
「結月、誰のこと言ってるの?ここ、誰もいなかったよ。結月、一人で――」
「嘘!嘘だよ、だって――」
「先輩って……誰?結月、落ち着いて。手、血が――」
結月の視界がぐらりと揺れた。
雨音の向こうで、先生の怒鳴る声がする。
「危ないから近づくな!」
騒がしいはずなのに、結月の耳には遠い。
――先輩。
結月は先輩がいた方に向かって伸ばした指先を、途中で止めた。
さっきまでそこにいた人を、掴み損ねたみたいに、手が空を切る。
そのまま、視界が暗く落ちた。
靴音が響く。雨の匂いが窓の隙間から入り込む。
結月は、旧校舎へ続く渡り廊下の入口で足を止めた。
ここを通れば近道だ。雨の日は靴が濡れるのが嫌で、結月もよく通ってしまう道。
でも今日は、隣を歩いていた先輩がさっきからずっと、目を落ち着かせない。
「……やめよう」
先輩が言った。声が、いつもより低い。
「え?」
「今日は、ここを通らないで」
「でも――」
「結月」
名前を呼ばれて、結月は言葉を飲み込んだ。呼び方が、いつもより切実だった。
結月は笑おうとして、笑えなかった。
「先輩、怖いの?」
冗談のつもりで言ったのに、先輩は首を振った。
「怖いのは、……僕じゃない」
「じゃあ、なに」
「君が、怖い目に遭うのが」
その言葉は、胸にまっすぐ落ちて、呼吸を一瞬止めた。
結月は、先輩の手を見た。
細い指。爪は短く切られている。けれど手の甲には、古い傷みたいな白い線が走っている。
その手が、結月のことを本気で心配している。
結月は、嬉しくて、だからこそ、反抗したくなった。
だって、こんなふうに心配されるのは、特別みたいで――特別だと信じたいから。
「大丈夫だよ」
「……雨の日は滑る」
「ちょっと通るだけなら、いいじゃん」
「だめ」
先輩の声が、さっきより強い。
結月は、先輩の声を聞かずに渡り廊下を歩き始めた。
その瞬間、風が吹いた。
渡り廊下の窓が、雨が横殴りになってガタガタと震える。
結月は反射的に目を閉じる。
「――結月!」
名前を呼ぶ声と同時に、何かが軋む音がした。
古い木材が、耐えきれずに悲鳴をあげるみたいな音。
結月は目を開けた。
天井の隙間から、水が垂れている。蛍光灯が、微かに揺れている。
――上から、落ちてくる。
結月が理解したときには遅かった。
天井の一部。錆びた金具。雨で重くなった木片。蛍光灯のカバー。
それらが、結月の頭上へ向かって一斉に崩れ落ちてくるのが、スローモーションみたいに見えた。
足が動かない。
声も出ない。
雨の匂いと、木の腐った匂いが、喉の奥に詰まる。
結月の身体が、誰かに引き寄せられた。
身体が傾いて、世界が斜めになる。
――あたたかい。
背中に回された腕。結月を包む胸。耳の近くで、息が擦れる。
結月は、彼の制服の匂いを嗅いだ。雨の匂いじゃない。洗剤の匂いでもない。古い紙の匂いに似ていた。
「……大丈夫?」
声がした。すぐそばで。
ガン、と重い衝撃があった。
結月の肩に、何かが当たった感覚。痛みが遅れて走る。
けれど、本当に痛かったのはそこじゃない。
結月の上に覆いかぶさっていた重さが――ふっと、消えた。
音が、遠のく。
雨が、止んだみたいに感じる。
代わりに、耳の奥で、波が引くような音がした。
「……せん、ぱい?」
結月は声を絞り出した。頬に冷たいものが落ちる。雨か、涙か、わからない。
目を開けると、視界いっぱいに雨があった。
渡り廊下の床は濡れて光り、木片が散らばっている。蛍光灯のカバーが割れて、水たまりに沈んでいた。
結月は尻もちをついたまま固まっていた。
――先輩。
さっきまで、ここにいたはずの人の姿が、どこにもない。
結月の身体を抱きしめていた腕も、胸も、消えていた。
結月の肩に残る温度だけが、嘘みたいに熱かった。
「先輩!先輩!」
結月は立ち上がろうとして、足が滑った。濡れた床に手をつく。掌が擦れて、じわりと血が滲む。
でも痛みなんてどうでもよかった。
辺りを見回す。
渡り廊下の向こう。旧校舎の扉。窓。柱の影。
どこにも、いない。
「……嘘でしょ」
喉が震える。目の奥が熱くなる。
「……どうして」
そのとき、遠くから誰かの声がした。
「誰か倒れてる!」
「え、嘘、佐伯じゃない!?」
「先生呼んで!」
結月は顔を上げた。
渡り廊下の入口に、同級生が数人立っている。驚いた顔。心配そうな顔。
結月は、その顔を見て、さらに混乱した。
――今、ここに、先輩がいたのに。
――どうして、みんな、私だけを見るの?
「結月、大丈夫!?」
クラスメイトの真帆が、息を切らして走ってくる。
「なんかすごい音したよ……!」
真帆が結月の肩を掴む。雨の匂いがする。生きている匂いがする。
「真帆……先輩が……」
結月は必死に言った。
「先輩が、ここにいて……落ちてきて……私を……」
「え?」
真帆はきょとんとした。
「結月、誰のこと言ってるの?ここ、誰もいなかったよ。結月、一人で――」
「嘘!嘘だよ、だって――」
「先輩って……誰?結月、落ち着いて。手、血が――」
結月の視界がぐらりと揺れた。
雨音の向こうで、先生の怒鳴る声がする。
「危ないから近づくな!」
騒がしいはずなのに、結月の耳には遠い。
――先輩。
結月は先輩がいた方に向かって伸ばした指先を、途中で止めた。
さっきまでそこにいた人を、掴み損ねたみたいに、手が空を切る。
そのまま、視界が暗く落ちた。



