Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する


天井は高く、ガラス越しに朝の光がまっすぐ差し込んでいる。

磨き上げられた床に、やわらかい影が伸びる。

旬はフロントの奥に立つ支配人に、丁寧に頭を下げていた。

「今回は本当にありがとうございました」

落ち着いた声。

背筋はまっすぐ。


さっきまで部屋で見せていた顔とは違う。

仕事の顔。

その少し離れた場所で――

大きなスーツケースを抱えた外国人の旅行客が、困った様子でスマートフォンを見つめている。

眉を寄せ、何度も画面をタップしては首を振る。

スタッフの姿は、近くにない。

希は一瞬、立ち止まる。

声をかけるか、迷う。

けれど。

迷いは、ほんの一秒。

次の瞬間には、もう歩き出している。

「Excuse me. Are you okay?」

自然な発音。

柔らかく、でもはっきりと。

旅行客の顔が、ぱっと明るくなる。

早口の英語で状況を説明する。

交通機関の遅延。

次の目的地への行き方が分からないらしい。

希はうなずきながらスマホを覗き込む。

「I see. Let me check the timetable for you.」

指先が素早く動く。

表情は落ち着いていて、声は安定している。

部屋で甘えていた面影は、どこにもない。

その様子に気づいた旬が、支配人との会話を終えて振り向く。

希の英語が耳に入る。

一瞬、驚く。

そしてすぐに歩み寄る。

「May I help you as well?」

低く、落ち着いた英語。

旅行客は安心したように何度も頷く。

ふたりは、自然に役割分担をする。

視線を交わすだけで十分だった。

希が地図を広げ、ルートを丁寧に説明する。

旬はホテル側に連絡を入れ、タクシーの手配を進める。

無駄のない連携。

言葉は少ない。

でも呼吸は合っている。

数分後。

旅行客は何度も「Thank you so much」と頭を下げる。

心からの笑顔。

スーツケースを引きながら、ロビーを後にする。

自動ドアが静かに閉まる。

ロビーは、また穏やかな朝に戻る。

静かになる。

旬は、隣に立つ希を見る。

「……何者?」

ぽつりと漏れる。

希はきょとんとする。

「なにが?」

「発音」

「普通だよ」

「普通じゃない」

旬は少し笑う。

「ネイティブだった」

希は肩をすくめる。

「芸大のとき、留学生多かったし」

さらっと言う。

特別なことでもない、という顔。

旬は少し黙る。

昨日、ロビーで感じた視線。

さっきの堂々とした英語。

無邪気で、でも芯が強い。

甘えてくるくせに、ちゃんと一人で立てる。

——この人は、どこにいても自分で立てる。

胸の奥に、誇らしさが広がる。

同時に、少しの緊張。

自分の隣にいる存在の確かさに、背筋が伸びる。

旬は小さく言う。

「外でもちゃんとしてるな」

希はにやっと笑う。

「大人のカップルでしょ?」

旬も笑う。

「完敗」

「なにに?」

「俺、ちょっと自慢したくなった」

希の目が丸くなる。

「え?」

旬はそっと手を差し出す。

人目のあるロビー。

さっきまでなら、少し躊躇したかもしれない距離。

でも今は違う。

「俺の彼女」

静かに。

でも堂々と。

宣言みたいに。

希の胸が、じんわり熱くなる。

部屋の中で交わした甘さとは違う。

これは、外での誇り。

隠さないという覚悟。

希はその手を取る。

指を絡める。

「よろしくお願いします」

少しふざけて、でも目は真剣。

旬は笑う。

その時、遠くで。

小さな声。

「……青山不動産の」

誰かが囁いた気がした。

空気が、ほんの一瞬だけ変わる。

旬の目が、わずかに鋭くなる。

仕事の顔。

状況を読む目。

希は気づいていない。

ただ、繋いだ手を見て、少し照れている。

旬は何も言わない。

ただ、握る手に少しだけ力を込める。

守るというより。

共に立つという意思。

ロビーの光は変わらない。

周囲の視線も、ざわめきも、

もう怖くない。

大人のカップル。

それはきっと、

甘さも誇りも、

どちらも隠さずにいられる人たちのこと。