海の花にまた会いたい

誰かが話す変わらない内容や毎日教師の話を聞くことより面白いこと。散歩。散歩していると、気づくことは沢山ある。一つに、毎日世界が変わっているということ。八百屋で売られている商品も、どこかで起こっている戦争の状況も。
「散歩に行ってくる」
「わかったよ。相変わらずね」
相変わらずとは何なのか、親にまで散歩は恥ずかしいことなのになぜするのだろうかと思われているのかと考えながら、スニーカーを履いて、住宅街を歩いていく。住宅街を通り抜けると、いつも通る道に着く。
海岸沿いのその道は、変わらなく延々と続いていて、灰色のコンクリートで覆われている。
靴底がコンクリートとこすれると「シャーッ」と虫酸が走るような音がなる。
「ねえ」
その日、誰かに声をかけられた瞬間も、「シャーッ」と鳴らしていしまった。
ビクッと肩を震わせた僕を見て、声の主は、「あ、ご、ごめんね」と困ったように笑った。
振り向いた瞬間、まばたきを二回した後、眼をこすってもう一度見た。
「あ、驚かせちゃった?ごめんね」
申し訳なさそうに言うその人は、人ではなくて、遠くに見える深い紺色の海でたった一輪咲いた花のようだった。白い肌、黒く腰までの髪、ほとんど開いてるかどうかわからないくらい細い猫型の眼。銀色の細い縁のメガネ。全て、僕の脳内で正しく変換された映像なのか疑ってしまった。
「私、冬野海って言うの。君は誰?」
「僕は⋯萩原⋯空⋯です」
はぎわら、そら。彼女はもう一度そう呟いて、「いい名前だね」と笑った。
「冬野⋯さんは」
と、何か話さなければいけないと思って言うと、彼女は
「あ、苗字で呼ばれるとよそよそしいから、名前で呼んでもらっても良い?あと、君のこと、空って呼んでも良い?」
よそよそしいって、まだ会ったばかりなのに。それにさんとか、君とか、普通付けるはず。会ったばかりで呼び捨てはちょっと馴れ馴れしいというか⋯。それに明らかに僕より年上だ。
「じゃあ、海⋯さん」
彼女は相変わらずさん付けをする僕に苦笑し、質問した。
「ねえ、いつもこの道を歩いているの?」
「あ、はい⋯散歩道で」
散歩なんて子供っぽくて笑われるだろうと思っていたら、彼女は嬉しそうに言った。
「散歩かぁ、いいね。ねえ、今度来るときは早めにまたここに来てよ。今日はもう時間が無いから、また今度二人で話そう」
「あ、はい⋯」
時間がないといっても、まだ夕暮れが始まったばかりだった。空が赤くなっていくだけで、暗くはならない。暗くなる頃は不審者が出るというけれど、昔不審者に出くわしたときは真夜中だった。朝とか昼とかでも出くわす子はいるけれど、夕方は知らない。この時間帯は居ない気がする。でも、彼女がそうやって言うのなら、きっと危ないのだろう。
「じゃあ、また」
「うん、またね」
僕が立ち去ろうとしたとき、彼女はまだコンクリートの上で立ったままだった。彼女は僕に手を振っていた。
僕も手を振り返した。
僕が何度か後ろを振り返ろうとしたけれど、彼女はこちらを見ながら突っ立っていた。
帰ろうとしていなかった。きっと僕が見えなくなったら彼女も帰るのだろう。そう考えると、少し申し訳なく感じ、走って帰っていった。もう後ろは振り返ることが出来なかった。