清く正しく美しく


 天童琴葉は花壇に水をやりながら、ぼうっとしていた。



 琴葉の手を引いてくれた細いけれど、力強い手。もう少し話したいと顔を覗き込まれたこと。本の世界のようなことが、現実に起きた。



 くすぐったくて、全部が夢だったような気もして、地に足がついていない。自分がどこにいるのかも見失ってしまいそうだ。



「琴葉。そのままだと制服が濡れるよ」



 凪の声に我に返った琴葉は、慌ててジョウロの傾きを直した。



「おはよう、凪」




 琴葉が挨拶をすると、凪は「おはよう」と短く返してきた。いつもここに来る時は朝練帰りで、ジャージ姿のままであることが多いのに、今日は珍しく制服を着ている。



「朝練は終わったの?」



「今日は休み」



「早いね。いつも朝練ない時は始業ギリギリに来るのに。布団から出たくないって」




 琴葉が凪の嫌そうに言っていた顔を思い出してクスッと笑うと、凪も「まあね」と笑った。水やりを手伝うと言ってくれたけれど、もうほとんど終わっているので大丈夫だと言ったら後片付けを手伝ってくれた。



「琴葉に聞きたいことがあって」



「うん?」



「昨日の、何?月島くんに連れ出されてたけど」



 隣を歩く凪から昨日の出来事を率直に聞かれてしまい、琴葉は動揺のあまり身体がふらついて壁に激突した。



「何やってんの、大丈夫?」



「・・・・・・大丈夫」



 本当は打った左腕がじんじんする。琴葉は左腕を摩りながら、心配そうに見てくる凪に笑いかける。屋上に通じる階段の所で話そう、と凪に提案した。



「自分でもよく分かってないの」



 琴葉がそう切り出したら、凪は怪訝な顔になった。あの後、凪から連絡が来ていたけれど、何と言えばいいのか分からなくて返信できなかった。




「月島くんはどうしてこんなことをしたのか分からないって言ってたし、私も月島くんの気持ちを推し量れない。だから凪に返信できなかったの。ごめんね」



「それは別にいいけどさ。連れ出されてから何してたの?」



「何も。ただお互いのことを少し話して、別れたよ」



 あの後、近くにある公園のベンチで人ひとり分空けて座った。好きな食べの物の話とか、休日は何をしているのかとか、そういう他愛のない話を少しだけした。


 琴葉は緊張で月島くんの方を見られなかったし、上手く話せなかったと思う。



「・・・・・・昨日のあれ、すごい噂になってたよ」



 凪の声のトーンが少し下がった。



「ふたりが付き合ってるんじゃないか、とか他にもいろいろ」



「・・・・・・そっか」



 月島くんは人気者だ。何をしていても女の子たちの視線を集めているし、そんな彼が女の子の腕を引いて走っていたら学校中の噂になるのも仕方ない。



――それが、たまたま私だっただけで



 琴葉のことをよく思わない人たちだって、きっといる。



「私はさ、琴葉のことよく知りもしない人たちが勝手に評価したり、やっかんだりするのが嫌。すっごい嫌」



「・・・・・・凪」



 琴葉は少しだけ口角を上げた。



 いつだって、凪のことを心配させてしまう。でも、こんなに親身になってくれる人は凪以外いない。



 そのことがとても嬉しくて、でも・・・・・・すごく申し訳ない。



 凪と一緒に廊下を歩いていると、途中で登校してきた理玖と会った。



「おはよう、天童さん」



 理玖は爽やかに笑った。何だかいつもより輝きが増している気がして、「おはようございます・・・・・・」と弱々しい声しか出なかった。顔がどんどん熱くなっていっているのが、鏡を見なくても分かる。



 すると途端、周囲にいる人たちが騒つき始めた。好奇心でいっぱいの視線がグサグサ突き刺さってくるようで、ちらほらと「ほら、昨日」「やっぱり付き合ってるのかな?」などと言っている声が耳に入ってくる。



 「月島くん、おはよう。じゃ、私たち急いでるんで」



 凪が琴葉の背中を押してその場から離れようとした時、「お、噂のふたりじゃん」と言いながら男の子が近づいて来た。



 「おたくら、付き合ってんの?」



 と、琴葉と理玖を交互に指さす。突然のことに琴葉が呆気に取られていると、理玖が口を開こうとするのが見えた。



「いえ、違います」



 咄嗟に琴葉は否定した。周囲にいた女の子たちの肩がほっとしたように下がるのが分かった。「な~んだ」と嬉しそうな声が聞こえる。



「そうなんだ。じゃあ、俺が琴葉ちゃんにアプローチしても文句ないね?」



 琴葉の「え?」という声と、凪の「はあ?」という声が重なった。理玖は何も言わずに、男の子を真っ直ぐ見据えている。いつも柔らかい光のある瞳が、初めて違う色を帯びた気がした。



「俺、D組の豆原旭。よろしくね、琴葉ちゃん」



 物語でしか起こらないようなことが、昨日からずっと立て続けに起きている。



 差し出された手を前に、ただ、琴葉は困惑した。