Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する

ロビーは、午後の優しい光に包まれていた。

大きな窓から差し込む淡い日差し。
静かに流れるクラシック。
コーヒーの香りが、やわらかく漂っている。

希はカップを両手で包みながら、まだ少し夢の続きを見ているみたいな気分だった。

そのとき。

「佐伯さん」

低く落ち着いた声。

旬が顔を上げる。
その瞬間、空気が変わった。

さっきまで隣で笑っていた人とは違う。
一瞬で、仕事の顔になる。

「お久しぶりです」

無駄のない笑み。
姿勢も、声の温度も、きれいに整っている。

希は横で静かに座ったまま、その変化を見つめる。

男性は上質なスーツを着こなし、慣れた様子で言う。

「専務もお元気で?」

専務。

その言葉に、希の呼吸がわずかに止まる。

旬は一拍も置かず、淡々と答える。

「はい。相変わらず」

それだけ。

余計な感情を見せない声音。

男性はふと希に視線を向ける。

「ああ、失礼。青山不動産の佐伯さんの……」

そこで言葉を濁す。
だが、もう十分だった。

青山不動産。

テレビで何度も聞いた名前。
都内にいくつもビルを持つ、大手企業。

断片だった情報が、音を立てて繋がる。

昨日の余裕。
レストランでの振る舞い。
自然すぎる自信。

全部、理由があった。

希はカップを持つ指先に、少し力を込める。

知らなかった。
聞いていなかった。

でも——

旬は、何も隠すような顔をしていない。

ただ静かに、仕事の顔のまま、希の存在を当然のように隣に置いている。

それが、逆に胸をざわつかせた。

この人は、どこまでが本当で、
どこまでをまだ見せていないのだろう。

ロビーの光はやわらかいのに、
希の心だけが、少しだけ緊張していた。

ロビーに、静かな間が落ちる。

希はカップを持つ手に、ほんの少しだけ力を込める。
白い陶器が、かすかにきしむ気がした。

旬は、その変化にすぐ気づく。