天童琴葉はバレーボールを指がボールに食い込むのではないかと思うほどしっかり持ち、前を見据えた。
目の前には、琴葉よりも大きなネットが立ち塞がっている。
「行きます!」
ボールを上げ、ギュッと目を閉じる。腕を思い切り振った。
手がボールに触れたら、ネットを超えて敵陣に勢いよく飛んでいくはずだった。
――のに、琴葉の手はスカッと空を描いた。テン、テン、テン、とボールの弾む音が虚しく響く。
「あれ?」
チームメイトが一斉に琴葉を振り返り、反射的に「ごめんなさい!」と頭を下げた。
「あ~あ、どうして凪みたいに上手くできないんだろう・・・・・・」
「琴葉は球技が壊滅的だからねえ」
体育館から教室へ戻りながら凪に嘆くと、凪からは気の毒そうな顔をされた。
途中で担任とすれ違い、琴葉は呼び止められた。
「お、天童、いい所に。HRで使うプリント取りに来て配っておいてくれ」
「分かりました」
琴葉がすぐに頷くと、隣の凪が琴葉より一歩前に出た。
「ちょっと先生、いつも琴葉に頼むんじゃなくてたまには他の人にも言ってくださいよ」
「じゃあ、萩原よろしく」
「私だっていつも琴葉と一緒に手伝ってるじゃないですか!」
琴葉は慌てて凪の肩を「まあまあ」と叩くと、凪と担任の間に入った。
「私がやります。お任せください」
すぐに凪が「琴葉」と鋭く呼んだけれど、担任は「じゃあ頼んだ」と言い残して早足に去って行った。
「凪は先に戻ってていいよ」
凪はため息をつくと、しょうがないと言った風に「私も行く」と琴葉に並んで歩き出した。
「ありがとう」
でもごめんね、という言葉は、多分、凪の耳には届かなかった。
「ねえ、天童さん。今日の掃除当番代ってくれない?」
放課後、教科書を整理しながらスクールバッグにしまっていると、クラスメイトである佐藤さんと木下さんから拝みながら頼まれた。
ふたりとも髪の毛を綺麗に巻いていて、爪に乗っているパールが蛍光灯を反射して輝いている。
「ど~うしても外せない用事があるの」
少し離れた所にいる凪がガタッと音を立てながらこちらに来る気配を感じて、琴葉は慌てて答えた。
「いいですよ」
「本当!?ありがとう!!天童さんが掃除当番の時は代わるから」
佐藤さんと木下さんはもう一度琴葉を拝むと、ふたりで楽しそうに教室を出て行った。足取りがとても弾んでいるので、琴葉は「よかった」と思いながら見送る。
――と。
いきなり頬をむにっと掴まれた。目線だけ動かすと、凪の顔が間近に迫る。
「何やってんの!?」
「掃除当番を代ったの」
「前もそうだったじゃん。あの子たち、琴葉に掃除当番押し付けて彼氏と遊びに行ってんだよ!?」
前に「面倒だから天童さんに代ってもらおうよ~」って話してるの聞いたんだから、と凪は憤慨している。
「でも、急いでたみたいだし。それでふたりが幸せならそれでいいよ」
琴葉は凪の腕あたりを宥めるように何度か撫でた。凪は言葉に詰まったように動かなかったけれど、やがて琴葉の頬から手を離した。
「お人好し」
「そうかな?」
「そうじゃなかったら、ただの大バカ。利用されてるだけ」
凪は吐き捨てるように言った。
「そのうち琴葉がやるのが当たり前になって、誰も感謝しなくなるよ」
「感謝されたくてやってるわけじゃないから」
凪は琴葉の顔を見ると、大きなため息を吐いた。
「悪いけど、私部活あるから手伝えないよ」
「うん。凪は部活頑張って」
部活に行く凪を見送り、琴葉は掃除に着手した。チョークの粉にまみれた黒板消しをクリーナで綺麗にしていく。何度も書いては消され、白、赤、黄色がグラデーションのように連なっている幻想的な痕跡を消していった。
凪はすごく心配そうに部活に向かったけれど、誰もいなくなった教室で、静寂に包まれながら綺麗にしていく作業を琴葉は気に入っている。
汚れを綺麗にしていくのは、途中で夢中になって楽しくなる。人前ではできないので、ここぞとばかりに鼻歌を歌いながら黒板の掃除を終わらせ、床を掃くために机の移動をする。
一人で全て運ぶのはさすがに骨が折れる作業だなぁ、なんて考えながら机を持ち上げようとしたら、教室のドアが開いた。
「・・・・・・それを一人で運ぶのは大変なんじゃない?」
