Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する

館内が明るくなる。

人が立ち上がり、ざわめきが戻る。

希はしばらく動けなかった。

膝の上で握りしめた手が、白くなっている。

三ヶ月前に戻るだけ。

そう決めたはずなのに。

戻る道は、もうどこにも見えなかった。


勢いのまま、スマホを開く。

何を探しているのか、自分でもわからないまま、指が勝手に動く。

三連休。
空席あり。

行き先――北海道。

一番早い便。

一瞬だけ、躊躇する。

けれど、その一瞬を押し潰すように、画面をタップした。

“購入完了”

無機質な文字が、静かに表示される。

東京から逃げたい。

少しでも遠くに行きたい。

この街には、彼との記憶が多すぎる。

歩いた道。
入ったカフェ。
何気なく見上げた夜景。

どこを向いても、思い出が貼りついている。

深呼吸が、うまくできない。


気づけば、希は街をさまよっていた。

目的もなく、ショッピングモールに入る。

明るい照明。
軽い音楽。
笑い声。

まるで別世界。

店員に勧められるまま、服を手に取る。
似合いますよ、と言われて頷く。

鏡の中の自分は、ちゃんと笑っている。

でも、目だけが空っぽだ。

バッグも買った。
予定のない未来のための、少し高いもの。

それから、食器売り場に足が止まる。

白い皿。
マグカップ。
小さなボウル。

一人分。

なぜか、胸がぎゅっと縮む。

二人分じゃない。

一人分。

カゴに入れるとき、指先が冷たかった。

欲しくない。

何も。

本当は、何も欲しくない。

ただ、心の中の穴を、何かで埋めたかった。

荷物が増えていく。

両手が塞がる。

それでも、空っぽ。

でも何かをせずには居られなかった。

立ち止まったら、崩れてしまいそうで。

部屋にも帰れなかった。

あのソファ。
あのカーテン。
あの夜の残り香。

静かな空間に戻ったら、
きっとまた涙が溢れる。

だから、明るい場所にいる。

人の気配に紛れている。

それでも。

人混みの真ん中で、
希はひどく、ひとりだった。