Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する

希の足音が、路地の奥へ溶けていく。

店内は、元の静けさを取り戻す。

けれど旬の胸の内だけが、
まだわずかに揺れている。

ポケットの中で、スマホが震える。

取り出す。

画面に浮かぶ名前。

木村希。

【今日は偶然に感謝します】

シンプルなメッセージ。

飾らない。

余計な絵文字もない。

でも、あたたかい。

旬はすぐには返さない。

焦ってはいけない。

この関係は、急がないほうがいい。

カウンターに戻り、
さきほどのグラスを見つめる。

赤は、もう半分ほど。

数分後。

短く打つ。

【次は意思で】

送信。

既読はつかない。

それでいい。



マスターが、低く言う。

「……言わないんですね」

布を置きながら、視線はグラスに向けたまま。

旬は動じない。

「何を?」

「オーナーだってこと」

ほんの少しの間。

旬はグラスの中の赤を見つめる。

揺らさない。

ただ、そこにある色を。

そして、静かに笑う。

「必要ないでしょう」

声は穏やかだ。

誇示も、隠す緊張もない。

事実として、そこに置く。

マスターは小さく肩をすくめる。

「驚きますよ、知ったら」

「でしょうね」

少しだけ間。

旬は続ける。

「彼女は“場所”を好きなんだ。
“持ち主”じゃなくて」

照明の高さ。

席の間隔。

余白。

彼女が見ていたのは、そこだ。

肩書きでも、資産でもない。

この空間がどう息をしているか。

そこを見ていた。

それが、嬉しかった。

マスターは何も言わない。

ただ、新しいボトルを棚に戻す。

「珍しいですね」

ぽつりと。

「何がですか」

「あなたが、追う側なの」

旬は少しだけ目を細める。

追っているのかどうかは、わからない。

ただ。

偶然に任せるだけでは
足りないと思っただけだ。