その日聴いたのはのちに成長する過程で知った事だが、かの有名なラヴェルの「ボレロ」ピアノ協奏曲であった。
フルート、ヴァイオリン、コントラバスにホルンの澄み渡ったファンファーレを思わせる優雅だが勇ましい音色。そしてなによりそれを先導するように不動たると君臨し、ステージ上で静かに哮っていたのは指揮者ではなく何とピアノを操る自分の父親であった。
とにかく全身全霊で衝撃を受けた。
大人たちは立ち上がり、いつまでも絶え間ない拍手を贈る。
透は母親と一緒に2階席の個室で演奏を聴いていた。
そして彼には、そんな興奮醒めやまぬ観客席が照明により薄暗く、しかし所々星の光のように瞬いた光を放つ様子から夜の海を思い浮かべた。
つい最近にも海の近い街でこうして父が出演したコンサートが開かれたことがあった。その帰り、眠気眼ながら海岸線を走る車内からこうした海を見たことがある。
観客は賛美を贈るたびに小さく揺れる。
「波だ」と透は思った。
ここは夜の海。しかしいつしか自分が見た海とはあきらかに違う。水面のほの暗い瞬きは同じだが、今自分の目の前に広大と広がる物はけっして穏やかなものではない。
むしろ荒れ狂った嵐のように水面を大きくのたうち回らせていた。
そして元は穏やかなはずの海を波立たせる嵐の中心に自分の父親がいる。
言葉では言い表せない感銘を幼いながら受けた。同時に自分の宿命を悟る。
始まりがいつの頃かすでに自分では分からない。だがなぜ自分は毎日長い時間ピアノの前に座っているのか。またなぜ父が時間の許す限り自分に手解きを施すのか。
それはぼくが、お父さんのようなピアニストになるため?
ぼくもあそこに立たなくちゃいけない。それに…
透は固く指を握り拳を作った。
思えばこの時が初めて、本当の意味でピアノに出会った瞬間であった。そしてこう思ったんだ。
ピアニストってすごい!
