いつの時代も、金曜日の夜はざわついて浮き足立つもの。
週末というご褒美を前に、飲みに繰り出す人、そそくさと帰路につく人。
それぞれの期待が、オフィスを週末の空気に変えていく。
「ふぅ……」
最後の確認メールを送信して、肩をぐるりと回す。
定時を少し過ぎただけで全部片づいた自分を、こっそり褒めた。
下りのエレベーターが開いた瞬間、聞き慣れた声が飛んでくる。
「お、堀川ちゃん。お疲れさん」
「鷹宮先輩、お疲れさまです」
あの日以来、鷹宮さんと顔を合わせるたびに、当たり前みたいに名前を呼ばれるようになった。
失恋の大泣き姿を見られてから、どうも身構える癖が抜けない。
――それでも、無視なんてできるはずもなくて。
ひと言ふた言、当たり障りのない会話を交わすつもりが、思った以上に話が弾んでしまう。
新人研修であたしが関西支社にいた時、実は鷹宮さんは別の新人の担当だったが、何度かあたしを見かけていたそうだ。
その話を聞いてから、自然と「鷹宮先輩」と呼ぶようになった。
途中の階で人が乗り込んできて、箱の中がぎゅっと詰まる。
その瞬間、鷹宮先輩がひょい、と立ち位置を変えた。
「押し潰されないようにね」
壁側に、そっとあたしを隠すように。
彼の腕が、あたしの両脇を囲うように壁につかれた。
逃げ場を塞ぐように広がる、あの濃厚なシトラスの香り。
密室の中で、あたしの鼓動がうるさいくらいに跳ねる。
(この人の『テリトリー』……あたしイヤじゃない……)
(こんなにすぐ、別の人の声にときめくなんてダメなのに……)
理由のない、けれど確かな予感に、背筋が少しだけ震えた。
「そういえば、話し合いは明日だっけ?」
周囲に聞こえないくらいの低い声が、耳のすぐそばをくすぐった。
――声まで反則級に良くて、酔いそう。
「……そうなんですよ。ちょっと、気が重くて」
エレベーターを降りると、夜の冷たい空気がロビーに流れ込んできた。
気づけば、年末までもう二ヶ月。
鷹宮先輩は、わざとらしくない程度に声を落とす。
まるでこの状況そのものを、少し楽しんでいるみたいに。
「終わったあと、胸貸したるで?」
「失恋現場に居合わせたよしみやからな」と自分の胸を軽く小突きながら言う。
あまりにも清々しい意地悪さに、思わず吹き出してしまった。
「……元気出ました。もしかしたら、お願いします」
一瞬だけ、鷹宮先輩の目が大きく見張ったが、すぐに元通り。
「おぅ。その時は、ちゃんと素直に甘えといで。めちゃめちゃ甘やかしたるから」
低くて、いつもより優しく柔らかな声が、心のどこかに引っかかった。
少しだけ、鷹宮先輩が甘やかしてくれるのを、想像してみる。
(……これじゃ、本当に甘えたいみたいじゃない)
いつの間に、こんな甘えたな感情が顔を出すのだろうか。
冬の寒さにつられて?
ううん、自分自身の問題なのだから。
そう言い聞かせて、自らを奮い立たせる。
心の内を読まれたのか、鷹宮先輩はふっと優しい笑みを浮かべる。
「後悔も、無理も、せんでええからな」
そう言われると、なんだか本当に、明日を乗り切れる気がした。
***
どんなに憂鬱でも、約束の日は容赦なくやってくる。
待ち合わせは、午後二時。
駅前のカフェ。
足取りは鉛みたいに重いのに、約束の五分前には着いてしまっていた。
『先に入って、注文しといて』
彼から届いたメッセージ通り、案内された席に腰を下ろす。
中庭が見える、陽当たりの良い窓際。
メニューを開いて、選んだのは――
カフェモカ。
「ごめん、葵。待った?」
コーヒーがテーブルに置かれたちょうどその時、彼がやって来た。
少し前にも会ったはずなのに、遠い昔の人みたいに感じる。
「あ……ほんと好きだよね、カフェモカ」
「……うん……」
そこで会話は途切れた。
彼の指先だけが、画面の上を意味も無くなぞっている。
新着メッセージの通知が表示されると、彼の顔が緩んでいくのが分かった。
そして沈黙を、小さな声が破る。
「……ごめん。好きな人、できた」
視線は最後まで一度も、あたしと交わらないまま。
その一言で、彼との世界が、静かに切り離された気がした。
どれくらい、ぼんやりしていたんだろう。
中庭に射し込む光は、いつの間にか柔らかいオレンジ色に変わっていた。
ホットで頼んでいたカフェモカは、まだ一口も付けずのまま。
その温度はあたしの心にシンクロしたのか、ひどく冷たく氷のようだった。
(……家に帰りたくない)
こんな時、一人暮らしが寂しいと感じる。
誰か誘って、飲みに行く?
