洛陽夜曲

ダークブルーの闇を身に纏ったかのような、
愛車の重厚なセダンへと手をかけた鈴華。
その背を追うように、許の切迫した声が静寂を切り裂いた。


「鈴華! どこへ行くつもりだ?
まさか……独りで京都へ乗り込もうというのか!」


その悲鳴に近い問いかけを、彼女は柔らかな沈黙で受け止めた。
振り返った鈴華の唇には、春の夜風に揺れる花びらのような、淡く、
それでいてどこか悟りすました微笑がたたえられている。
それは肯定でも否定でもなく、ただ運命を受け入れた者だけが宿し得る、
静謐なまでの光を放っていた。


「そんなに心配しないで。これでも私、
三合会の『紅棍』を張ってたんだから。忘れたわけじゃないでしょ?」
※紅棍は、香港の犯罪組織三合会において、武闘派の実戦部隊。


鈴華の声音には、隠しきれない鋭利な自信が混じっていた。
許は言葉を詰まらせる。


「知ってるさ。その辺のゴロツキじゃ、
お前の足元にも及ばないことくらい。……けどな」


許の湿った言葉を振り切るように、ドアが硬質な音を立てて閉まる。
直後、アスファルトを震わせてエンジンの咆哮が響いた。
鈴華を乗せた車は、拒絶するように滑り出していった。


「リンファ!!」


背後に置き去りにした許の絶叫は、形を失った空虚な残響となって、
無人の舗装路に吸い込まれていく。

一方で、鈴華の車内は、静寂に支配されていた。
ステアリングを握り締める指先は白く強張り、
アクセルを深く踏み込む足先には、
断ち切れない執着を振り払うかのような力がこもる。

逃れるように速度を上げた機械の塊は、古都・京都を目指して滑らかに、
しかし冷徹に遠ざかっていった。


 一方で京司の視界は、厚い雲に覆われていた。
消えた山城、雲を掴むような薬物の捜査。
そこに自身の自由を奪う結婚という名の現実が、容赦なく突き刺さる。
手がかりは枯渇し、逃げ道は断たれた。
世界は彼に対して、完璧なまでの沈黙を貫いていた。
出口のない迷宮で、彼はただ己の無力さを噛み締めるしかなかった。

 婚約者である梨花との会食。
シェフが心血を注いだはずの極彩色なフレンチも、
今の京司にとっては、ただ無機質な砂を噛み砕く作業に等しかった。
皿の上に横たわる贅を尽くした食材は、
彼の舌を通り過ぎるだけの無意味な記号と化し、
食事という行為は、
ただ生命を繋ぐための単調で空虚な反復運動に成り下がっていた。
梨花の唇からは、絶え間なく言葉が紡ぎ出される。
しかし、その甘やかな響きは、
彼の神経を逆撫でする不快なノイズとして鼓膜を震わせるだけだった。