下町の湿った空気を切り裂くように、
許と鈴華は古びた雑居ビルの群れへと足を踏み入れた。
そこは、看板の類が一切削ぎ落とされた無機質なコンクリートの壁。
唯一、剥げかかった壁に貼り付いた求人広告だけが、
生々しい中国語の筆致で何事かを叫んでいる。
重い扉を抜けると、外界の喧騒は嘘のように消え失せた。
静寂が支配する吹き抜けに、鈴華の打つヒールの音だけが、
まるで冷徹なメトロノームのように鋭く、高く、孤独に響き渡っていた。
四階の突き当たり、澱んだ空気の底にある扉を、許の拳が激しく打ち据えた。
「老师!你在这里吧?是我(先生!居るんだろう?俺だ)」
荒々しい中国語が静かな廊下の壁を震わせ、波紋のように広がっていく。
しばしの死したような沈黙。
やがて、拒絶を諦めたかのように、扉が音もなくその口を開いた。
開いた隙間から、無精髭を蓄えた初老の男が顔を覗かせた。
その吐息には、古びた酒の匂いがまとわりついている。
「你吗……那个不肯死的家伙,还是那么坚强地呼吸着
(お前か……。あのくたばり損ないなら、しぶとく息を繋いでるよ)」
男は二人を室内の闇へと招き入れると、外の世界を拒絶するように執拗に周囲を確かめ、重々しい金属音を立てて再び錠を下ろした。
「おう相棒! まだ死神に見放されているようだな」
許の快活な声が、静まり返った病室の空気を震わせた。
横たわる山城の姿は痛々しい。雪のような包帯と、重々しいギブス。
這い回る管の群れが、彼の命の拍動を機械的に刻んでいる。
「……勝手に弔うな。それより許、その連れは?」
首を動かす自由さえ奪われた山城は、しかしその視線だけを動かし、
影のように寄り添う鈴華を捉えた。
「はじめまして、山城補佐。六穣会に籍を置いています、槇村鈴華です」
その名前が耳に届いた瞬間、感覚を失っていた山城の指先が、
痙攣するように床を叩いた。断線したはずの神経が、
無理やり電気信号を通そうとして火花を散らす。
「六穣会……槇村……。じゃあ、あんたが、槇村会長の……」
「動かないで。身分を明かしたのは、あなたに隠し事をしたくないからです。今はただの、許さんの友人としてここにいます」
彼女の声には、拒絶を許さない独特の静けさが宿っていた。
「事情を話してくれませんか。私が力になれる部分は、少なくないはずです」
山城は苦虫を噛み潰したような顔で、重苦しい沈黙を切り裂いた。
「過分な配慮には痛み入るが……これは九条組の身内の不始末だ。
六穣会の人間である貴女に、口を差し挟まれるいわれはない」
拒絶の言葉を突きつける山城に対し、鈴華は柳に風と受け流し、
その唇に艶やかな、それでいてどこか哀切を帯びた微笑を浮かべる。
「……あいにくと、烏丸の若頭とは……少々ご縁がありまして。
あの方の窮地とあらば、火中の栗を拾う覚悟で参じました」
その口から漏れた京司の名。それは山城の虚を突き、
鉄面皮の下に隠された動揺が、一瞬の視線の揺らぎとなって露わになった。
山城は答えを出せぬまま、重苦しい沈黙に身を沈めていた。
その横顔には、拭いきれない疲労と焦燥がこびりついている。
「……今の山城さんの状態で、
若頭とコンタクトを取るのは現実的じゃありません。
身内さえ信じられない今の状況なら、なおさら。
外部の人間を頼ることは、逃げでも裏切りでもないはずですよ」
「しかし、それは……」
山城が言い淀んだ言葉を、私は遮るように、かつ穏やかに引き取った。
「信じてください。京司さんをこれ以上の窮地に追い込むような真似は、
絶対にしません。それだけは、何に代えても約束します」