慰めてほしい?
どこか、テレビドラマを観ているみたい。
この出来事は、別の誰かの出来事なのかも知れない。
うん。
きっとそう。
(明日、朝起きたら、約束してたデートに…………)
「うわっ、堀川ちゃん?」
聞き慣れた声に、意識が、世界が、現実に引き戻される。
「びっくりしたわ〜。トイレ行こう思たら、なんや知ってる顔おるな〜って」
「……たかみや、せんぱい……?」
「そんなに驚いた顔で見んでも……お化けちゃうで?」
そこに立っていたのは、あの日と同じ空気を纏った休日姿の鷹宮先輩。
シトラスの香りが、錆び付いて弱りきったあたしの心に染み渡る。
「買い物帰りに、甘いん飲みたくて、ふらっと立ち寄ってん」
「相席してええ?」と聞かれ、断る選択肢なんてあるはずもなく、向かいの椅子をすすめた。
「あれ?それ……」
鷹宮先輩が、あたしのカップを指さす。
「カフェモカ。俺のもカフェモカやねん」
「意外です……てっきり、ブラック派かと」
「みんなそれ言うわ。ちゃいますよ~甘党なんです~」
ちょっと高めの声で笑いながら、自分のカップを一口。
それから、真面目な顔になってあたしのカップを見た。
「……堀川ちゃんも、本当はちゃうんやろ?」
「……え?」
「この前、休憩室で持ってた缶コーヒー、あれブラックやったやろ?」
そこまで見てたのか、と驚くより先に、胸がきゅっと掴まれる。
彼でさえ気づかなかった、小さな違和感。
「彼、好きな人が出来たそうです」
気づけば、口が勝手に動いていた。
本当は甘くて、少し苦手なカフェモカ。
彼との初デートでたまたま注文したら、彼も同じものを頼んで「好み一緒だね」と笑ってくれた。
――その笑顔が、嬉しくて。
小さな嘘をひとつついて。
そのあとも、積み重ねた嘘を隠し続けた。
「少しでも喜んでほしくて……少しでも、好きでいてほしくて」
自分でも何を言っているのかわからない。
でも、一度こぼれた言葉を、止める術がもう無かった。
それは彼を欺いていた罪悪感の懺悔のようで。
もう、今までの嘘をカフェモカで流し込めない。
「……あたし、最低です……」
「言うたやん。『我慢せんでええ』って」
「……ここでは、泣きたくない、です」
なけなしの意地を張って、テーブルの下で服の裾を握りしめる。
そんなあたしを見て、鷹宮先輩は小さく息を吐いた。
次の瞬間、荷物をまとめると、有無を言わせない動きであたしの手を取る。
「……え?」
鷹宮先輩は二枚の伝票をレジ前に出すと、「カードで」と短く言う。
一瞬見えたそのカードは、一般の人が持つものとは明らかに厚みも色も違う。
慣れた手つきで、この前見た財布へ重厚な輝きの黒いカードを戻すと、一度離れた手を繋ぎ直す。
抵抗する暇すらない。
何も言わない鷹宮先輩に連れられて、お店を出て雑踏の中へ。
行き交う人々とぶつからないよう、歩調はあたしに合わせてくれている。
しばらく進んだ先にある、人通りの少ない路地に入り込んだところで、ようやく足が止まる。
鷹宮先輩の広い背中が、くるりと向き直った。
「無理すんな言うたやろ。……おいで、葵ちゃん」
名前を呼んだ低い声と同時に、広い腕の中へ閉じ込められた。
服越しに伝わる体温が、嘘みたいに優しい。
それとは反対に、力強く抱きしめられている。
苦しくて顔を上げると、少しだけ切なげで、それでも慈しむような瞳が真っ直ぐにあたしを見ていた。
――あぁ、だめだ。
張り詰めていたものが、ガラガラと音を立てて崩れる。
「……あたし、本当はカフェモカ、甘すぎて苦手なんです」
「うん」
「本当は、雷も怖いです」
「うん」
「本当は……今日なんて、来てほしくなかった……」
「うん」
鷹宮先輩は、否定も肯定もせず、ただ静かに頷き続ける。
いつものシトラスに混じって、その胸元から香る、清潔で、どこか高級な石鹸のような匂い。
それが、どんな慰めの言葉よりもずっと、あたしを優しく包み込んでくれる気がした。
