洛陽夜曲

彼女の内側にある景色は、あの雨の夜を境に一変していた。
網膜に映るすべてが、まるで彩度を極限まで落とした古い映画のように、
砂嵐混じりのモノクロームへと変色している。
京司という、自分の世界を定義づけていた絶対的な座標を失った今、
この場所がどこであろうと、世界の果てであろうと、
彼女にとっては大した違いはなかった。
日常という名のシステムは、
彼女の意志を置き去りにしたまま、精緻な歯車を回し続ける。
そのあまりに滑らかな回転が、かえって残酷だった。
支柱を失い、がらんどうになった胸を、
冷たい事務処理の音だけが虚しく通り抜けていった。


「お嬢」


冬の気配を孕んだ夜風が、
ビルの屋上で独り天空を仰ぐ鈴華の髪を揺らしていた。
その静寂を破り、背後から投げかけられたのは早緑の、
どこか湿度を含んだ声だった。


「早緑さん……」


振り返る鈴華の視線の先で、
早緑はビルを駆け上がる突風に小さく身を震わせた。


「寒っ……。もう、冬の足音がすぐそこまで来とるなぁ」

「ふふ。早緑さんは、昔から寒さには弱かったものね」


慈しむような鈴華の微笑に、早緑は自嘲気味な笑みを返した。


「そうやなぁ。隙間風どころか、
寒空の下と変わらんようなあばら家で育ったからなぁ。
どれだけ月日が流れても、この骨身に染みる寒さだけは、
どうしても好きになれんわ」


早緑は身を屈め、掌で小さな風除けを築きながら、煙草の先に火を灯した。
揺れる残り火がその横顔を淡く焦がす。


「……なんかあったん?」


その問いは、隣にいる鈴華へと向けられたものではなく、
眼下に広がる街の喧噪へと溶けていく独り言のようだった。


「……どうして?」

「なんとなく、そう見えただけや。言いたうないこともあるやろうし……
無理にとは言わんけどな」


紫煙は風に千切られ、鉄柵の向こう側へと吸い込まれていく。
饒舌な夜景を前に、二人の間にはただ、
重みを増した沈黙だけが横たわっていた。


「……気づかなかった。私、随分と身の丈に合わない贅沢に溺れていたのね」


鈴華の独白に、早緑は怪訝そうに眉を寄せた。
彼の記憶に刻まれた彼女は、常に慎ましやかで、
華美な色を拒むように生きていたからだ。
その清貧な指先が何を『贅』と呼ぶのか、彼には見当もつかなかった。


「何や、高いもんでも欲しゅうなったんかいな」


早緑の軽口を、鈴華は困り果てたような、
だが慈しむような微笑で受け流した。


「…九龍という名の深い淵から、槇村の父が私を掬い上げてくれた。
清潔なベッドに、飢えを知らない食事。汚れ一つない服。
九龍の路地を這いずり回っていた日々が、まるで遠い前世の記憶のよう…。
…もうこれ以上の望みを口にすることは、過ぎた贅沢だって…
今更ながら気づいたのよ」

鈴華の独白を静かに受け止めていた早緑は、
指に挟んだ煙草を灰皿に押し付け、未練を断つように火を消した。
不意に顔を上げた彼の瞳には、少年のような無邪気な光が宿っている。


「俺の望みは、そこらの奴らとはスケールが違うんや!」


天を仰ぐようにして、彼はからりと笑った。


「天王寺の一等地に城を構え、絶世の美女を妻に娶る。
子供は三人は欲しいな。フェラーリのアクセルをふかして、
USJをまるごと貸し切って遊び倒すんや!
お嬢、あんたも招待したるわ。仕上げに油田の一つも買い叩いて、
石油王になるんやから!」

呆れるほどの強欲を並べ立てるその姿は、
暗い淵を覗き込んでいた彼女の手を引き、
無理やりにでも眩い地上へと連れ戻そうとしているようだった。