そうかと残念そうに旦那さんは呟くと、細い目をさらに細めて微笑んだ。
「それはピアノが嫌いになったってことなのかい?」
その問いにはさすがに息を詰めた。心なしか東城さんも表情を堅くしているように思う。
「・・・嫌いになった、といいますか―――」
と頭は真っ白だったが何かを答えなければと口を開いたその時、周りの空気がざわめき立った。
その様子に気がついた俺たちは顔を見合わせてから周囲に目を這わす。
すると、黒のスーツを着た男女の一団がエントランスから歩いてきているところだった。しかもあの白いグランドピアノへ真っ直ぐに向かって・・・
「あぁもうそんな時間か」
知っているといった落ち着いた口振りの旦那さんに、俺は何が始まるのかと説明を求め目を向ける。と、茶目っ気たっぷりに人差し指を口の前に立てる仕草をされた。
「初子、お前も座ったらどうだ?」
「何が始まるんです?」
東城さんは呆気にとられつつも素直に椅子に腰掛けていた。
さすが夫婦だ。阿吽の呼吸で了解をわきまえているなと感心した。
そうこうしているうちに黒スーツの一団の1人がピアノの前に座る。なぜだかあの白いピアノの周りで人垣ができつつあり、俺の位置からはひょろりと背の高い男性の頭しか見えない。
妖美なおどろおどろしいワルツが響き出す。
すぐにハチャトゥリアンの『仮面舞踏会』だと分かった。
しかし、何だか俺の知っている仮面舞踏会ではない気がして耳を澄ませる。
なんだ?時々微妙に噛み合わない音がある気がする・・・
右手がいき急いでいるのか?
と、最初は右手と左手の紡ぐメロディーが噛み合っていないだけかと思ったが、違う。
それぞれ上手く調和しているが多少弾き手の癖があるんだ。
そして音の数と高低差を確認し確信を得る。
これは1人ではとてもじゃないが弾けない。弾き手が2人いるんだ。
そう気がついた時にはやがて小気味のよいワルツは佳境に入り、曲の終わりには大きな喝采が上がった。しかしすぐに次の奏者へと変わったようで再び聴こえたきたのは優雅で透明感のある『summer』だ。これも連弾である。