琴葉が振り返ると、スクールバッグを肩にかけた理玖がドアにもたれかかるようにして立っていた。逆光で表情はよく見えなかったけれど、心なしかいつもより声が低い気がする。
「月島くん。忘れ物ですか?」
「違うよ」
「え?」
「今日、掃除当番のはずの佐藤さんと木下さんが彼氏らしき人たちと遊んでるのを見て、気になって戻って来た」
琴葉は呆気に取られて、一度だけゆっくり瞬きをした。反応にすごく困った。どう反応したらいいのか分からず、何も言えないし、何もできない。
「俺がやるよ。天童さんは掃いて」
理玖は呆気に取られている琴葉をよそに、琴葉が持ち上げるようとしていた机を軽々と運ぶ。
さっきまで重いと感じていた机がどんどん運ばれている様子と、何より――机を運ぶために制服をまくっているからか、普段は見えない腕が露わになっている。見た目に反して意外と筋肉がついていた。机を持ち上げるたびに浮かび上がる血管にどうしようもなく引きつけられて、目が離せない。
「天童さん?どうしたの」
怪訝そうに顔を覗き込まれて、ハッと我に返った。
「あっ、ごめんなさい。すぐに掃きます」
慌てて近くに置いていた箒を持ち、床を掃いていく。
「運び終わったら俺もやるよ」
「ありがとうございます。すみません・・・・・・手伝わせてしまって」
「俺がやりたくてやってることだから、気にしないで」
優しく微笑みかけられて、何と返せばいいのか分からなかった。それに、すごく顔が熱い。月島くんに見えないように、俯きながら床を掃く。
どうして何も言えないのか、どうして顔が熱くなるのか。何も分からない。初めてのことだらけで、何もかもがままならない。
教室に、床を掃く音と、琴葉の動きに合わせて机を運ぶ音だけが響く。月島くんは片付けまで手伝ってくれた。
「本当にありがとうございました。机を運ぶの、大変だったのですごく助かりました」
月島くんは「このくらいお安いご用だよ」と爽やかに笑った。夕暮れの光が教室に差して、月島くんの髪の毛をキラキラ照らす。とても幻想的な光景だった。
「天童さんはこの後帰るの?」
「はい」
「じゃあ、一緒に帰ろう」
「えっ」
月島くんは琴葉のカバンをさらっと持つと、教室の入り口へ向かった。琴葉は慌てて追いかける。
「カバン、ありがとうございます」
月島くんは廊下で待っていた。琴葉がバッグを受け取ろうとすると、「持ってあげる」と言われた。琴葉が申し訳ないから、と断ると「じゃあこっちを持って」と月島くんのバッグを渡された。琴葉のカバンよりも軽かった。
琴葉が隣に並ぶと、月島くんは琴葉の歩幅に合わせて歩き出した。
「天童さんのカバン、重くてびっくりしちゃった。何が入ってるの?」
「今日の授業の分の教科書とノートが入ってます」
「えっ、全部!?」
琴葉の返答に、月島くんは目を見開いた。いつも爽やかに笑っているところばかり見ているから、彼の驚いた顔は新鮮だった。
「授業の復習と予習をしたいんです」
「すごいね。俺は重いから置いてっちゃうなあ」
琴葉はその日のうちに復習と予習をしないと気が済まないのだ。何もしないでいるのが落ち着かない。
「そっか。天童さんは真面目なんだね」
よく言われます。そう返そうと思ったら、月島くんは「でも」と続けた。
「天童さんが雑用とか当番を代わることを押し付けられてるって思ってないことも、楽しんで引き受けてることも分かってるんだけどね」
さっきとか鼻歌を歌ってて楽しそうだったし。そう付け足されて、琴葉は顔がボッと熱くなった。
「でも、もっと周りを頼ってもいいと思うんだ」
「・・・・・・え?」
「う~ん、上手く言えないんだけど・・・・・・全部自分でやろうとしなくていいんじゃないかな」
琴葉が理玖の顔を見上げると、優しく笑い返された。途端、顔どころか身体中が熱くなった気がして、琴葉は慌てて顔を逸らした。
いつだって「天童さん、これやってくれないかな?」と頼まれてきた。
もっと周りを頼ってもいい。全部自分でやろうとしなくいい。
そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
