恋が生まれた日

「......橋本先生」


橋本先生が紬の手を止める


「......もう、いい」


普段とは違う、低く静かな声だった


「でもっ、まだっ......」


紬が言いかける

生きる望みがあるのなら見逃したくなかった


「赤ちゃんは!?」


橘先生に視線を向ける


「......」


何も言わず、ただ首を横に振るだけだった

紬の手はまだ患者の胸に置かれたままだった

患者の顔を見ながらゆっくりとその手を離した

まだ、温もりを感じている


鳴り響くアラームを橋本先生は止める


「14時2分、死亡確認」


機械的なその言葉がやけに遠く感じる

全員が患者に向かって黙祷をする

数秒の間が長く感じられた

その後すぐに片づけに入った

紬はなにもできずただ立ち尽くすだけだった

やっとの思いで動いた体で処置室を出ていく


「......朝比奈っ」


誰かが紬を呼ぶ声がしたがそんな声、耳には入ってこない

どこへ行くわけでもない

フラフラと


気づけばどこかの待合室に着いていた

ドサッとソファに腰を下ろす

張り詰めていた糸が切れ、力が抜ける

ぼーっと目の前を見るだけだった


紬はあの日のことを思い出した

消毒の匂いがする待合室で一緒に泣いた

何もしてあげれなかった

でも、葵は覚悟を決めた

今の紬はそんなことできない

むしろ逃げたい―

これまでにも救えなかった命はあった

その度に悲しんできたはずなのに

今回は違った

なぜこんなにも苦しいのか

紬にも分からなかった

ピリリ、ピリリ

紬のPHSが鳴る

画面を確認すると橋本先生だった

今の紬は誰とも話したくない

鳴り続けるPHSをそのままポケットに押し込む

やがて音は止まる

静まり返る待合室

自分の呼吸だけがやけにうるさい



「……こんなところにいたのか」



不意に、声が落ちてきた

ゆっくりと顔を上げる

そこに立っていたのは、橘先生だった

何か言わなければいけないのに

言葉が出てこない

「……」

橘先生も、何も言わない

ただ、少しだけ視線を落とした