仕事終わりの金曜日。
暖簾をくぐった瞬間、香ばしい焼き鳥の匂いと賑やかな声に包まれた。
「璋、話の前に、一発殴らせなさい」
「は?なんでやねん……」
「あたしのほーりーを泣かせたからに決まってんでしょ、沈めるわよ」
「俺、の、や!」
開口一番のやり取りに、思わず吹き出しそうになる。
雪乃先輩、和巳さん、南実くん。
いつものようでいて、でも少しだけ、空気が違う。
たぶんみんな、あたしたちがちゃんと戻ってこれたことを、心のどこかで喜んでくれている。
「璋のせいで、堀川と雪乃が大荒れだったからな、責任とれ」
「……説明聞けや」
呆れたように返す璋さんの声も、どこか力が抜けていて、前みたいに尖っていない。
お見合いのこと。
四ノ宮のこと。
いのさんとのこと。
一通り話し終えるころには、場の空気はすっかりいつもの軽さを取り戻していた。
「璋と別れたら、ほーりーはあたしが嫁にもらうわ!」
「それは名案だな、雪乃なら安心だ」
「だから、君ら親なん?」
思わず笑いがこぼれる。
盛り上がる二人をよそに、和巳さんがビールをひと口飲んでから、静かに言った。
「堀川が元気になって良かった」
グラスを置く音が、やけに優しく響く。
「俺も、四ノ宮のことは大変そうだけど……葵ちゃんが決めたことなら応援するよ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
(……ああ)
ひとりじゃない場所に。
あたしの気持ちを、わかろうとしてくれる人たちのいる場所に。
「雪乃先輩たちがいてくれるから心強いです」
そう言うと、隣から少しだけ拗ねた声が落ちてきた。
「俺もいてるけどな」
グラスを持ちながら、こっちを見るその顔は、いつもより少しだけ柔らかい。
(……この人も)
ちゃんと、ここにいる。
少し前まで、その当たり前が怖かったのに。
今は――ただ、嬉しい。
「……ありがとうございます」
小さくそう言うと、「今さらやな」と軽く笑われた。
その声が、
どこまでも優しくて、少しだけくすぐったかった。
***
桜の満開情報が流れるころ、あたしたちは京都に来ていた。
――『ええとこ連れてったる』
あの日、璋さんが言った言葉。
その意味を、あたしはまだ知らない。
円山公園。
哲学の道。
岡崎エリア。
満開の桜を辿るみたいに、春の京都を歩いていく。
どこも綺麗で、どこも人が多くて。
それでも、隣を歩くこの人がいるだけで、不思議と景色がやわらかく見えた。
「ここらへんも綺麗やけどな。とっておきはこれからやで」
そう言って、璋さんは少しだけ悪戯っぽく笑う。
嵐山の名所、渡月橋を渡る。
そこから少しずつ人波を外れて、川沿いを歩いていく。
ざわめきが薄れていくにつれて、耳に届くのは風の音と、足元を踏みしめる自分の足音だけになる。
「今回もばあちゃんが張り切って部屋用意してくれてるから……嵐山泊やねん」
「紅葉さんにまたお会いできるので嬉しいです」
(でも……)
そう返しながらも、胸の奥では、別のことを考えていた。
ほんとは、行きたい場所がある。
年末に行った、あの家。
ちゃんと、もう一度向き合いたい。
どう切り出そうか迷っていると、ぽん、と頭の上に手が置かれた。
「心配すんな、明日俺の実家行くし」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「葵のことやから、年末の気にしてたんやろ?」
ぎくり、とする。
図星すぎて、視線を逸らした。
「ほんまは実家帰るん気まずかってん……」
「ま、一人で勝手に苦手意識もってただけやけどな」
それから、あたしの顔を見て、静かに言った。
「葵のおかげやで。ありがとうな」
見上げた璋さんの表情は、大晦日のあの夜より、ずっと穏やかだった。
何かを隠している顔じゃなくて、ちゃんと自分で選んだ人の顔。
「俺の両親にも、葵のこと、ちゃんと紹介させてほしい」
「はい……」
胸の奥が、じんわり熱くなる。
春の日だまりみたいにやさしいその笑顔に、あたしも自然と笑っていた。
そのまま歩いていくと、目の前に、静かな桜並木が広がった。
人も少なくて、風だけが通り抜ける場所。
淡い花びらが、ひらひらと舞っている。
時間が、ここだけゆっくり流れているみたいだった。
「小さい頃からよく来てた、俺のとっておきの場所」
「……きれい」
「ええとこ、やろ?」
思わず足を止めそうになりながら、あたしは少しだけ先を歩く。
写真で見た、幼い璋さんを思い出す。
紅葉さんと、いのさんに抱きしめられていた、小さな笑顔。
(……なんか、空気が違う)
振り返ろうとした、そのとき――
背後で、足音が止まった。
(……あれ?)
