深い、深い闇の底。
何も聞こえないはずの場所で、不意に耳に届いたのは、さらりと衣の擦れる音だった。
「…………っ、……ぁ」
掠れた吐息が、喉の奥から漏れる。
重い瞼をこじ開けると、そこは上下も左右もわからない、底なしの暗闇だった。
「ここ……どこ?」
起き上がろうとしても、自分の体が羽のように軽い。
心臓の鼓動も、指先の痺れも感じない異様な感覚に、彼女は乾いた笑いを漏らした。
「はは……ここが地獄ってやつ……?」
「地獄? 心外だな。せっかく君に、一生分の『特別手当』をあげようと思って待っていたのに」
「!? ……だ、誰っ!?」
不意に背後から声をかけられ、桜は飛び上がって振り返った。
そこには、白い着物を着流し、新月のように真っ黒な瞳をした男が立っていた。
「な、何……? コスプレ? ……っていうか、ここどこですか! 私は仕事の続きがあるんですけど!」
必死に日常にしがみつこうとする桜の声が、虚空に響く。
男は、耳障りな音でも聞いたかのように面倒くさそうに耳を掻き、薄い唇を開いた。
「仕事、仕事って……君ねぇ。そんなにその『残業』とやらが恋しいのかい?」
「恋しくないですよ! でも終わらせないと上司がうるさいんです! 早く戻して――」
「無理だよ。君はもう、あっちの世界の住人じゃない」
朔がパチンと指を鳴らす。
すると、闇の中に巨大なスクリーンのような光が浮かび上がり、そこにはデスクに突っ伏したままピクリとも動かない、変わり果てた自分の姿が映し出された。
「……あ」
「心臓が止まったんだ。過労、だったかな。君たち人間は、本当に命の使い方が下手だね」
自分の死体を突きつけられ、桜の膝から力が抜ける。
その様子を冷めた目で見つめながら、男は静かに名乗った。
「私の名は『朔(さく)』。……君たち人間が言うところの、神という存在だ。新月の夜のように、何もない場所を管理している」
自称神様の男、朔は、闇の中から一冊の黒い手帳を取り出し、桜の目の前に浮かべた。
「さて、死んでなお仕事を気にする哀れな社畜さん。君には使い道のない『有給休暇』が八十日分も残っている。このまま無に帰すか、それとも――その命(ゆうきゅう)を対価に、君の望む世界へ、君の望む彼に会いに行くか。……選ばせてあげよう。どうする?」
「……行けるんですか。あの方の、そばへ」
「ああ。ただし、タダじゃない。君が向こうで『奇跡』を望むたび、その手帳から有給が引かれていく。全部なくなれば、君という存在そのものが今度こそ消滅する。……それでも、行くかい?」
朔は三日月のような薄笑いを浮かべ、桜の覚悟を試すように覗き込んだ。
「お願いします。送り届けてください。どうせ捨てようと思っていた命です。彼のために一秒でも使えるなら、これ以上の『福利厚生』はありませんから」
桜は迷うことなく、その黒い手帳を強く掴み取った。
朔は一瞬目を見開き、その後、腹を抱えて愉快そうに笑った。
「くっ……あははは! 狂ってるね! 気に入ったよ。……じゃあ、行ってきなよ、狂信者の社畜さん…」
「君の有給、承認してあげよう」
朔の声を最後に、浮遊感は凄まじい衝撃へと変わった。
何も聞こえないはずの場所で、不意に耳に届いたのは、さらりと衣の擦れる音だった。
「…………っ、……ぁ」
掠れた吐息が、喉の奥から漏れる。
重い瞼をこじ開けると、そこは上下も左右もわからない、底なしの暗闇だった。
「ここ……どこ?」
起き上がろうとしても、自分の体が羽のように軽い。
心臓の鼓動も、指先の痺れも感じない異様な感覚に、彼女は乾いた笑いを漏らした。
「はは……ここが地獄ってやつ……?」
「地獄? 心外だな。せっかく君に、一生分の『特別手当』をあげようと思って待っていたのに」
「!? ……だ、誰っ!?」
不意に背後から声をかけられ、桜は飛び上がって振り返った。
そこには、白い着物を着流し、新月のように真っ黒な瞳をした男が立っていた。
「な、何……? コスプレ? ……っていうか、ここどこですか! 私は仕事の続きがあるんですけど!」
必死に日常にしがみつこうとする桜の声が、虚空に響く。
男は、耳障りな音でも聞いたかのように面倒くさそうに耳を掻き、薄い唇を開いた。
「仕事、仕事って……君ねぇ。そんなにその『残業』とやらが恋しいのかい?」
「恋しくないですよ! でも終わらせないと上司がうるさいんです! 早く戻して――」
「無理だよ。君はもう、あっちの世界の住人じゃない」
朔がパチンと指を鳴らす。
すると、闇の中に巨大なスクリーンのような光が浮かび上がり、そこにはデスクに突っ伏したままピクリとも動かない、変わり果てた自分の姿が映し出された。
「……あ」
「心臓が止まったんだ。過労、だったかな。君たち人間は、本当に命の使い方が下手だね」
自分の死体を突きつけられ、桜の膝から力が抜ける。
その様子を冷めた目で見つめながら、男は静かに名乗った。
「私の名は『朔(さく)』。……君たち人間が言うところの、神という存在だ。新月の夜のように、何もない場所を管理している」
自称神様の男、朔は、闇の中から一冊の黒い手帳を取り出し、桜の目の前に浮かべた。
「さて、死んでなお仕事を気にする哀れな社畜さん。君には使い道のない『有給休暇』が八十日分も残っている。このまま無に帰すか、それとも――その命(ゆうきゅう)を対価に、君の望む世界へ、君の望む彼に会いに行くか。……選ばせてあげよう。どうする?」
「……行けるんですか。あの方の、そばへ」
「ああ。ただし、タダじゃない。君が向こうで『奇跡』を望むたび、その手帳から有給が引かれていく。全部なくなれば、君という存在そのものが今度こそ消滅する。……それでも、行くかい?」
朔は三日月のような薄笑いを浮かべ、桜の覚悟を試すように覗き込んだ。
「お願いします。送り届けてください。どうせ捨てようと思っていた命です。彼のために一秒でも使えるなら、これ以上の『福利厚生』はありませんから」
桜は迷うことなく、その黒い手帳を強く掴み取った。
朔は一瞬目を見開き、その後、腹を抱えて愉快そうに笑った。
「くっ……あははは! 狂ってるね! 気に入ったよ。……じゃあ、行ってきなよ、狂信者の社畜さん…」
「君の有給、承認してあげよう」
朔の声を最後に、浮遊感は凄まじい衝撃へと変わった。
