Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する

ドアの前。

夜の空気は少し冷たい。

店内の温度をまとったまま、希が振り返る。

「今日は、楽しかったです」

社交辞令ではない声。

ほんの少しだけ、余韻を含んでいる。

旬は一瞬だけ迷う。

ここで引けば——
また“偶然”に任せる関係。

次に会える保証はない。

けれど、守られる距離は保てる。

でも今日は違う。

胸の奥に、静かな確信がある。

「木村さん」

低い声。

呼び止める響き。

希が振り返る。

視線がまっすぐ合う。

「連絡先、教えて頂けませんか?」

一歩だけ距離を縮める。

押しすぎない。

でも、逃がさない距離。

店の灯りが、二人の間に柔らかく落ちる。

「連絡先を聞くのは、
偶然じゃなくて“意思”ですが」

直球。

でも静か。

責めるでも、拒むでもない。

ただ事実を告げる。

旬は目を逸らさない。


短い言葉。

ごまかさない。

希は数秒、彼を見る。

軽いナンパなら、
もう帰っている。

笑ってかわして、
本を閉じて、終わりにしている。

でもこの人は——
誠実に踏み込んでいる。

「仕事の件ですか?」

少しだけ意地悪。

境界線を確かめる問い。

旬は微笑む。

「それもあります」

“それも”。

つまり、全部ではない。

希の心拍が、ほんの少し上がる。

(危ないな、この人)

理性的で、静かで、
でも逃げ道を残さない。

嫌ではない。

むしろ、心地いい。

バッグからスマホを出す。

画面の光が、夜に淡く浮かぶ。

「ビジネス用です」

一線を引く。

自分を守るための、細い線。

旬は理解している顔で受け取る。

「十分です」

番号を交換する。

指先が、わずかに触れる。

意図せず。

ほんの一瞬。

でも、離れない一瞬。

時間が、伸びる。

どちらも引かない。

触れた指先から、
微かな熱が伝わる。

視線が絡む。

逃げれば終わる。

でも、逃げない。

希が先に息を吐く。

「……では、佐伯さん」

わずかに声が低い。

旬も静かに頷く。

「はい。木村さん」

名前で呼ぶ。

肩書きではなく。

ドアが閉まる。

希の背中が夜に溶けていく。

旬はしばらく動かない。

ポケットの中のスマホが、
やけに重い。

偶然は、二度まで。

三度目は、選択。

そして今——

確かに、選んだ。


ドアが閉まる。