金曜日の夜。
浮き足立つ空気の中で、あたしだけがうまく呼吸できなかった。
「ふぅ……」
最後の確認メールを送信して、肩をぐるりと回す。
定時を少し過ぎただけで全部片づいた自分を、こっそり褒めた。
下りのエレベーターが開いた瞬間、聞き慣れた声が飛んでくる。
「お、堀川ちゃん。お疲れさん」
「鷹宮先輩、お疲れさまです」
あの日以来、名前を呼ばれることにまだ慣れない。
失恋の大泣き姿を見られてから、どうしても少し身構えてしまう。
――それでも、避ける理由にはならなくて。
何気ない会話が、思っていたより自然に続く。
新人研修の頃、関西支社で何度か顔を合わせていたらしい。
だからだろうか、今では当たり前のように「先輩」と呼んでいた。
途中の階で人が乗り込んできて、箱の中がぎゅっと詰まる。
その瞬間。
「危ないから、こっち」
ひょい、と位置を変えた鷹宮先輩に、壁側へと囲われる。
逃げ場を塞ぐように伸びた腕。
近すぎる距離。
あの濃厚なシトラスの香りが、息の近さを際立たせる。
近すぎる距離。
(……イヤじゃない)
(こんなにすぐ、別の人の声にときめくなんてダメなのに……)
確かな予感に、背筋が少しだけ震えた。
「そういえば、話し合いは明日だっけ?」
耳のすぐそばをくすぐる低い声に、鼓動が小さく跳ねた。
「……そうなんですよ。ちょっと、気が重くて」
エレベーターを降りると、夜の冷たい空気がロビーに流れ込む。
「終わったあと、胸貸したるで?」
鷹宮先輩は、わざとらしくない程度に声を落とす。
「失恋現場に居合わせた責任取ったるわ」
あまりにも清々しい意地悪さに、思わず吹き出してしまった。
「……元気出ました。もしかしたら、お願いします」
一瞬だけ、鷹宮先輩の目が大きく見張ったが、すぐに元通り。
「おぅ。その時は――」
「ちゃんと素直に甘えといで。めちゃめちゃ甘やかしたるから」
低くて、いつもより優しく柔らかな声が、心のどこかに引っかかった。
(……これじゃ、本当に甘えたいみたいじゃない)
寒さのせいにしたかった。
でも、たぶん違う。
心の内を読まれたのか、鷹宮先輩はふっと優しい笑みを浮かべる。
「後悔も、無理も、せんでええからな」
その一言で、本当に明日を乗り切れる気がした。
***
どれだけ憂鬱でも、約束の日時はやってくる。
待ち合わせは午後二時、駅前のカフェ。
足取りは鉛みたいに重いのに、約束より少し早く着いてしまった。
『先に入って、注文しといて』
彼から届いたメッセージ通り席につき、選んだのは――カフェモカ。
「ごめん、葵。待った?」
運ばれてきたコーヒーの湯気の向こうに、彼が立つ。
少し前に会ったはずなのに、もう遠い昔の人みたいに感じる。
「あ……ほんと好きだよね、カフェモカ」
「……うん……」
(本当は、好きじゃないのに……)
――でも、好きって言ってほしかった。
沈黙が落ちる。
彼の指先だけが、画面の上を意味も無くなぞっている。
「……ごめん。好きな人、できた」
視線は最後まで一度も、あたしと交わらないまま。
その一言で、彼との世界が、静かに切り離された気がした。
どれくらい、ぼんやりしていたんだろう。
店内に射し込む光は、気づけば柔らかいオレンジ色に変わっていた。
ホットで頼んでいたカフェモカは、まだ一口も付けずのまま。
その温度は、もうあたしのものじゃないみたいに冷たかった。
(……現実、だよね)
(……家に帰りたくない)
「うわっ、堀川ちゃん?」
聞き慣れた声に、意識が、世界が、現実に引き戻される。
「……たかみや、せんぱい……?」
「……何、その顔」
そこに立っていたのは、休日姿の鷹宮先輩。
それだけで、張りつめていたものが少しだけ緩む。
シトラスの香りが、錆び付いて弱りきったあたしの心に染み渡る。
「買い物帰りに、甘いん飲みたくてな」
「相席してええ?」と聞かれ、断る選択肢なんてあるはずもなく、向かいの椅子をすすめた。
鷹宮先輩が、あたしのカップを指さす。
「カフェモカ。俺のもカフェモカやねん」
「意外です……てっきり、ブラック派かと」
「みんなそれ言うわ。ちゃいますよ~甘党なんです~」
ちょっと高めの声で笑ったあと、真面目な顔であたしのカップを指差す。
「……堀川ちゃんも、本当は違うやろ?」
「……え?」