路地裏なのに、子どもみたいに声を上げて泣いた。
通り過ぎる人の足音も、ネオンの光も、全部どうでもよかった。
涙が落ち着いた頃、鷹宮先輩が、そっとあたしの両頬を挟む。
「なぁ」
無理やり顔を上げさせられて、逃げ場をなくした視線が絡まる。
「……その顔、かわええな」
きっと、からかい半分だ。
他意なんて、ないのかもしれない。
――それでも。
久しく向けられていなかった響きに、胸の奥がじんわりと痺れた。
「……鷹宮先輩には、本当に助けられてばっかりです……何か、お礼しないと」
震えが残る声で言うと、彼はふっと目を細める。
「ほんなら、そのうち。……ちゃんと、甘えてこい」
その瞬間、彼の指先があたしの頬を、あの日と同じようにゆっくりと辿った。
慈しむような、でも、どこか「獲物」を見定めているような熱を帯びた瞳。
その言葉の意味を、ちゃんと考えたら戻れなくなりそうで。
あたしはただ、小さく頷くことしかできなかった。
鷹宮先輩の優しさを「知ってしまった」んじゃない。
あたしはもう、彼が丹念に敷き詰めた『罠』の真ん中に、自ら足を踏み入れていたんだと――。
このときのあたしは、まだ気づいていなかった。
週末というご褒美を前に、飲みに繰り出す人、そそくさと帰路につく人。
それぞれの期待が、オフィスを週末の空気に変えていく。
「ふぅ……」
最後の確認メールを送信して、肩をぐるりと回す。
定時を少し過ぎただけで全部片づいた自分を、こっそり褒めた。
下りのエレベーターが開いた瞬間、聞き慣れた声が飛んでくる。
「お、堀川ちゃん。お疲れさん」
「鷹宮先輩、お疲れさまです」
あの日以来、鷹宮さんと顔を合わせるたびに、当たり前みたいに名前を呼ばれるようになった。
失恋の大泣き姿を見られてから、どうも身構える癖が抜けない。
――それでも、無視なんてできるはずもなくて。
ひと言ふた言、当たり障りのない会話を交わすつもりが、思った以上に話が弾んでしまう。
新人研修であたしが関西支社にいた時、実は鷹宮さんは別の新人の担当だったが、何度かあたしを見かけていたそうだ。
その話を聞いてから、自然と「鷹宮先輩」と呼ぶようになった。
途中の階で人が乗り込んできて、箱の中がぎゅっと詰まる。
その瞬間、鷹宮先輩がひょい、と立ち位置を変えた。
「押し潰されないようにね」
壁側に、そっとあたしを隠すように。
彼の腕が、あたしの両脇を囲うように壁につかれた。
逃げ場を塞ぐように広がる、あの濃厚なシトラスの香り。
密室の中で、あたしの鼓動がうるさいくらいに跳ねる。
(この人の『テリトリー』……あたしイヤじゃない……)
(こんなにすぐ、別の人の声にときめくなんてダメなのに……)
理由のない、けれど確かな予感に、背筋が少しだけ震えた。
「そういえば、話し合いは明日だっけ?」
周囲に聞こえないくらいの低い声が、耳のすぐそばをくすぐった。
――声まで反則級に良くて、酔いそう。
「……そうなんですよ。ちょっと、気が重くて」
エレベーターを降りると、夜の冷たい空気がロビーに流れ込んできた。
気づけば、年末までもう二ヶ月。
鷹宮先輩は、わざとらしくない程度に声を落とす。
まるでこの状況そのものを、少し楽しんでいるみたいに。
「終わったあと、胸貸したるで?」
「失恋現場に居合わせたよしみやからな」と自分の胸を軽く小突きながら言う。
あまりにも清々しい意地悪さに、思わず吹き出してしまった。
「……元気出ました。もしかしたら、お願いします」
一瞬だけ、鷹宮先輩の目が大きく見張ったが、すぐに元通り。
「おぅ。その時は、ちゃんと素直に甘えといで。めちゃめちゃ甘やかしたるから」
低くて、いつもより優しく柔らかな声が、心のどこかに引っかかった。
少しだけ、鷹宮先輩が甘やかしてくれるのを、想像してみる。
(……これじゃ、本当に甘えたいみたいじゃない)
いつの間に、こんな甘えたな感情が顔を出すのだろうか。
冬の寒さにつられて?
