Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する

午前中、希はいつも通りに仕事をこなした。

パソコンを開き、メールを返し、資料を整える。
打ち合わせでは相槌を打ち、タイミングよく笑った。

「さすがですね」

そんな言葉にも、自然に「ありがとうございます」と返せる。

外から見れば、何も変わらない一日。

けれど、足元が浮いている。

床を踏んでいるはずなのに、地面に触れていない感覚。
自分の声が、少し遠くから聞こえる。

胸の奥だけが、現実だった。

もう、限界。

昼休みを少し過ぎた頃、希はそっと席を立った。
体調不良、とだけ伝えて会社を出る。

冷たい外気が頬に触れる。
それでも頭はぼんやりしたまま。

気づけば、映画館の方へ歩いていた。

はじめて一緒に観た、あの映画。

まだ上映している。

無意識に時間を確認し、チケットを買う。
指先が少し震えていた。

暗い館内。

人はまばらで、静かだった。

希は中央より少し後ろの席に座る。
あの日と、同じあたり。

今度はちゃんと観ようと思った。

あの日は、隣の体温が気になって、
スクリーンよりも横顔ばかり見ていたから。

物語が始まる。

音楽が流れ、光が揺れる。

でも。

やっぱり、入ってこない。

セリフは音として耳に届くだけ。
意味を結ばない。

代わりに蘇るのは、あの日の感触。

暗闇の中で、そっと触れた指先。

肘掛け越しに伝わった、あたたかさ。

肩が触れた瞬間、
どちらからともなく、離れなかったこと。

スクリーンの光よりも、
隣の体温のほうが、はっきり思い出せる。

物語はクライマックスを迎えているらしい。
周りから、鼻をすする音が聞こえる。

やがて、エンドロール。

音楽が静かに流れ始める。

その瞬間。

希の視界が滲んだ。

涙が、止まらない。

内容じゃない。

ストーリーが悲しかったわけでも、
感動したわけでもない。

自分が、情けない。

終わらせようと決めたくせに、
忘れようとしたくせに。

同じ映画館に来て、
同じ席に座って、
同じ温度を探している。

こんなに好きになってしまった自分が、
どうしようもなく、みじめだった。