違和感に、ゆっくりと振り返る。
少しだけ距離をあけた場所で、璋さんが立ち止まっていた。
春の光の中で、まっすぐに、あたしを見ている。
「葵」
呼ばれて、胸が小さく跳ねる。
「はい?」
一歩、近づく。
視線が、まっすぐ絡む。
いつもみたいに、甘いだけの目じゃない。
何かを決めた人の、静かで深い眼差し。
「……ずっと、ちゃんと言わなあかんと思ってた」
その声に、思わず息をのむ。
「俺がなんで“鷹宮”を名乗ってたんか」
春の風が吹いて、花びらが舞う。
その中で、璋さんの声だけが、やけに鮮明だった。
「表向きは、やっかみとか面倒ごと避けたかったから。会社で四ノ宮の名を出したら、勝手に値踏みされるし、勝手に期待されるし、うっとうしかった」
そこまでは、以前も少し聞いていた話。
でも、今日の声は、その先へ行こうとしていた。
「けど……ほんまは、それだけやない」
少しだけ間が落ちる。
「俺が“四ノ宮璋”でおると、何しても最初から答え決められてる気がしてた」
静かに、でもはっきりと続く。
「四ノ宮の跡取りやから。御曹司やから。将来こうあるべきやから。……そういうん全部、息苦しかった」
胸の奥が、きゅっとなる。
「せやからせめて、“鷹宮璋”でおるときくらい、自分でいたかってん」
「誰かに用意された俺やなくて、自分で選んで、自分で笑って、自分で好きになる俺で」
そう言って、少しだけ困ったみたいに笑った。
「……葵に出会うまでは、それで十分やと思ってた」
その一言に、喉の奥が熱くなる。
「でも、葵のこと好きになって。あいつらと笑って。誕生日祝ってもろて。家族みたいな時間知って」
ひとつひとつ、確かめるみたいに。
「“鷹宮”で逃げてるだけやと守られへんもんができた」
まっすぐに、あたしを見る。
「俺が欲しかったんは、肩書き捨てた自由やなくて」
一歩、距離が縮まる。
「葵の隣におっても、ちゃんと胸張れる自分やったんやと思う」
胸の奥がいっぱいになって、何も言えない。
ただ、この人が今、いちばん大事な本音をくれていることだけは、わかった。
「もう俺の隣、空けとく理由ないやろ」
その言葉に、息が止まった。
逃げ場なんて、最初からなかった。
「この先もずっと――」
また一歩近づいて、シトラスの香りがふわりと掠める。
「一緒に生きてほしい」
春風が吹いて、桜が淡雪みたいに舞い上がる。
視界が、じわりと滲んだ。
「覚悟しぃや」
低く、甘く落ちる声。
「……目一杯甘やかしたるから」
胸の奥が、いっぱいになる。
(……もう)
ずるい。
全部、分かって言ってる。
泣くしかないって、分かって言ってる。
「……璋さん」
声が少しだけ震える。
それでも、ちゃんと返したくて。
「ズルいです……」
少し困ったみたいに、彼が笑った。
「知ってる」
その一言で、もう全部がほどけてしまう。
伸ばされた手を、そっと取る。
指先から、体温が伝わる。
ぎゅっと、強く握られる。
二度と離す気なんてないみたいに。
舞い落ちる桜の中で、ただ見つめ合う。
笑うあたしを見て、璋さんはやっと知ったみたいに目を細めた。
――誕生日よりも。
自由よりも。
肩書きのない安らぎよりも。
『ほんまに欲しかったものは、最初からこれやったんや』と。
「……鷹宮先輩、ズルいです」
小さく笑いながら、もう一度そう言うと、
彼は、ほんの少しだけ肩をすくめた。
でも、その手は。
もう、二度と離すつもりなんてないみたいに、あたしを包んでいた。
この先もずっと、
当たり前みたいに、隣にいられるように。
暖簾をくぐった瞬間、香ばしい焼き鳥の匂いと賑やかな声に包まれた。
「璋、話の前に、一発殴らせなさい」
「は?なんでやねん……」
「あたしのほーりーを泣かせたからに決まってんでしょ、沈めるわよ」
「俺、の、や!」
開口一番のやり取りに、思わず吹き出しそうになる。
雪乃先輩、和巳さん、南実くん。
いつものようでいて、でも少しだけ、空気が違う。
たぶんみんな、あたしたちがちゃんと戻ってこれたことを、心のどこかで喜んでくれている。
