あの公園で、君に会えたら

あの日から、諒は奈々の前に現れなくなった。

あれほど突然現れて、強引で、逃げ場なんて与えてくれなかった人が、今度は嘘みたいに姿を消している。

連絡はない。
偶然もない。
黒塗りの車も見ない。

分かっている。

きっと忙しいのだ。
抗争の空気も濃くなっている。

それに――あんな夜のあとだ。

それでも。

(避けられてる……)

そう思ってしまう自分がいる。

⸻

救命の夜勤は、相変わらず容赦がない。

搬送、処置、記録、次の患者。

身体は忙しいのに、心のどこかが空白のままだ。

ふとした瞬間に思い出すのは、あの夜の諒の涙だった。

「守れなかった」

あの低い声が、耳から離れない。

シーツを握りしめていた手。
震えを隠そうとする横顔。

あんな諒を、奈々は初めて見た。

(颯太がいるのに……)

そう、自分には恋人がいる。

優しくて、真っ直ぐで、ずっと隣にいてくれた人。

それなのに。

最近、颯太と会ってもどこか上の空の自分がいる。
笑っているつもりでも、心が追いつかない。

颯太は気づいている。きっと。

でも彼は何も言わない。
ただ少しだけ、笑顔が寂しそうになった。

それが逆に、胸を締めつける。

⸻

夜勤明けの朝。

空は薄く白み始めている。

奈々は無意識にスマホを開く。

諒の名前。

表示されるだけで胸がざわつく。

『大丈夫?』

打ちかけて、消す。

『ちゃんと寝てる?』

それも違う気がする。

そもそも、送っていい立場なのか分からない。

恋人は颯太。
許婚は諒。

でも距離は今、どちらとも曖昧で。

自分の気持ちが、一番分からない。

そのとき。

「……奈々」

低い声。

振り返った瞬間、息が止まりそうになった。

諒がいた。

黒いシャツにコート姿。
少し痩せた気がする。
目の下に、うっすら疲れが見える。

けれど視線は、いつも以上に静かだった。

奈々は思わず一歩近づく。

「諒……」

でも諒は、距離を詰めない。

むしろ半歩、下がる。

そのわずかな動きが、胸に痛い。

「この前は……ありがとな」

短い言葉。
感情を抑え込んだ声。

「ううん。何もしてないよ」

沈黙が落ちる。

以前なら、諒はもっと踏み込んできた。

強引に距離を縮めて、奈々の手を取って。

今日は違う。

まるで壁があるみたいだ。

奈々は勇気を振り絞る。

「避けてた……?」

少しの間。

諒は視線を外す。

「……会わねぇようにしてた」

その一言で、奈々の呼吸が止まる。

「会ったら」

喉が動く。

「離れられなくなるから」

胸が、強く鳴る。

「……巻き込みたくねぇんだよ」

低く、苦しそうな声。

「俺の世界、奈々には向いてない」

「そんなの、今さらでしょ」

思わず声が震える。

「私、全部知ってる」

諒が小さく笑う。

でもその笑みは苦い。

「知ってるのと、傷つくのは違う」

一歩近づく。

奈々は動かない。

「この前みたいなこと、またある」

「次は守りきれねぇかもしれねぇ」

あの夜の恐怖がよみがえる。

それでも。

「それでも」

声が自然に出た。

「諒が一人で抱えるほうが、嫌」

諒が固まる。

しばらくして、小さく息を吐いた。

「奈々ってさ」

ぽつりと言う。

「俺が離れようとすると、絶対追ってくるよな」

懐かしむ声。

でもどこか寂しい。

「でも今回は」

諒は言葉を飲み込む。

顎の筋が、わずかに強張る。

「……追ってくんな」

奈々の喉が詰まる。

諒は続ける。

「俺、今のお前に触れたら」

一瞬、視線が揺れる。

「戻れなくなる」

心臓が強く跳ねる。

空気が息苦しいほど濃くなる。

「奈々」

名前を呼ばれるだけで、足が動きそうになる。

「俺、ちゃんと離れようとしてんだよ」

その声は怒りじゃない。

必死だった。

奈々の足が、ほんの一歩前に出る。

止めようとしても、止まらない。

「……諒」

その瞬間。

諒が一歩下がる。

距離を、戻す。

それが決定的だった。

「颯太、大事にしろよ」

今度ははっきりと言う。

「俺が言える立場じゃねぇけど」

かすかに笑う。

でも目は、笑っていない。

そして背を向ける。

奈々は動けない。

追いかけたい。

抱き止めたい。

それなのに、体が凍りつく。

視界がにじむ。

ぽたり、と一滴。

自分でも気づかないうちに、涙が落ちた。

朝の光に溶けるみたいに、静かに。

諒の背中は振り返らない。

触れたいのに。

触れたら、もう戻れない。

胸の奥で、何かが確実に傾いた。

それでもまだ、

自分は決めきれない。

遠ざかる背中を見つめながら、奈々は初めて思う。

――私は、どこへ行きたいんだろう。