朝の光が、カーテンの隙間からやわらかく差し込んでいた。
いつもより少し遅い目覚め。
隣には、もう温もりがない。
(……あれ?)
身体を起こしかけた、そのとき。
ふわりと、甘い香りが漂ってきた。
バターがじゅう、と焦げる匂い。
「……?!」
慌ててリビングへ向かうと、キッチンで格闘している背中が見える。
「え……?早ない?」
「璋さんのほうこそ……何してるんですか?」
振り返ったその手元では、きつね色になるはずだったものが、少しだけ歪な形で揺れている。
横には、見慣れたミックス粉の箱。
「まさか……ホットケーキ……?」
「正解」
ぽん、と皿に乗せられたそれは、信じられないくらい見事な焦げ具合で。
「……忘れてました、璋さんが苦手でしたよね」
思わず笑いがこぼれる。
「葵をびっくりさそ思ったんやけど……」
完璧主義なこの人が、あたしのために、こんなふうに不器用になるなんて。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
「ふふっ……大成功ですよ。世界で一番、美味しそうな匂いです」
そう言うと、ほんの少しだけ、安心したように肩の力を抜いた。
***
テーブルの上に並べられたのは、合作のホットケーキ。
焦げた部分は綺麗に切り落とされている。
バターがとろりと溶けて、上からたっぷりとかけられたメープルシロップが、ゆっくりと染みていく。
「……甘すぎません?」
「ええやろ。今日はそういう日や」
当たり前みたいに言われて、思わず笑ってしまう。
フォークを入れると、ふわっと沈む柔らかさ。
一口食べた瞬間――。
「……おいしい……」
思わず、声がこぼれた。
「さすが葵やな」
甘くて、やわらかくて。
どこまでも優しい味だった。
どこか得意げな顔も、かわいくてズルい。
「璋さんもですよ、いろんなことできちゃいますよね」
「なんでもはできへん」
コーヒーを口にしながら、少しだけ目を細める。
「葵がおらんと、意味ない」
「……まだ足りひんやろ?」
戻ってきた意地悪な笑いに、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
(……もう、だめ)
顔を逸らしながら、もう一口食べる。
あたしのはプレーンのままなのに、
どうしようもなく甘い。
帰ってきた二人の時間が、
休日の朝の光に、ゆっくりと溶けていった。
***
後片付けも終わって、ひと息つく。
ソファに並んで座ると、自然と肩が触れ合った。
何も言わなくても、離れない距離。
――こういうの、ちゃんと大事にしたい。
「……こういう時間、好きです」
「俺も」
「こういうの……日常に……当たり前にしたい」
璋さんが迷いなく、抱き寄せる。
(……ずるい)
でも、そのずるさが、どうしようもなく嬉しい。
「……なあ、葵」
「はい?」
少し間があったあと、璋さんは静かに言う。
「いのばあちゃんの……ありがとうな」
その言葉に、そっと手を握る。
「璋さんのこと、ちゃんと想ってる人でした」
「あたしのほうこそ、ありがとうございます」
あのときの表情を思い出す。
厳しくて、でも――確かに優しかった。
あのアルバムにあった、幼い璋さんと写ってたのと同じ顔。
「璋さんが大切にしてる家族です、あたしも同じです」
いのさんを思い出しても、もう怖くはない。
少しだけ――緊張はするけど。
「葵のそういう強さにも……惹かれたんやで」
「璋さん?」
「なんでもない。それより――今度、旅行行かへん?」
「え?」
思わず聞き返すと、どこか含みのある笑みが返ってくる。
「ええとこ、連れてったる」
「……どこですか?」
「内緒」
まさかの即答だった。
「なんでですか」
「そのほうが楽しみやろ」
くすっと笑われて、言い返せなくなる。