「璋のせいで、堀川と雪乃が大荒れだったからな、責任とれ」
「……説明聞けや」
呆れたように返す璋さんの声も、どこか力が抜けていて、前みたいに尖っていない。
お見合いのこと。
四ノ宮のこと。
いのさんとのこと。
一通り話し終えるころには、場の空気はすっかりいつもの軽さを取り戻していた。
「璋と別れたら、ほーりーはあたしが嫁にもらうわ!」
「それは名案だな、雪乃なら安心だ」
「だから、君ら親なん?」
思わず笑いがこぼれる。
盛り上がる二人をよそに、和巳さんがビールをひと口飲んでから、静かに言った。
「堀川が元気になって良かった」
グラスを置く音が、やけに優しく響く。
「俺も、四ノ宮のことは大変そうだけど……葵ちゃんが決めたことなら応援するよ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
(……ああ)
ひとりじゃない場所に。
あたしの気持ちを、わかろうとしてくれる人たちのいる場所に。
「雪乃先輩たちがいてくれるから心強いです」
そう言うと、隣から少しだけ拗ねた声が落ちてきた。
「俺もいてるけどな」
グラスを持ちながら、こっちを見るその顔は、いつもより少しだけ柔らかい。
(……この人も)
ちゃんと、ここにいる。
少し前まで、その当たり前が怖かったのに。
今は――ただ、嬉しい。
「……ありがとうございます」
小さくそう言うと、「今さらやな」と軽く笑われた。
その声が、
どこまでも優しくて、少しだけくすぐったかった。
***
桜の満開情報が流れるころ、あたしたちは京都に来ていた。
――『ええとこ連れてったる』
あの日、璋さんが言った言葉。
その意味を、あたしはまだ知らない。
円山公園。
哲学の道。
岡崎エリア。
満開の桜を辿るみたいに、春の京都を歩いていく。
どこも綺麗で、どこも人が多くて。
それでも、隣を歩くこの人がいるだけで、不思議と景色がやわらかく見えた。
「ここらへんも綺麗やけどな。とっておきはこれからやで」
そう言って、璋さんは少しだけ悪戯っぽく笑う。
嵐山の名所、渡月橋を渡る。
そこから少しずつ人波を外れて、川沿いを歩いていく。
ざわめきが薄れていくにつれて、耳に届くのは風の音と、足元を踏みしめる自分の足音だけになる。
「今回もばあちゃんが張り切って部屋用意してくれてるから……嵐山泊やねん」
「紅葉さんにまたお会いできるので嬉しいです」
(でも……)
そう返しながらも、胸の奥では、別のことを考えていた。
ほんとは、行きたい場所がある。
年末に行った、あの家。
ちゃんと、もう一度向き合いたい。
どう切り出そうか迷っていると、ぽん、と頭の上に手が置かれた。
「心配すんな、明日俺の実家行くし」
「……え?」
思わず顔を上げる。
「葵のことやから、年末の気にしてたんやろ?」
ぎくり、とする。
図星すぎて、視線を逸らした。
「ほんまは実家帰るん気まずかってん……」
「ま、一人で勝手に苦手意識もってただけやけどな」
それから、あたしの顔を見て、静かに言った。
「葵のおかげやで。ありがとうな」
見上げた璋さんの表情は、大晦日のあの夜より、ずっと穏やかだった。
何かを隠している顔じゃなくて、ちゃんと自分で選んだ人の顔。
「俺の両親にも、葵のこと、ちゃんと紹介させてほしい」
「はい……」
胸の奥が、じんわり熱くなる。
春の日だまりみたいにやさしいその笑顔に、あたしも自然と笑っていた。
そのまま歩いていくと、目の前に、静かな桜並木が広がった。
人も少なくて、風だけが通り抜ける場所。
淡い花びらが、ひらひらと舞っている。
時間が、ここだけゆっくり流れているみたいだった。
「小さい頃からよく来てた、俺のとっておきの場所」
「……きれい」
「ええとこ、やろ?」
思わず足を止めそうになりながら、あたしは少しだけ先を歩く。
写真で見た、幼い璋さんを思い出す。
紅葉さんと、いのさんに抱きしめられていた、小さな笑顔。
(……なんか、空気が違う)
振り返ろうとした、そのとき――
背後で、足音が止まった。
(……あれ?)
