Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する

深く息を整え、希は扉を開けた。

赤みの残る目元。
それでも、もう泣いていない顔をつくる。

カウンターへ戻ると、旬はビールを一気に飲み干していた。

空になったグラスを置く。

その音が、やけに強く響く。

静かな店内に、硬質な余韻。

旬は立ち上がった。

「場所、変えよう」

低い声。

有無を言わせない響き。

でも、乱暴じゃない。

怒鳴らない。腕も掴まない。

ただ、決めた、という声。

希の荷物を自然に持つ。

その仕草が悔しい。

少し前を歩く背中。

希は追う。

怒ってる?

怒りたいのは、こっちなのに。

どんな言い訳をするの?

それとも、謝るの?

それとも――本当のことを言うの?

答えの予感が怖くて、足音が小さくなる。

タクシー。

ドアが閉まり、外界の音が遮断される。

無言。

エンジン音だけが、低く響く。

希は窓の外を見る。

滲んでいる。

気づかないうちに、涙がまた落ちていた。

止めようとすると、余計に溢れる。

声は出さない。

ただ、静かに。

旬は前を向いたまま。

気づいているはずなのに、触れない。

(なにがあった?)

その言葉を、飲み込んでいる気配。

東京の夜景が流れていく。

見慣れた街。

逃げたいと思った街。

ネオンが遠ざかり、
やがて視界に広がる高層ビル群。

どんどん、空に近づいていくみたい。

タクシーが止まる。

ドアが開く。

見上げる。

タワーマンション。

冷たい光を纏った巨大な建物。


エントランスは、静まり返っている。

ホテルのような空気。

足音がやけに響く。

旬は何も説明しない。

カードキーをかざす。

エレベーターへ。

密室。

二人きり。

数字が上がっていく。

10。
18。
27。

心臓が、その数字と一緒に上がっていく。

最上階近くで、止まる。

小さな電子音。

ドアが、ゆっくり開く。

廊下の奥。

静かな空間。

旬が一歩、外へ出る。

振り向かない。

希は、息を飲む。

ここで何を聞くのか。

何を知るのか。

終わるのか。

それとも――

重い沈黙を抱えたまま、
希も一歩、足を踏み出した。