Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する

気づけば、足はNocturneへ向かっていた。

二人の始まりの場所。

はじめて並んで座ったカウンター。
はじめて、名前よりも深い何かを感じた夜。

ドアを押す。

小さなベルが鳴る。

澄んだ音が、胸の奥まで響いた。

カウンターの向こうで、マスターが一瞬だけ目を細める。

「お久しぶりですね」

変わらない、低く穏やかな声。

「そうですね」

希は、できるだけ自然に微笑む。

ひとり。

今日は、ひとり。

いつもの席に腰を下ろす。
彼と並んで座った場所。

マスターは何も聞かず、赤ワインを注いだ。

深い赤が、グラスの中で静かに揺れる。

今日は本を開かない。

いつもなら、ページをめくりながら、彼を待った。
遅れて入ってくる足音に、わざと気づかないふりをした。

でも今日は。

ただ、飲む。

ワインが喉を通るたび、胸の奥がじんわり熱くなる。

(これが最後)

ここに来るのも、
この席に座るのも、
彼を思い出すのも。

グラスを持つ手に、わずかな震え。

そのとき。

スマホが震えた。

カバンの中で、小さく、確かに。

画面が光る。

旬。

一瞬だけ、視線が吸い寄せられる。

でも、見ない。

そのまま、しまう。

光を遮るように。

胸の奥がざわつく。

今ここで出れば、何かが変わるかもしれない。

誤解だと言われるかもしれない。
笑い飛ばしてくれるかもしれない。

でも。

変わらなかったら?

本当だったら?

その答えを聞く勇気は、もうなかった。

マスターがグラスを拭きながら、静かに言う。

「何かありましたか」

柔らかな問い。

逃げ道のある、優しい聞き方。

希は笑う。

完璧な笑顔。

「何も」

嘘。

喉の奥が、きゅっと締まる。

全部、嘘。

平気なふりも、終わらせようとしている強がりも。

でも、もういい。

好きだった。

ちゃんと、好きだった。

それだけで、十分だと思おう。

ワインが、少しずつ減っていく。

スマホは、もう震えない。

カウンター越しの静かな時間の中で、
希はゆっくりと目を閉じた。

終わらせると決めた夜は、
思っていたよりも、静かだった。