違和感に、ゆっくりと振り返る。
少しだけ距離をあけた場所で、璋さんが立ち止まっていた。
春の光の中で、まっすぐに、あたしを見ている。
「葵」
呼ばれて、胸が小さく跳ねる。
「はい?」
一歩、近づく。
視線が、まっすぐ絡む。
いつもみたいに、甘いだけの目じゃない。
何かを決めた人の、静かで深い眼差し。
「……ずっと、ちゃんと言わなあかんと思ってた」
その声に、思わず息をのむ。
「俺がなんで“鷹宮”を名乗ってたんか」
春の風が吹いて、花びらが舞う。
その中で、璋さんの声だけが、やけに鮮明だった。
「表向きは、やっかみとか面倒ごと避けたかったから。会社で四ノ宮の名を出したら、勝手に値踏みされるし、勝手に期待されるし、うっとうしかった」
そこまでは、以前も少し聞いていた話。
でも、今日の声は、その先へ行こうとしていた。
「けど……ほんまは、それだけやない」
少しだけ間が落ちる。
「俺が“四ノ宮璋”でおると、何しても最初から答え決められてる気がしてた」
静かに、でもはっきりと続く。
「四ノ宮の跡取りやから。御曹司やから。将来こうあるべきやから。……そういうん全部、息苦しかった」
胸の奥が、きゅっとなる。
「せやからせめて、“鷹宮璋”でおるときくらい、自分でいたかってん」
「誰かに用意された俺やなくて、自分で選んで、自分で笑って、自分で好きになる俺で」
そう言って、少しだけ困ったみたいに笑った。
「……葵に出会うまでは、それで十分やと思ってた」
その一言に、喉の奥が熱くなる。
「でも、葵のこと好きになって。あいつらと笑って。誕生日祝ってもろて。家族みたいな時間知って」
ひとつひとつ、確かめるみたいに。
「“鷹宮”で逃げてるだけやと守られへんもんができた」
まっすぐに、あたしを見る。
「俺が欲しかったんは、肩書き捨てた自由やなくて」
一歩、距離が縮まる。
「葵の隣におっても、ちゃんと胸張れる自分やったんやと思う」
胸の奥がいっぱいになって、何も言えない。
ただ、この人が今、いちばん大事な本音をくれていることだけは、わかった。
「もう俺の隣、空けとく理由ないやろ」
その言葉に、息が止まった。
逃げ場なんて、最初からなかった。
「この先もずっと――」
また一歩近づいて、シトラスの香りがふわりと掠める。
「一緒に生きてほしい」
春風が吹いて、桜が淡雪みたいに舞い上がる。
視界が、じわりと滲んだ。
「覚悟しぃや」
低く、甘く落ちる声。
「……目一杯甘やかしたるから」
胸の奥が、いっぱいになる。
(……もう)
ずるい。
全部、分かって言ってる。
泣くしかないって、分かって言ってる。
「……璋さん」
声が少しだけ震える。
それでも、ちゃんと返したくて。
「ズルいです……」
少し困ったみたいに、彼が笑った。
「知ってる」
その一言で、もう全部がほどけてしまう。
伸ばされた手を、そっと取る。
指先から、体温が伝わる。
ぎゅっと、強く握られる。
二度と離す気なんてないみたいに。
舞い落ちる桜の中で、ただ見つめ合う。
笑うあたしを見て、璋さんはやっと知ったみたいに目を細めた。
――誕生日よりも。
自由よりも。
肩書きのない安らぎよりも。
『ほんまに欲しかったものは、最初からこれやったんや』と。
「……鷹宮先輩、ズルいです」
小さく笑いながら、もう一度そう言うと、
彼は、ほんの少しだけ肩をすくめた。
でも、その手は。
もう、二度と離すつもりなんてないみたいに、あたしを包んでいた。
この先もずっと、
当たり前みたいに、隣にいられるように。