ううん、自分自身の問題なのだから。
そう言い聞かせて、自らを奮い立たせる。
心の内を読まれたのか、鷹宮先輩はふっと優しい笑みを浮かべる。
「後悔も、無理も、せんでええからな」
そう言われると、なんだか本当に、明日を乗り切れる気がした。
***
どんなに憂鬱でも、約束の日は容赦なくやってくる。
待ち合わせは、午後二時。
駅前のカフェ。
足取りは鉛みたいに重いのに、約束の五分前には着いてしまっていた。
『先に入って、注文しといて』
彼から届いたメッセージ通り、案内された席に腰を下ろす。
中庭が見える、陽当たりの良い窓際。
メニューを開いて、選んだのは――
カフェモカ。
「ごめん、葵。待った?」
コーヒーがテーブルに置かれたちょうどその時、彼がやって来た。
少し前にも会ったはずなのに、遠い昔の人みたいに感じる。
「あ……ほんと好きだよね、カフェモカ」
「……うん……」
そこで会話は途切れた。
彼の指先だけが、画面の上を意味も無くなぞっている。
新着メッセージの通知が表示されると、彼の顔が緩んでいくのが分かった。
そして沈黙を、小さな声が破る。
「……ごめん。好きな人、できた」
視線は最後まで一度も、あたしと交わらないまま。
その一言で、彼との世界が、静かに切り離された気がした。
どれくらい、ぼんやりしていたんだろう。
中庭に射し込む光は、いつの間にか柔らかいオレンジ色に変わっていた。
ホットで頼んでいたカフェモカは、まだ一口も付けずのまま。
その温度はあたしの心にシンクロしたのか、ひどく冷たく氷のようだった。
(……家に帰りたくない)
こんな時、一人暮らしが寂しいと感じる。
誰か誘って、飲みに行く?
慰めてほしい?
どこか、テレビドラマを観ているみたい。
この出来事は、別の誰かの出来事なのかも知れない。
うん。
きっとそう。
(明日、朝起きたら、約束してたデートに…………)
「うわっ、堀川ちゃん?」
聞き慣れた声に、意識が、世界が、現実に引き戻される。
「びっくりしたわ〜。トイレ行こう思たら、なんや知ってる顔おるな〜って」
「……たかみや、せんぱい……?」
「そんなに驚いた顔で見んでも……お化けちゃうで?」
そこに立っていたのは、あの日と同じ空気を纏った休日姿の鷹宮先輩。
シトラスの香りが、錆び付いて弱りきったあたしの心に染み渡る。
「買い物帰りに、甘いん飲みたくて、ふらっと立ち寄ってん」
「相席してええ?」と聞かれ、断る選択肢なんてあるはずもなく、向かいの椅子をすすめた。
「あれ?それ……」
鷹宮先輩が、あたしのカップを指さす。
「カフェモカ。俺のもカフェモカやねん」
「意外です……てっきり、ブラック派かと」
「みんなそれ言うわ。ちゃいますよ~甘党なんです~」
ちょっと高めの声で笑いながら、自分のカップを一口。
それから、真面目な顔になってあたしのカップを見た。
「……堀川ちゃんも、本当はちゃうんやろ?」
「……え?」
「この前、休憩室で持ってた缶コーヒー、あれブラックやったやろ?」
そこまで見てたのか、と驚くより先に、胸がきゅっと掴まれる。
彼でさえ気づかなかった、小さな違和感。
「彼、好きな人が出来たそうです」
気づけば、口が勝手に動いていた。
本当は甘くて、少し苦手なカフェモカ。
彼との初デートでたまたま注文したら、彼も同じものを頼んで「好み一緒だね」と笑ってくれた。
――その笑顔が、嬉しくて。