許と鈴華は古びた雑居ビルの群れへと足を踏み入れた。
そこは、看板の類が一切削ぎ落とされた無機質なコンクリートの壁。
唯一、剥げかかった壁に貼り付いた求人広告だけが、
生々しい中国語の筆致で何事かを叫んでいる。
重い扉を抜けると、外界の喧騒は嘘のように消え失せた。
静寂が支配する吹き抜けに、鈴華の打つヒールの音だけが、
まるで冷徹なメトロノームのように鋭く、高く、孤独に響き渡っていた。
四階の突き当たり、澱んだ空気の底にある扉を、許の拳が激しく打ち据えた。
「老师!你在这里吧?是我(先生!居るんだろう?俺だ)」
荒々しい中国語が静かな廊下の壁を震わせ、波紋のように広がっていく。
しばしの死したような沈黙。
やがて、拒絶を諦めたかのように、扉が音もなくその口を開いた。
開いた隙間から、無精髭を蓄えた初老の男が顔を覗かせた。
その吐息には、古びた酒の匂いがまとわりついている。
「你吗……那个不肯死的家伙,还是那么坚强地呼吸着
(お前か……。あのくたばり損ないなら、しぶとく息を繋いでるよ)」
男は二人を室内の闇へと招き入れると、外の世界を拒絶するように執拗に周囲を確かめ、重々しい金属音を立てて再び錠を下ろした。
「おう相棒! まだ死神に見放されているようだな」
許の快活な声が、静まり返った病室の空気を震わせた。
横たわる山城の姿は痛々しい。雪のような包帯と、重々しいギブス。
這い回る管の群れが、彼の命の拍動を機械的に刻んでいる。
「……勝手に弔うな。それより許、その連れは?」
首を動かす自由さえ奪われた山城は、しかしその視線だけを動かし、
影のように寄り添う鈴華を捉えた。
「はじめまして、山城補佐。六穣会に籍を置いています、槇村鈴華です」
その名前が耳に届いた瞬間、感覚を失っていた山城の指先が、
痙攣するように床を叩いた。断線したはずの神経が、
無理やり電気信号を通そうとして火花を散らす。
「六穣会……槇村……。じゃあ、あんたが、槇村会長の……」
「動かないで。身分を明かしたのは、あなたに隠し事をしたくないからです。今はただの、許さんの友人としてここにいます」
彼女の声には、拒絶を許さない独特の静けさが宿っていた。
「事情を話してくれませんか。私が力になれる部分は、少なくないはずです」
山城は苦虫を噛み潰したような顔で、重苦しい沈黙を切り裂いた。
「過分な配慮には痛み入るが……これは九条組の身内の不始末だ。
六穣会の人間である貴女に、口を差し挟まれるいわれはない」
拒絶の言葉を突きつける山城に対し、鈴華は柳に風と受け流し、
その唇に艶やかな、それでいてどこか哀切を帯びた微笑を浮かべる。
「……あいにくと、烏丸の若頭とは……少々ご縁がありまして。
あの方の窮地とあらば、火中の栗を拾う覚悟で参じました」
その口から漏れた京司の名。それは山城の虚を突き、
鉄面皮の下に隠された動揺が、一瞬の視線の揺らぎとなって露わになった。
山城は答えを出せぬまま、重苦しい沈黙に身を沈めていた。
その横顔には、拭いきれない疲労と焦燥がこびりついている。
「……今の山城さんの状態で、
若頭とコンタクトを取るのは現実的じゃありません。
身内さえ信じられない今の状況なら、なおさら。
外部の人間を頼ることは、逃げでも裏切りでもないはずですよ」
「しかし、それは……」
山城が言い淀んだ言葉を、私は遮るように、かつ穏やかに引き取った。
「信じてください。京司さんをこれ以上の窮地に追い込むような真似は、
絶対にしません。それだけは、何に代えても約束します」
