結局、あの後は凪が「急いでるんで」と割って入り、助け船を出してくれた。あの後も豆原さんは事あるごとに「琴葉ちゃ~ん」と琴葉のクラスにやって来て、ちょっとした騒ぎになった。
今は昼休みで、凪が「ここにいたら面倒なことになる気がする」と屋上に続く階段に連れ出してくれて、落ち着いてお弁当を食べられている。
「琴葉も大変だね、変な人に目ぇつけられて」
「凪は豆原さんのこと知ってるの?」
「興味ないから知らない。でも、あの感じはお兄と同族だと思う」
あ~ヤダヤダ。凪は心底嫌そうな顔しながら、何かを追い払うように手を振る。
凪のお兄さんは大晴さんといって、凪曰く、女の子が途切れたことがないという。常に複数の女の子に囲まれていて、大晴さんも女の子を拒まないから、それに怒った彼女さんが平手打ちをする・・・・・・というのも珍しくない光景らしい。
琴葉も一度会ったことがある。凪によく似た綺麗な顔で、「ツンケンしてるけど、悪い子じゃないから仲良くしてあげてね」と両手を握られながら鼻がくっつきそうなほど顔を近づけられて、圧倒されたことを覚えている。すぐに凪に「妹の友達を口説くな!」と蹴りを入れられていたけれど。
まるで、誰かの物語を横から覗いているみたいな出来事が、ずっと続いている。琴葉の身に起こったことが物語の中の出来事だとしたら、自分のポジションは何になるんだろう。
そんなことを考えていたら、昼休みは終わりに近づいてしまった。
「あ、天童さん」
凪と教室に戻ろうとしていたら、理玖と行きあった。
「ちょっと話したいんだけど、いいかな?」
「えっと、その・・・・・・」
首を傾げながら顔を覗き込まれて、琴葉は落ち着かない気持ちになった。いつもは柔らかく笑っている瞳が、真剣な瞳になっていることもあって、心がざわつく。赤くなった顔を見られたくないのに、距離が近すぎて逸らすこともできない。
「萩原さんもいいかな?天童さん借りても」
ふいに理玖が凪の方を見て、琴葉やっと息を吸えた。少しだけ俯いて、赤く染まった頬を隠す。
「・・・・・・琴葉はどうしたいの?」
凪に尋ねられて、琴葉はまだ返事をしていないことに気づいた。
「あ、私に話したいことがあるなら聞きたい・・・・・・です」
「じゃあ、私に許可とる必要ないわ」
先に行ってるね、と凪は教室に戻って行った。
――どうしよう。月島くんの方見られない
二人きりで残されて、琴葉はどうすればいいのか分からなくなった。
「昨日のこと、噂になっちゃってごめんね。迷惑かけちゃったでしょ?」
「あ、いえ、私のことは気にしないでください」
「・・・・・・あのさ、朝のことなんだけど」
理玖が琴葉に一歩近づいた時、後ろから「琴葉ちゃ~ん」と軽薄そうな声が聞こえて、琴葉はぎくりと身を縮めた。
「どこ行ってたの~?教室にいないから探しちゃったよ」
「・・・・・・豆原さん」
琴葉は、顔が引き攣らないように意識して笑顔を浮かべた。
「そんな他人行儀な呼び方止めてって言ったじゃん。旭でいいよ」
ウインクされて、琴葉は曖昧に微笑んだ。どう反応するのが正解なのか全く分からない。すると、理玖が琴葉を庇うように豆原との間に入った。
「今、俺が天童さんと話してるんだけど」
「お~怖い怖い。いつもの王子様スマイルはどこいったの?」
「朝から何?天童さんが怖がってる」
「そんなことないと思うけど。ねえ、琴葉ちゃん」
いきなり話を振られて、琴葉は固まった。
どうしよう。何だかふたりの雰囲気が険悪だ。
あの、と琴葉が口を開こうとした時、予鈴が鳴った。渡りに船とばかりに、琴葉はこう言った。
「あの!予鈴が鳴ったので、授業に戻りませんか」
豆原と理玖が同時に見てきて、琴葉の肩がビクッと上がった。
「な~んだ琴葉ちゃん。そういう所も真面目なんだ~」
豆原がへにゃっとした笑顔になって、琴葉は一息ついた。理玖にも「行きましょう」と声をかけて、歩き出す。
「戻ろう、戻ろう。送ってくから」
「いえ、一人で戻れます」
「そんな遠慮しなくていいからさ」
豆原に腰に手を回されそうになって、琴葉は身を竦めた。思わず目をつぶってしまったけれど、いつまで経っても何も起こらないので、恐る恐る目を開いたら、険しい顔をした理玖が豆原の手を止めていた。
「気安く女の子に触るの止めた方がいい」
「え~そんなつもりないけど。ねえ、琴葉ちゃん」
琴葉が口を開く前に、すかさず理玖が口を開いた。
「君がそんなつもりはなくても、天童さんは怖がってるから止めろ」
理玖は、豆原から琴葉をガードするように間に入ってくれた。理玖に守られている気がして、琴葉の胸の鼓動がとても速くなった。胸が少しだけ苦しかったけれど、そのおかげで、それ以上は豆原にちょっかいをかけられずに済んだ。
「ごめんね。自分でもあんな言い方するとは思ってなかった。怖かった?」
豆原と別れた後、そう聞いてきた理玖に、琴葉は首を振った。
険しい顔でぞんざいな口調の月島くんは、月島くんらしくないと思ったけれど、全く怖くなかった。むしろ、守られている安心感とときめきで、心臓が痛かったくらいだ。
「また今度、ゆっくり話させて」
そう言って自分の席に戻って行く理玖を、琴葉は胸の高鳴りを感じながら見送った。
どうして、月島くんを見ると落ち着かない気持ちになるんだろう。
一挙手一投足が気になって、守られていると感じるたびに胸が高鳴る。
放課後の誰もいない図書室で、琴葉は悶々と考えていた。
豆原さんに腰に手を回されそうになったら身を竦めるのに、もし、あの腕が月島くんだったとしたら――多分、嬉しいと感じると思う。むしろ、あの腕に引き寄せられて、動けないほど抱きしめられたとしたら・・・・・・とまた妄想にトリップしそうになって、琴葉は頭を振った。
今までは、こういう妄想をする時、相手は靄がかかっていて顔は分からないのに、今は月島くんで想像してしまう。
なんて破廉恥なんだろう。内心で理玖に謝りながら、琴葉は本に手を伸ばした。
琴葉の愛読書である、『痴人の愛』を書いた谷崎潤一郎の作品。人間の「愛」や「欲望」を緻密に、官能的に描いた美しい文体に琴葉は虜になっていた。
谷崎潤一郎の別の作品に手を伸ばす。
――と。
「へえ、谷崎潤一郎の鍵、か」
豆原の声が後ろから聞こえて、琴葉は凍りついた。
「知ってるよ。夫婦の性生活を描いた作品でしょ?琴葉ちゃんって純情そうに見えたからこういうの苦手そうだと思ってたけど」
後ろから本棚にとん、と手を突いて、豆原は琴葉の耳に唇を寄せた。
「真面目そうに見えて、実はこういうエッチなのに興味津々なの?」
と、内緒話をするように耳元で囁く。
途端、琴葉はパニックに陥った。
え!?どうしよう、どうすればいいの!?
声が喉に詰まって、上手く言葉が出てこない。頭が混乱したまま、琴葉は咄嗟にしゃがんで豆原の腕から抜け出すと、「ごめんなさい~~!!」と叫んで一目散に逃げ帰った。
