Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する

「旬はどうなの?」

旬が、一瞬だけ止まる。

「なにが」

「私の高校生頃の恋愛話だけさせられて」

少しだけ拗ねた顔。

「ずるいじゃん」

冗談めかして笑う。

でも、目は本気だ。

聞きたい。
でも、聞きたくない。

その揺れを、旬はちゃんとわかっている。

「聞きたいの?」

「……聞きたい」

間。

「でも」

「でも?」

「耐えられるかなって思ってる」

正直な声。

旬は、小さく息を吐く。

逃げないと決めた顔。

「ちゃんと付き合ったのは、三人」

希の指が、ほんの少しだけ強くなる。

離さない代わりに、力がこもる。

旬は、その手を見てから続ける。

「長かったのは、一人」

淡々と。

「他は、うまくいかなかった」

「なんで」

希の声は静かだ。

「俺が本気じゃなかったから」

言い訳はしない。

「好きだったけど、どこかで逃げ道作ってた」

仕事を理由にしたり。
忙しさに甘えたり。

「終わっても、ちゃんと痛くなかった」

その言葉に、希の胸が少しだけ痛む。

痛くならなかった恋。

「でも」

旬は、希の手をぎゅっと握り返す。

「今は違う」

目が、まっすぐに落ちてくる。

「もし終わるって想像しただけで、ちゃんと苦しい」

希の呼吸が、揺れる。

「だから逃げない」

静かな宣言。

「三人いたけど」

少しだけ笑う。

「今までで一番、覚悟いる」

希は、しばらく黙って旬を見る。

過去は消えない。
でも、今はここにある。

「……なんか」

小さく息を吐く。

「思ったより平気だった」

「ほんと?」

「うん」

少しだけ強がり。
でも、ちゃんと受け止められている。

「だって」

希は、旬の胸にそっと額を預ける。

「今、私のこと好きなのは、旬でしょ?」

旬の手が、髪に触れる。

「あたりまえ」

暖炉の火が、またぱちりと鳴る。

過去は、確かにあった。

でも今、手を握っているのは、
互いだけだった。

「大人だね」

希がぽつりと言う。

「普通だろ」

旬は肩をすくめる。

「どんな人?」

少しだけ探るような声。

旬は考える。

「仕事で知り合った人もいるし、大学のときもある」

「好きだった?」

まっすぐな視線。

旬は、ゆっくり頷く。

「好きだったよ」

その一言で、希の胸の奥が、ほんの少しだけ冷える。

「じゃあ」

「うん」

「なんで終わったの」

旬は少し遠くを見る。
暖炉の火の向こう側。

「俺が、仕事優先にしすぎた」

希は黙る。

「向こうが嫌になった?」

「多分」

「引き止めた?」

「引き止めたこともある」

正直に。

「でも、追いかけきれなかった」

希は視線を落とす。

自分は“待たないで”と言われた側。
旬は“離れていかれた”側。

立場が、逆。

「未練は?」

小さな声。

「ない」

即答。

希が顔を上げる。

「ほんとに?」

「ほんとに」

旬は続ける。

「当時は本気だった」

その言葉に、胸がざわつく。

「でも、今思うと」

旬は希を見る。

「どこかで無理してた」

「無理?」

「相手に合わせるとか、期待に応えるとか」

静かな告白。

「ちゃんとしてる自分でいようとしてた」

暖炉が小さくはぜる。

「希といると、それがない」

希の喉が、きゅっと鳴る。

「私、合わせてない?」

「全然」

旬は少し笑う。

「言いたいこと全部言うし」

「それは旬が言わせるから」

「それでいい」

旬は、そっと希の頬に触れる。

「大人の恋愛してきたって思ってる?」

希は少し照れながら言う。

「だって余裕あるし」

旬は首を振る。

「余裕なんかない」

「え?」

「今が一番、怖い」

希の目が揺れる。

「なにが」

「失うのが」

空気が変わる。
軽さが消える。

本音。

「耐えられるかなって言っただろ」

旬は小さく笑う。

「俺のほうが思ってる」

希の胸が、じわりと熱くなる。

「私、そんなに弱そう?」

「強いよ」

「じゃあ」

「強いから怖い」

その意味を、希は理解する。

自立していて。
自分の世界を持っていて。
いなくなっても、生きていけそうで。

旬は低く言う。

「でもさ」

「うん」

「それでも隣にいたいって思うの、初めてかもしれない」

希の目が潤む。

「三人より?」

旬は迷わない。

「比べる対象じゃない」

そして、はっきり言う。

「今までと種類が違う」

「種類?」

「守りたいし、守られたい」

希の息が止まる。

それは、彼女が欲しかった言葉。

一方通行じゃない。
支えるだけでも、支えられるだけでもない。

「私ね」

少しだけ震える声。

「旬が昔、誰かを抱きしめてたって思うと、ちょっと嫌」

正直。

旬は笑わない。
茶化さない。

「わかる」

「わかるの?」

「俺も、ロンドンのやつ殴りたくなった」

希が吹き出す。

「やめて」

「でもさ」

旬の声が、落ち着く。

「過去があるから、今の俺がいる」

希は小さく頷く。

「うん」

二人の呼吸が、ゆっくり重なる。

甘い。
でも静かな、大人の温度。

希が小さく息を吐く。

「ふぅ……耐えた」

旬は微笑む。

「俺も」

暖炉の火が、静かに揺れる。

過去を越えて、
今、向き合っている。

その事実が、何より確かだった。