Nocturne(ノクターン)ー美しさは静かに交差する

「お父さん、旬が結婚する人連れてくるって…」

受話器を置いた母のその一言で、リビングの空気が止まった。

「え? あいつそんな人いたの?」

ビールを持ったまま固まる長男。
キッチンにいた次男夫婦も顔を見合わせる。

佐伯家三男・旬。

仕事はできる。顔もいい。
だが恋愛の気配は、これまで一切なかった男。

「まあ、連れてくるって言うなら本気なんじゃないか」

父は新聞をたたみながら静かに言う。
だが口元は、わずかに緩んでいる。

その日、家は正月のような賑わいになった。
兄夫婦、姪、甥、犬まで総出でスタンバイ。

そして——

チャイムが鳴る。

玄関に立っていたのは、スーツ姿の旬。
その隣に、希。

柔らかいのに、凛としている。
派手ではないのに、目を引く佇まい。

「初めまして。木村希です。本日はお招きありがとうございます」

丁寧な声。
まっすぐな視線。

その瞬間。

兄嫁二人が同時に目を見開いた。

「え……Minoの?」

「え、あのMino?」

旬が固まる。

「え? なに、知ってるの?」

兄嫁たちは笑いながらスマホを取り出す。

「旬、知らないの? この子、今めちゃくちゃ注目されてるデザイナーだよ?」

画面には希の名前。
特集記事。
コレクションの写真。

旬の知らない希が、そこにいた。

一瞬、胸がざわつく。

けれど——

姪っ子が、恐る恐る近づいてくる。

「おねえちゃん、かわいい…」

希はすぐにしゃがみ、目線を合わせる。

「ありがとう。あなたのほうが可愛いよ?」

やわらかい笑顔。

——その10分後。

姪は膝の上。
甥は腕にぶら下がり。
犬は足元で完全に腹を見せている。

兄たちが小声で言う。

「旬、奇跡か?」

「どうやって捕まえた?」

旬は涼しい顔をしている。

だが内心は、完全に誇らしい。

食後。

リビングの端にある古いアップライトピアノに、姪がちょこんと座る。

「ねえ、弾ける?」

何気ない一言。

希は少しだけ微笑む。

「少しだけなら」

指先が鍵盤に触れた瞬間、部屋の空気が変わる。

静かな音色。
柔らかいのに、芯のある旋律。

家族のざわめきが、自然と消える。

父が眼鏡を外す。
母が手を止める。

旬は知らなかった。

こんな顔をする希を。

音に溶けるような横顔。
強くて、優しくて、愛おしい。

演奏が終わると、自然と拍手が起こる。

姪っ子が声を張り上げた。

「しゅんくん、けっこんしていいよ!」

満場一致。

兄たちは旬の肩を叩く。

「逃すなよ」

「絶対逃すな」

父は、静かに一言だけ言った。

「大事にしろ」

旬は希を見る。

少し照れながら微笑んでいる。

この人を、この家に連れてきたこと。
この家に、自然に溶け込んでいること。

旬ははっきりと実感する。

——ああ、俺はこの人と家族になるんだ。

帰り道。

車の中は、どこか余韻で満ちている。

旬がぽつりと言う。

「ピアノ、弾けるなんて聞いてない」

希が笑う。

「聞かれなかったから」

信号待ち。

旬はハンドル越しに希を見る。

「俺、知らない希まだいっぱいあるな」

希は少し首を傾ける。

「これから全部見せるよ」

その言葉に、旬は静かに笑う。

「一生かけて見る」

青に変わる信号。

車はゆっくりと走り出す。

ふたりの未来もまた、

静かに、確かに、動き始めていた。