(……絶対、なんか企んでる)
ほんの少しだけ、胸がざわつく。
でも、その隣にいる安心感のほうが、ずっと大きかった。
飲み物を取りに、立ち上がろうとした瞬間。
ぐいっと腕を引かれる。
「わっ……」
バランスを崩して、そのまま胸の中へ。
「……まだ、足りてへん」
低く甘い声が落ちる。
そのまま、おでこに、鼻に、頬にと唇が降りてくる。
「……さっき食べたじゃないですか」
「それとこれとは別、今日の葵はまだやろ?」
真顔で言われて、思わず笑ってしまう。
「……お昼からカフェに行く約束……」
「"カフェ璋"はどうですか?ディナー付きで」
「……悪くないです」
額を合わせたまま、しばらく見つめ合う。
その先を待ちきれなくなったのは――。
軽く璋さんにキスをする。
「ほんとに、ズルいです……」
「知ってる」
さらっとキスで返されて、また心が乱される。
(……ああ、もう)
逃げる気なんて、最初からなかった。
腕の中で、そっと目を閉じる。
抱き上げられて、そのまま、寝室へ連れていかれた。
***
「……葵」
耳元で、何度も呼ばれた名前に、熱がうまれる。
「……はい」
「ちゃんと覚悟しときや」
低く落ちる声は、いつもより深く刺さる。
意味を聞き返す前に、軽く額に口付けられた。
「……逃がす気、もうないからな」
その一言に、心が大きく揺れる。
(……覚悟って、なに?)
怖いようで、
でも、なぜか、少しだけ胸が高鳴った。
「葵、考え事する余裕ないで」
優しい顔は、一瞬だけ。
すぐに獰猛な色を宿した瞳で、あたしを逃さないと射抜く。
無意識に体を捩ると、逃げ場を塞ぐように璋さんの腕がシーツに沈んだ。
(……ああ、やっぱりこの人はズルい)
熱い吐息が耳元を掠め、思考が真っ白に塗りつぶされていく。
ただ、重ねた手のひらから伝わる鼓動だけが、驚くほど確かだった。
あたしの意識は、
逃げ場のない優しさの中へ、ゆっくりと沈んでいった。
いつもより少し遅い目覚め。
隣には、もう温もりがない。
(……あれ?)
身体を起こしかけた、そのとき。
ふわりと、甘い香りが漂ってきた。
バターがじゅう、と焦げる匂い。
「……?!」
慌ててリビングへ向かうと、キッチンで格闘している背中が見える。
「え……?早ない?」
「璋さんのほうこそ……何してるんですか?」
振り返ったその手元では、きつね色になるはずだったものが、少しだけ歪な形で揺れている。
横には、見慣れたミックス粉の箱。
「まさか……ホットケーキ……?」
「正解」
ぽん、と皿に乗せられたそれは、信じられないくらい見事な焦げ具合で。
「……忘れてました、璋さんが苦手でしたよね」
思わず笑いがこぼれる。
「葵をびっくりさそ思ったんやけど……」
完璧主義なこの人が、あたしのために、こんなふうに不器用になるなんて。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
「ふふっ……大成功ですよ。世界で一番、美味しそうな匂いです」
そう言うと、ほんの少しだけ、安心したように肩の力を抜いた。
***
テーブルの上に並べられたのは、合作のホットケーキ。
焦げた部分は綺麗に切り落とされている。
バターがとろりと溶けて、上からたっぷりとかけられたメープルシロップが、ゆっくりと染みていく。
「……甘すぎません?」
「ええやろ。今日はそういう日や」
当たり前みたいに言われて、思わず笑ってしまう。
フォークを入れると、ふわっと沈む柔らかさ。
一口食べた瞬間――。
「……おいしい……」
思わず、声がこぼれた。
「さすが葵やな」
甘くて、やわらかくて。
どこまでも優しい味だった。
どこか得意げな顔も、かわいくてズルい。
「璋さんもですよ、いろんなことできちゃいますよね」
