「鈴華(リンファ)……ちょっといいか」
雑踏に混じって届いたのは、聞き慣れた母国の発音だった。
声をかけてきたのは許(ホイ)。この街の六穣会の縄張りで、
小さな中華料理店を実直に切り盛りしている男だ。
同じ中国出身という縁もあり、
彼は何かと鈴華のことを気にかけてくれていた。
許は警戒するように一度あたりに視線を走らせると、
足早に距離を詰め、声をひそめた。
「ちょっと相談があるんだ。……今、少しだけ時間をもらえるか?」
その硬い表情と、湿り気を帯びた低い声。
ただごとではない気配が、夜の空気を通じて鈴華に伝わってきた。
「えっ……? ええ、構わないけれど。何か、トラブルでも?」
六穣会の無機質な縄張りの中にあって、同郷という見えない絆に頼る、
同胞たちが鈴華のもとへ救いを求めてやってくるのは、
もはや日常の風景といっていい。けれども今日の様子はいつもと
異なっていた。
「……ここでは何だ。店へ行こう」
男は短く応じ、自身の営む小ぶりな中華料理店へと彼女を促した。
暖簾をくぐれば、使い込まれた煮炊きの匂いが鼻腔をくすぐる。
「何か飲むか? それとも、腹に溜まるものでも作ろうか」
「いいえ、お気遣いなく。……それで、本題は何?」
鈴華の促しに、男はカウンターの向こう側から這い出すようにして
彼女の隣へと腰を下ろした。
肺の奥に溜まった澱みをすべて吐き出すかのような、重苦しい溜息。
次の瞬間、彼は岩が崩れるように深く頭を垂れた。
「……俺の友人を、助けてやってほしいんだ」
その声は、湿った夜の底に響く祈りのようでもあった。
「同胞、なの?」
「いや……違う。日本人だが、ガキの頃からの腐れ縁でね。
今は、京都で極道に身を置いている」
「京都……」
その地名が唇から零れた瞬間、鈴華の瞳の奥で微かな火花が散った。
過去の断片が意識の表層を掠めたのかもしれない。
だが、それも一瞬のこと。彼女は即座に感情のさざ波を押し殺し、
いつもの硬質な仮面を被り直した。
「その人、……何かマズいことでも抱え込んでるの?」
「うん、まあね。先日襲撃されたらしくて、
今ある場所に身を隠しているんだ」
「抗争……? もしそうなら、私が首を突っ込むわけにはいかないわ。
組織の垣根を越えるのは、この世界の禁忌なんだから」
「いや……そういうのじゃないらしいんだが…。
身内――それも、組長に直接消されかけたって話だ」
その言葉を聞いた瞬間、鈴華の顔から表情が消えた。
鏡のような静寂が彼女を包み、張り詰めた空気が肌を刺す。
「組織の中で、そこまで致命的なミスを犯したということ?」
「そいつ……九条組っていうとこの組員なんだが」
「九条組……」
つぶやいたその名が、鈴華の胸の奥底で燻っていた小さな火種を叩き起こした。忘れかけていたはずの、ざらついた感情が再び熱を帯びていく。
けれど、再燃した高揚感をかき消したのは、
泥のように重く冷たい不安だった。
(京司さん……)
血なまぐさい渦の中に引きずり込まれた彼の姿を想像し、
彼女は奥歯を噛みしめた。
「その方……なんていう名前?」
「名前?ああ……山城。山城仁っていうんだ」
雑踏に混じって届いたのは、聞き慣れた母国の発音だった。
声をかけてきたのは許(ホイ)。この街の六穣会の縄張りで、
小さな中華料理店を実直に切り盛りしている男だ。
同じ中国出身という縁もあり、
彼は何かと鈴華のことを気にかけてくれていた。
許は警戒するように一度あたりに視線を走らせると、
足早に距離を詰め、声をひそめた。
「ちょっと相談があるんだ。……今、少しだけ時間をもらえるか?」
その硬い表情と、湿り気を帯びた低い声。
ただごとではない気配が、夜の空気を通じて鈴華に伝わってきた。
「えっ……? ええ、構わないけれど。何か、トラブルでも?」
六穣会の無機質な縄張りの中にあって、同郷という見えない絆に頼る、
同胞たちが鈴華のもとへ救いを求めてやってくるのは、
もはや日常の風景といっていい。けれども今日の様子はいつもと
異なっていた。
「……ここでは何だ。店へ行こう」
男は短く応じ、自身の営む小ぶりな中華料理店へと彼女を促した。
暖簾をくぐれば、使い込まれた煮炊きの匂いが鼻腔をくすぐる。
「何か飲むか? それとも、腹に溜まるものでも作ろうか」
「いいえ、お気遣いなく。……それで、本題は何?」
鈴華の促しに、男はカウンターの向こう側から這い出すようにして
彼女の隣へと腰を下ろした。
肺の奥に溜まった澱みをすべて吐き出すかのような、重苦しい溜息。
次の瞬間、彼は岩が崩れるように深く頭を垂れた。
「……俺の友人を、助けてやってほしいんだ」
その声は、湿った夜の底に響く祈りのようでもあった。
「同胞、なの?」
「いや……違う。日本人だが、ガキの頃からの腐れ縁でね。
今は、京都で極道に身を置いている」
「京都……」
その地名が唇から零れた瞬間、鈴華の瞳の奥で微かな火花が散った。
過去の断片が意識の表層を掠めたのかもしれない。
だが、それも一瞬のこと。彼女は即座に感情のさざ波を押し殺し、
いつもの硬質な仮面を被り直した。
「その人、……何かマズいことでも抱え込んでるの?」
「うん、まあね。先日襲撃されたらしくて、
今ある場所に身を隠しているんだ」
「抗争……? もしそうなら、私が首を突っ込むわけにはいかないわ。
組織の垣根を越えるのは、この世界の禁忌なんだから」
「いや……そういうのじゃないらしいんだが…。
身内――それも、組長に直接消されかけたって話だ」
その言葉を聞いた瞬間、鈴華の顔から表情が消えた。
鏡のような静寂が彼女を包み、張り詰めた空気が肌を刺す。
「組織の中で、そこまで致命的なミスを犯したということ?」
「そいつ……九条組っていうとこの組員なんだが」
「九条組……」
つぶやいたその名が、鈴華の胸の奥底で燻っていた小さな火種を叩き起こした。忘れかけていたはずの、ざらついた感情が再び熱を帯びていく。
けれど、再燃した高揚感をかき消したのは、
泥のように重く冷たい不安だった。
(京司さん……)
血なまぐさい渦の中に引きずり込まれた彼の姿を想像し、
彼女は奥歯を噛みしめた。
「その方……なんていう名前?」
「名前?ああ……山城。山城仁っていうんだ」