小さな嘘をひとつついて。
そのあとも、積み重ねた嘘を隠し続けた。
「少しでも喜んでほしくて……少しでも、好きでいてほしくて」
自分でも何を言っているのかわからない。
でも、一度こぼれた言葉を、止める術がもう無かった。
それは彼を欺いていた罪悪感の懺悔のようで。
もう、今までの嘘をカフェモカで流し込めない。
「……あたし、最低です……」
「言うたやん。『我慢せんでええ』って」
「……ここでは、泣きたくない、です」
なけなしの意地を張って、テーブルの下で服の裾を握りしめる。
そんなあたしを見て、鷹宮先輩は小さく息を吐いた。
次の瞬間、荷物をまとめると、有無を言わせない動きであたしの手を取る。
「……え?」
鷹宮先輩は二枚の伝票をレジ前に出すと、「カードで」と短く言う。
一瞬見えたそのカードは、一般の人が持つものとは明らかに厚みも色も違う。
慣れた手つきで、この前見た財布へ重厚な輝きの黒いカードを戻すと、一度離れた手を繋ぎ直す。
抵抗する暇すらない。
何も言わない鷹宮先輩に連れられて、お店を出て雑踏の中へ。
行き交う人々とぶつからないよう、歩調はあたしに合わせてくれている。
しばらく進んだ先にある、人通りの少ない路地に入り込んだところで、ようやく足が止まる。
鷹宮先輩の広い背中が、くるりと向き直った。
「無理すんな言うたやろ。……おいで、葵ちゃん」
名前を呼んだ低い声と同時に、広い腕の中へ閉じ込められた。
服越しに伝わる体温が、嘘みたいに優しい。
それとは反対に、力強く抱きしめられている。
苦しくて顔を上げると、少しだけ切なげで、それでも慈しむような瞳が真っ直ぐにあたしを見ていた。
――あぁ、だめだ。
張り詰めていたものが、ガラガラと音を立てて崩れる。
「……あたし、本当はカフェモカ、甘すぎて苦手なんです」
「うん」
「本当は、雷も怖いです」
「うん」
「本当は……今日なんて、来てほしくなかった……」
「うん」
鷹宮先輩は、否定も肯定もせず、ただ静かに頷き続ける。
いつものシトラスに混じって、その胸元から香る、清潔で、どこか高級な石鹸のような匂い。
それが、どんな慰めの言葉よりもずっと、あたしを優しく包み込んでくれる気がした。
路地裏なのに、子どもみたいに声を上げて泣いた。
通り過ぎる人の足音も、ネオンの光も、全部どうでもよかった。
涙が落ち着いた頃、鷹宮先輩が、そっとあたしの両頬を挟む。
「なぁ」
無理やり顔を上げさせられて、逃げ場をなくした視線が絡まる。
「……その顔、かわええな」
きっと、からかい半分だ。
他意なんて、ないのかもしれない。
――それでも。
久しく向けられていなかった響きに、胸の奥がじんわりと痺れた。
「……鷹宮先輩には、本当に助けられてばっかりです……何か、お礼しないと」
震えが残る声で言うと、彼はふっと目を細める。
「ほんなら、そのうち。……ちゃんと、甘えてこい」
その瞬間、彼の指先があたしの頬を、あの日と同じようにゆっくりと辿った。
慈しむような、でも、どこか「獲物」を見定めているような熱を帯びた瞳。
その言葉の意味を、ちゃんと考えたら戻れなくなりそうで。
あたしはただ、小さく頷くことしかできなかった。
鷹宮先輩の優しさを「知ってしまった」んじゃない。
あたしはもう、彼が丹念に敷き詰めた『罠』の真ん中に、自ら足を踏み入れていたんだと――。
このときのあたしは、まだ気づいていなかった。



