俺は非常に満足と高揚感に満ちながら、曲を弾き終えた。
弾き終わってからすぐには指を鍵盤から離す事ができず、やっとの思いで外すとぶるぶると震えていた。
手元を見つめて思わず笑ってしまう。
よくもこんな状態で弾けたものだ。
「・・・アラベスクか」
背後から呟く声が聞こえた。
俺はその声に振り返り笑顔で答える。
「えぇ、そうです。バイエルを終える程度になれば、誰でも弾ける。簡単な曲ですけれどね」
「僕はかつて、アラベスクをこんなにも激しく弾く奴は見たことがない」
そう言って武藤先輩はまた豪快に笑う。
俺は今更になってだんだんと恥ずかしくなり、頭をかいた。
「いや、あの・・・そうですね。すいません」
「なぜ君はすぐ謝るんだ?楽しんで弾いていたのだろう?」
「いや、まぁ・・・はい」
本当だった。全てを出し切ったと言えるぐらい、気持ちのいい脱力感がある。
俺の受け答えに武藤先輩はさらに笑っていた。
「君、名前は?」
栗色の髪をかきあげ、淡い緑の瞳が俺を挑戦的に見据える。
「瀬川透です」
「セガワトオル・・・字は?」
「川瀬の瀬に、川、透き通るの透です」
「透か・・・面白い。名前から受ける印象はこんなにもクールで澄み渡ったものなのに、君のピアノは実に熱くて激しいね。川の流れと言うより火山の噴火のようだったよ」
そう言って彼は俺に極上の笑みを向けた。
「火山ですか」
そこまでフラストレーションを爆発させていたのかと、やはり気恥ずかしくなる。
しかも今さっき会ったばかりのよく見知らぬ人に。でも何だか武藤先輩とは初めて会った気がしない。
「透、よかったら明日も弾いてくれ」
そう言った先輩は小首を傾げ、断られる事を前提としていない傲慢の態度を優美な動作でとっていた。
しかしそうした振る舞いですらなぜだか彼には似合う。
不思議な人だ。正直武藤先輩と過ごす今という時間は楽しかった。
でも・・・
「すみません。もう来れそうにありません」
