洛陽夜曲

鈴華の心に影を落としていた不安は、許が告げた別人の名によって、
霧散していった。
京司ではない…。その事実だけで、彼女の表情が和らいだ。


「それで、相談というのがな……」


許は苦い薬を飲み込むような顔で、言葉を継いだ。

「山城の奴が、どうしても九条組の若頭に繋ぎたいと言って聞かないんだ。
だが、あの組織の連中を毛ほども信用しちゃいない。
かと言って、俺のような堅気がのこのこ出向いたところで、
門前払いが関の山だろう…どうしたもんかと思ってなぁ…」

彼はやるせなさを振り払うように、コップに満ちたビールを煽った。
喉を鳴らして落ちていく液体が、重苦しい沈黙をいっそう際立たせた。

(あの人が身内を背中から撃つようなまねをするはずがないわ)


「…山城さんの件、若頭は無関係なのね」


鈴華の呟きに、許は短く肯定を返した。


「ああ、間違いない。山城は若頭の直命で動いていたんだ。
それに、山城が組織で唯一、全幅の信頼を置いている相手だからな」


許の言葉を聞き、鈴華はしばし、隣で思考の海に沈んだ。
彼女の横顔には、納得と、拭いきれぬ一抹の不安が、淡い影を落としていた。

(もし組織ぐるみで動いているとしたら…京司さんも既に監視下に置かれていてもおかしくないわ。山城さんを直接合わせるのはリスクが大きすぎる…)


「……山城さんと、直接。お話しさせていただけないかしら」


鈴華の瞳に宿る決意の光に、許は呑みかけの息を止めた。
数秒の長い逡巡の後、彼は重い口をゆっくりと開く。


「……お前が裏切るとは思っちゃいない。
だが山城と会って一体どうするつもりだ?」

「……私が若頭に会いに行くわ」


その一言が、静止した空気を切り裂いた。
許の手から滑り落ちかけた硝子のコップが、彼の動揺を饒舌に物語る。


「馬鹿なことを言うな!
俺は、お前をそんな火中の栗を拾わせるために頼ったんじゃねぇ!」


許の声には、焦燥と、それ以上に重い「恐怖」が滲んでいた。


「それにお前の身に万が一のことがあれば、
俺は…宏一さんに殺されちまうよ。冗談はやめてくれ、鈴華」

「そんなに怯えないで。責めてるわけじゃないのよ。
……若頭にどう通すかはこっちで考えるから、
とりあえず山城さんに会わせて。傷は…酷いの?」


「まあな。今は知り合いの闇医者のところで、
なんとか息を吹き返して療養中だよ」


納得のいかない様子ながらも、許は渋々山城の元へ鈴華を案内した。