Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する

グラスの底に残ったワインを飲み干し、希はゆっくり立ち上がった。

「ごちそうさまでした」

静かな声。

終わりを告げるみたいに。

その瞬間――

ドアベルが鳴る。

澄んだ、乾いた音。

反射的に、振り向く。

視線が、ぶつかる。

旬。

息が止まる。

驚きも、安堵も、怒りも、
すべてを飲み込んだ顔。

まっすぐ、こちらを見ている。

「やっとみつけた」

低く、抑えた声。

店の空気が、一瞬で凍る。

逃げ場がなくなる。

旬はそのままカウンターに歩み寄り、希の隣に座る。

距離は、近い。

でも、触れない。

「ビール」

短い一言。

低い。

こんな声、初めて聞いた。

怒鳴っているわけじゃない。

でも、確かにそこにある、抑え込んだ怒り。

希の喉が、ぎゅっと締まる。

呼吸がうまくできない。

「……なんで?」

やっと出た声は、震えていた。

問いかけなのか、拒絶なのか、自分でもわからない。

声を出したら泣く。

わかっている。

だから、これ以上、言葉が続かない。

旬は横目で見るだけ。

答えない。

その沈黙が、余計に苦しい。

大きく深呼吸。

吸って、吐いて。

でも息が浅い。

胸が詰まる。

ここで泣いたら、終わる。

終わらせるって決めたのに。

耐えきれず、希は立ち上がった。

「ごめん、少し…」

言い終わらないまま、店の奥へ。

トイレのドアを閉める。

カチリ、と鍵がかかる音。

その瞬間。

涙が、落ちた。

一粒。

そして、止まらなくなる。

(終わらせるって決めたのに)

鏡の中の自分と、目が合う。

弱い。

強がって、逃げて、
それでも好きで。

好きだった。

どうしようもなく。

頬を伝う涙を拭っても、
次から次へと溢れてくる。

狭い空間に、自分の呼吸音だけが響く。

外では、旬が待っている。

逃げたままではいられない。

わかっている。

それでも――

もう少しだけ。

この涙が止まるまで。

希は、鏡の前で小さく肩を震わせ続けた。