「……聞こえた?」
低く、探るような声。
希は、ほんの少しだけ笑う。
「うん」
怒ってはいない。
でも、空気の中に、目に見えない薄い膜のような距離が生まれる。
「ちょっとびっくりした」
責める響きはない。
ただ、少しだけ寂しい。
旬はすぐには答えない。
視線を落とし、短く息を吐く。
「言って、希に嫌だなって思われたくなくて」
顔を上げる。
まっすぐな目。
「俺は、俺でいたかった」
その言葉に、希の胸が締めつけられる。
遠ざけたかったわけじゃない。
むしろ逆だ。
怖かったのは、旬の方。
“肩書きで見られること”。
三男。
後継者候補。
青山不動産。
そういう名前の前に、“旬”が消えてしまうこと。
希は静かに言う。
「初めから知ってたら…もしかしたら引いてたかも。でも今はもう戻れないから」
声は穏やか。
本心でもある。
でも——
胸の奥で、小さく何かが揺れる。
この人は、私と同じ世界の人?
育ってきた景色も、選べる未来も、きっと違う。
隣にいるのに、急に少し遠く感じる。
旬は、その揺らぎを読むように、ゆっくり手を伸ばす。
テーブルの上で、希の指に触れる。
強くは握らない。
逃げ道を残すような、触れ方。
「俺は、希の隣にいる俺が一番楽なんだよ」
肩書きも、家も、何も関係ない顔で。
その表情を見た瞬間、
さっき生まれた薄い膜が、少しだけ溶ける。
同じ世界かどうかじゃない。
同じ未来を、選べるかどうか。
ロビーの窓から差し込む光が、
二人の手元をやわらかく照らしていた。
静かになる。
ぱち、と暖炉の火がはぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。
希はそっとカップを置く。
「一応確認するけど青山不動産って、あの?だよね?」
声は落ち着いている。
けれど、ほんの少しだけ距離がある。
旬は数秒、何も言わない。
視線を落とし、小さく息を吐く。
「うん」
それだけ。
言い訳もしない。
ごまかしもしない。
希は続ける。
「三男って……」
「そう」
あまりにもあっさり。
怒られた子どもみたいに、少しだけ肩をすくめて、ふっと笑う。
「この旅館、失敗したな」
希が顔を上げる。
旬は困ったように笑っている。
「ここ、うちがやってる」
「……え?」
「正確にはグループ会社だけど」
あまりに自然に言うから、現実感が追いつかない。
「お帰りなさいませ、って言われたよね?」
希の脳内で、点と点が一気につながる。
支配人の一瞬の緊張。
スタッフの深い会釈。
説明の省略。
全部、理由があった。
旬は後頭部をかきながら言う。
「別のとこにすればよかった」
その声は、本気で少し後悔している。
「……なんでここにしたの?」
希の問いに、旬は迷わない。
「景色が一番いいから」
一拍。
「希に、一番いい景色見せたかった」
言い方が、ずるい。
家の力じゃない。
肩書きでもない。
“選んだ理由”が、ちゃんと希。
希の中でざわついていたものが、ゆっくりと揺れる。
遠いと思った世界が、少しだけ近づく。
この人は、家を見せたかったわけじゃない。
自分が一番好きな景色を、共有したかっただけ。
暖炉の火がまた、ぱちりと鳴る。
低く、探るような声。
希は、ほんの少しだけ笑う。
「うん」
怒ってはいない。
でも、空気の中に、目に見えない薄い膜のような距離が生まれる。
「ちょっとびっくりした」
責める響きはない。
ただ、少しだけ寂しい。
旬はすぐには答えない。
視線を落とし、短く息を吐く。
「言って、希に嫌だなって思われたくなくて」
顔を上げる。
まっすぐな目。
「俺は、俺でいたかった」
その言葉に、希の胸が締めつけられる。
遠ざけたかったわけじゃない。
むしろ逆だ。
怖かったのは、旬の方。
“肩書きで見られること”。
三男。
後継者候補。
青山不動産。
そういう名前の前に、“旬”が消えてしまうこと。
希は静かに言う。
「初めから知ってたら…もしかしたら引いてたかも。でも今はもう戻れないから」
声は穏やか。
本心でもある。
でも——
胸の奥で、小さく何かが揺れる。
この人は、私と同じ世界の人?
育ってきた景色も、選べる未来も、きっと違う。
隣にいるのに、急に少し遠く感じる。
旬は、その揺らぎを読むように、ゆっくり手を伸ばす。
テーブルの上で、希の指に触れる。
強くは握らない。
逃げ道を残すような、触れ方。
「俺は、希の隣にいる俺が一番楽なんだよ」
肩書きも、家も、何も関係ない顔で。
その表情を見た瞬間、
さっき生まれた薄い膜が、少しだけ溶ける。
同じ世界かどうかじゃない。
同じ未来を、選べるかどうか。
ロビーの窓から差し込む光が、
二人の手元をやわらかく照らしていた。
静かになる。
ぱち、と暖炉の火がはぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。
希はそっとカップを置く。
「一応確認するけど青山不動産って、あの?だよね?」
声は落ち着いている。
けれど、ほんの少しだけ距離がある。
旬は数秒、何も言わない。
視線を落とし、小さく息を吐く。
「うん」
それだけ。
言い訳もしない。
ごまかしもしない。
希は続ける。
「三男って……」
「そう」
あまりにもあっさり。
怒られた子どもみたいに、少しだけ肩をすくめて、ふっと笑う。
「この旅館、失敗したな」
希が顔を上げる。
旬は困ったように笑っている。
「ここ、うちがやってる」
「……え?」
「正確にはグループ会社だけど」
あまりに自然に言うから、現実感が追いつかない。
「お帰りなさいませ、って言われたよね?」
希の脳内で、点と点が一気につながる。
支配人の一瞬の緊張。
スタッフの深い会釈。
説明の省略。
全部、理由があった。
旬は後頭部をかきながら言う。
「別のとこにすればよかった」
その声は、本気で少し後悔している。
「……なんでここにしたの?」
希の問いに、旬は迷わない。
「景色が一番いいから」
一拍。
「希に、一番いい景色見せたかった」
言い方が、ずるい。
家の力じゃない。
肩書きでもない。
“選んだ理由”が、ちゃんと希。
希の中でざわついていたものが、ゆっくりと揺れる。
遠いと思った世界が、少しだけ近づく。
この人は、家を見せたかったわけじゃない。
自分が一番好きな景色を、共有したかっただけ。
暖炉の火がまた、ぱちりと鳴る。
