曲が終わっても、俺はしばらく動けずにいた。
武藤先輩が振り返る気配にやっとはっとして居住まいを正す。
彼の薄い緑色の瞳には、何の表情も浮かべていない。
ただ弾いただけ。そこには賞賛を期待する色も、また感想を欲する色すら浮かべていなかった。
彼は本当にただ自分が弾きたいから弾いただけのようだ。
先輩が自分に何も望んでいない事は分かっていたが、それでも俺は何かを言わずにはいられなかった。
「すごく、感動しました。とても・・・楽しかったです」
頭に思い浮かんだ言葉をそのまま紡いだら、小学生の感想かと突っ込みたくなるボキャブラリーの数々になってしまった。
案の定、武藤先輩は吹き出す。
「そうか、楽しかったか?」
口に手を当て、声を立てて笑われる。
動作はとてももの憂いげだが、笑い方は非常に豪快で男らしい。
「す、すいません、上手く言えなくて・・・でもとても素敵な演奏でした」
伝わらないのがもどかしく、何とか必死にそう説明するのだが、余計空回りしてゆく感じだ。
「いや、結構だよ。音楽は楽しむ事が一番だろう?久々に嬉しい事を言われたよ」
そう言ってまた驚くほど美しい笑みを浮かべて、武藤先輩は鍵盤にそっと手を添えた。
俺はひとまず気分を害した様子でいない事に安堵すると、さっきから聞きたくてうずうずしていたんだ。
自分から曲名を尋ねた。
「優しい曲ですね。なんて曲ですか?
「これは『The Last Rose of Summer』だ」
「直訳すると夏の最後の薔薇。ですか?」
「あぁ、アイルランドの民謡なんだ。『夏の名残の薔薇』とも言うんだ。僕はこの言い方のが気に入っている」
夏の名残の薔薇。見た目の華やかさといい・・・薔薇と言うのはこの人にはとても合うように俺は思った。
