温泉から上がったばかりの身体は、まだ熱を帯びていた。琴葉は手でぱたぱたと頬を扇ぎながら廊下を歩く。窓の外を見ると、青く澄み渡っていた空に、茜色が差している。
昔のことを思い出したり、これからのことを考えたりしていたら、随分時間が経ってしまった。
待たせているかもしれない。そう思って歩みを速めるが、胸が落ち着かず足取りはどこか覚束ない。
部屋の前について、琴葉は一度、目を閉じた。深く息を吸って吐いてから、意を決して扉を開く。
扉を開けてすぐに、スリッパが一足置いてあるのが見えた。
「戻りました。遅くなってすみません」
声をかけながら奥に向かっていたけれど、最後の方が尻すぼみになってしまった。小さく息を呑む。
「おかえり。ゆっくりできた?」
部屋の中でくつろいでいた理玖が、こちらを見る。その姿が、眩しいほど綺麗で、言葉を失った。
普段は上げている前髪が下ろされていて、少しメガネにかかっていた。メガネの奥の瞳が柔らかく細められるのも、いつもと変わらないのに、湯上がりに浴衣を着ているということだけで、いっそう輝いて見える。
「・・・・・・どうしたの?こっちおいでよ」
理玖が隣に敷かれている座布団を軽く叩く。そこで琴葉はようやく我に返った。手に持っていた洋服をカバンにしまい、理玖の隣に座る。途端に、顔に熱が集まってきたのが分かった。
理玖からは、いつもと違う石鹸の香りが漂っている。どこを見たらいいのか分からなくなって、膝の上で組んだ手に視線を落とした。
――と。
理玖が、琴葉の方へ一歩動いた。肩が触れて、その温もりに心臓が跳ねる。
「髪の毛まとめてるの、珍しいね」
「えっ、あ、はい。これから夕ご飯なので」
今日は、髪の毛をバレッタでまとめている。普段、お風呂上がりは下ろしているので、珍しかったらしい。
「そっか」
理玖はそう言いつつ、琴葉の後れ毛を指で摘んだ。
「・・・・・・理玖くん?」
理玖は何も言わず、そのまま、顔を近づけてくる。より濃く理玖の香りがして、息が止まりそうになった時――、ドアがノックされた。
琴葉が固まっていると、「失礼します」と声が聞こえて、理玖が琴葉の髪をぱっと離した。
「ご夕食をお持ちしてもよろしいでしょうか?」
この部屋まで案内してくれた仲居さんが顔を出し、恭しく頭を下げる。琴葉よりも理玖が早く反応した。
「はい。よろしくお願いします」
仲居さんが食事の準備のため、頭を下げて部屋をあとにする。仲居さんの足音が遠ざかるって、部屋の中に静けさだけが残った。
「夕食、楽しみだね」
理玖が、琴葉の頭を撫でながら立ち上がり、向かい側に座り直す。
「・・・・・・はい」
ようやく出せた声は、掠れていた。恐る恐る理玖の方を窺うと、頬杖をついて柔らかく笑いながらこっちを見ていた。
浴衣姿で頬杖をつく理玖は、いつもよりずっと魅惑的に見える。その姿を前にすると、心臓が落ち着かなかった。
しばらくすると仲居さんが戻ってきて、次々に料理を並べていってくれた。夕食は色鮮やかな前菜や郷土料理、お刺身などが並び、とても豪勢だ。
「わあ、美味しそう」
思わず目が輝いて、理玖のくすくす笑う声が聞こえてきた。
「ね、美味しそうだね」
「はい!」
料理はどれも美味しくて、上品な味がした。お刺身は驚くほど新鮮で、口の中で甘みが広がって、箸が進むごとに、琴葉の頬が緩んでいく。さっきまで感じていた緊張も和らいできて、理玖とも他愛ない話が弾んだ。
「この後、庭を散歩してみない?」
食事のお茶を淹れて一息ついていると、理玖が言った。温泉から上がって、旅館の中を歩いていた時に庭を見つけたのだそうだ。
「綺麗だったから、琴葉さんと一緒に見たいなって」
湯飲みを持っていた手を、ぎゅっと握る。琴葉は満面の笑みを浮かべた。
「はい!ぜひ」
理玖が自分と見たいと思ってくれたことが凄く嬉しくて、胸の奥が温かくなった。