「なんでもはできへん」
コーヒーを口にしながら、少しだけ目を細める。
「葵がおらんと、意味ない」
「……まだ足りひんやろ?」
戻ってきた意地悪な笑いに、胸の奥がきゅっと締め付けられた。
(……もう、だめ)
顔を逸らしながら、もう一口食べる。
あたしのはプレーンのままなのに、
どうしようもなく甘い。
帰ってきた二人の時間が、
休日の朝の光に、ゆっくりと溶けていった。
***
後片付けも終わって、ひと息つく。
ソファに並んで座ると、自然と肩が触れ合った。
何も言わなくても、離れない距離。
――こういうの、ちゃんと大事にしたい。
「……こういう時間、好きです」
「俺も」
「こういうの……日常に……当たり前にしたい」
璋さんが迷いなく、抱き寄せる。
(……ずるい)
でも、そのずるさが、どうしようもなく嬉しい。
「……なあ、葵」
「はい?」
少し間があったあと、璋さんは静かに言う。
「いのばあちゃんの……ありがとうな」
その言葉に、そっと手を握る。
「璋さんのこと、ちゃんと想ってる人でした」
「あたしのほうこそ、ありがとうございます」
あのときの表情を思い出す。
厳しくて、でも――確かに優しかった。
あのアルバムにあった、幼い璋さんと写ってたのと同じ顔。
「璋さんが大切にしてる家族です、あたしも同じです」
いのさんを思い出しても、もう怖くはない。
少しだけ――緊張はするけど。
「葵のそういう強さにも……惹かれたんやで」
「璋さん?」
「なんでもない。それより――今度、旅行行かへん?」
「え?」
思わず聞き返すと、どこか含みのある笑みが返ってくる。
「ええとこ、連れてったる」
「……どこですか?」
「内緒」
まさかの即答だった。
「なんでですか」
「そのほうが楽しみやろ」
くすっと笑われて、言い返せなくなる。
(……絶対、なんか企んでる)
ほんの少しだけ、胸がざわつく。
でも、その隣にいる安心感のほうが、ずっと大きかった。
飲み物を取りに、立ち上がろうとした瞬間。
ぐいっと腕を引かれる。
「わっ……」
バランスを崩して、そのまま胸の中へ。
「……まだ、足りてへん」
低く甘い声が落ちる。
そのまま、おでこに、鼻に、頬にと唇が降りてくる。
「……さっき食べたじゃないですか」
「それとこれとは別、今日の葵はまだやろ?」
真顔で言われて、思わず笑ってしまう。
「……お昼からカフェに行く約束……」
「"カフェ璋"はどうですか?ディナー付きで」
「……悪くないです」
額を合わせたまま、しばらく見つめ合う。
その先を待ちきれなくなったのは――。
軽く璋さんにキスをする。
「ほんとに、ズルいです……」
「知ってる」
さらっとキスで返されて、また心が乱される。
(……ああ、もう)
逃げる気なんて、最初からなかった。
腕の中で、そっと目を閉じる。
抱き上げられて、そのまま、寝室へ連れていかれた。
***
「……葵」
耳元で、何度も呼ばれた名前に、熱がうまれる。
「……はい」
「ちゃんと覚悟しときや」
低く落ちる声は、いつもより深く刺さる。
意味を聞き返す前に、軽く額に口付けられた。
「……逃がす気、もうないからな」
その一言に、心が大きく揺れる。
(……覚悟って、なに?)
怖いようで、
でも、なぜか、少しだけ胸が高鳴った。
「葵、考え事する余裕ないで」
優しい顔は、一瞬だけ。
すぐに獰猛な色を宿した瞳で、あたしを逃さないと射抜く。
無意識に体を捩ると、逃げ場を塞ぐように璋さんの腕がシーツに沈んだ。
(……ああ、やっぱりこの人はズルい)
熱い吐息が耳元を掠め、思考が真っ白に塗りつぶされていく。
ただ、重ねた手のひらから伝わる鼓動だけが、驚くほど確かだった。
あたしの意識は、
逃げ場のない優しさの中へ、ゆっくりと沈んでいった。



