「構わないさ」
その声に彼と視線を合わせると、武藤先輩は静かに微笑みを浮かべていた。
「君も弾く口だとは思わなかったよ。是非ともお聞かせ願いたいね」
そう言って丁寧な動作で先輩は俺に席を譲る。
「あまり上手くはありませんが・・・」
「言っただろう?楽しむ事が一番だ」
すれ違いざまに彼は俺に囁いた。
断りを入れてから椅子の高さを調整させてもらう。
そうして腰を落ち着け鍵盤と向かい合うと、さすがに少し緊張しだす。
軽く触れてみる。触れる自体、実に1年ぶりなんだ。
もっと懐かしく思ったり、どんな気持ちでいるものかと思っていたが、意外にも普通に今の状態を受け入れている俺がいた。
無作法だが大げさにするのもどうかと思い、座った姿勢から少し後ろに振り向きお辞儀をした。
鍵盤に手を添える。
俄かに指が震えていた。
長く重い息を吐き出した後、指を鍵盤に沈め、一気に流れるようにメロディーを弾く。
選曲に迷いはなかった。
好きなんだ、俺はこの曲が。
ペダルを弾んだ調子で踏む。全然激しい曲でも、ましてやこんなところでスタッカートをかける場面でもないのに、指も足も、体全体が弾みをつけたがる。
それを抑えて滑らかな曲調を弾く自分自身が愉快で堪らない。
覚えている、全然忘れてやしなかった。
俺の指が、体が、心が。
こんなにも覚えていた!
自分の有り余る感情をもう抑える事はできなかった。
ここは少々音を抑えた方が本来無難となれる。でも構うものか。
俺は力一杯に鍵盤を弾く。
思えば殆ど生まれて初めて、俺は何にも囚われずにピアノを弾いた。
あぁ・・・
音楽って楽しいんだな。
