洛陽夜曲

「ふふふ……。ほんとに早緑さんたら」

鈴華の唇からこぼれた久方ぶりの笑い声は、
夕暮れの湿り気を帯びた風に洗われ、透き通ったまま消えていった。
その横顔を、早緑は、慈愛を含んだ眼差しで見つめている。


「お嬢……お嬢は、もっと欲深く生きてええんやで?」


諭すような声が、二人の間の狭い空気を震わせた。早緑の言葉は、
まるで静かな水面に落とされた一滴の墨のように、ゆっくりと、
確実に広がっていく。


「たとえ今の環境が、他人様から恵んでもろた
『借り物の居場所』やったとしてもや。
もっと欲しい、もっと満たされたいって願うて、
一体誰が悪いって言うんや?欲こそが、人が生きる証なんやから」

「生きる……証……」


鈴華の唇から零れ落ちたその言葉は、鈴華の心の奥底、
硬く閉ざされていたはずの琴線を震わせ、切ないまでの共鳴を呼び起こした。

 事務所へと引き返す早緑の背は、秋風に冷やされ微かに震えていた。
迎え入れたのは、規則的に刻まれる打鍵音と、冷徹なまでの静寂だった。


「——どうだった。鈴華の様子は」


宏一は視線をディスプレイに固定したまま、
キーボードを叩く指を止めることなく問いを投げかける。


「なーんも……。お嬢、
もともと自分の内側を語るような言葉は持ち合わせとらんからなぁ」

早緑は力なく笑みを浮かべ、はぐらかすように答えた。
湿り気を帯びたその声は、事務所の乾いた空気に溶け、
行き場を失ったまま消えていった。


「そんなに気になるんやったら、
カシラが直接聞きはったらよろしいやん……。
なんやかんや言うても、血は…分けたわけやないけど兄妹なんやから」


早緑が投げた言葉に、宏一の指先が初めてその無機質な運動を止めた。


「家族だからこそ……言いたくない秘め事ってのがあるとは思わないか?」


その問いかけは、早緑に投げられたようでいて、
自らの深淵を覗き込む独白のようでもあった。


「……そういうもんなん?」


家族という絆に縁遠く、その温もりも呪縛も知らぬ早緑にとって、
宏一の紡いだ言葉は、
霧の向こう側に浮かぶ実体のない輪郭のようにしか感じられなかった。


「もし鈴華に何かあったとしても、俺だけはあいつの帰る場所でいたい。
……そう願ってる」

独り言ちる宏一の横顔に、早緑は言葉の体温を感じた。
それは愛という名の執着よりもずっと深く、祈りにも似た慈しみ。
己の想像を遥かに超えるその情愛の深淵に触れ、
早緑の胸には静かな、けれど抗いようのない波紋が広がっていった。