「この前、休憩室でブラック持ってたやん」
そこまで見てたのか、と驚くより先に、胸がきゅっと掴まれる。
彼でさえ気づかなかった、小さな違和感。
「彼、好きな人が出来たそうです」
気づけば、口が勝手に動いていた。
本当は甘くて、少し苦手なカフェモカ。
彼との初デートでたまたま注文したら、彼も同じものを頼んで「好み一緒だね」と笑ってくれた。
――その笑顔が、嬉しくて。
小さな嘘をひとつついて。
そのあとも、積み重ねた嘘を隠し続けた。
「少しでも喜んでほしくて……少しでも、好きでいてほしくて」
自分でも何を言っているのかわからない。
でも、一度こぼれた言葉を、止める術が無かった。
もう、今までの嘘をカフェモカで流し込めない。
「……あたし、最低です……」
「言うたやん。『我慢せんでええ』って」
「……ここでは、泣きたくない、です」
なけなしの意地を張って、テーブルの下で服の裾を握りしめる。
そんなあたしを見て、鷹宮先輩は小さく息を吐いた。
次の瞬間、有無を言わせない動きであたしの手を取る。
「……え?」
伝票をまとめて差し出し「カードで」と短く言う。
見慣れない色と質感のカードが、一瞬だけ目に入る。
慣れた手つきで会計を済ませると、お店を出て雑踏の中へ。
行き交う人を避けるように、鷹宮先輩はあたしに歩調を合わせた。
やがて人通りの少ない路地で、ようやく足が止まる。
鷹宮先輩の広い背中が、くるりと向き直った。
「無理すんな言うたやろ。……おいで、葵ちゃん」
名前を呼んだ低い声と同時に、広い腕の中へ閉じ込められた。
服越しに伝わる体温は、嘘みたいに優しい。
なのに、その腕は逃がさないみたいに力強かった。
苦しくて顔を上げると、少しだけ切なげで、それでも慈しむような瞳が真っ直ぐにあたしを見ていた。
――あぁ、だめだ。
張り詰めていたものが、ガラガラと音を立てて崩れる。
「……あたし、本当はカフェモカ、甘すぎて苦手なんです」
「うん」
「本当は、雷も怖いです」
「うん」
「本当は……今日なんて、来てほしくなかった……」
「うん」
鷹宮先輩は、否定も肯定もせず、ただ静かに頷き続ける。
それが、どんな慰めの言葉よりもずっと、あたしを優しく包み込んでくれる気がして。
路地裏なのに、子どもみたいに声を上げて泣いた。
通り過ぎる人の足音も、ネオンの光も、全部どうでもよかった。
涙が落ち着いた頃、鷹宮先輩が、そっとあたしの両頬を挟む。
「なぁ」
無理やり顔を上げさせられて、逃げ場をなくした視線が絡まる。
「……その顔、かわええな」
からかわれているだけかもしれない。
それでも、胸の奥がじんと痺れた。
「……鷹宮先輩には、本当に助けられてばっかりです……何か、お礼をさせてください」
震えが残る声で言うと、彼はふっと目を細める。
「ほんなら、そのうち」
「ちゃんと、甘えてこい」
その瞬間、彼の指先があたしの頬を、あの日と同じようにゆっくりと辿った。
慈しむような、でも、どこか「獲物」を見定めているような熱を帯びた瞳。
あたしは小さく頷くことしかできなかった。
鷹宮先輩の優しさを知ってしまったんじゃない。
あたしはもう、彼が丹念に敷き詰めた「罠」の真ん中に、
自ら足を踏み入れていたんだと――。
浮き足立つ空気の中で、あたしだけがうまく呼吸できなかった。
「ふぅ……」
最後の確認メールを送信して、肩をぐるりと回す。
定時を少し過ぎただけで全部片づいた自分を、こっそり褒めた。
下りのエレベーターが開いた瞬間、聞き慣れた声が飛んでくる。
「お、堀川ちゃん。お疲れさん」
「鷹宮先輩、お疲れさまです」
あの日以来、名前を呼ばれることにまだ慣れない。
失恋の大泣き姿を見られてから、どうしても少し身構えてしまう。
――それでも、避ける理由にはならなくて。
何気ない会話が、思っていたより自然に続く。
新人研修の頃、関西支社で何度か顔を合わせていたらしい。
だからだろうか、今では当たり前のように「先輩」と呼んでいた。
途中の階で人が乗り込んできて、箱の中がぎゅっと詰まる。
その瞬間。
「危ないから、こっち」
ひょい、と位置を変えた鷹宮先輩に、壁側へと囲われる。
逃げ場を塞ぐように伸びた腕。
近すぎる距離。
あの濃厚なシトラスの香りが、息の近さを際立たせる。
近すぎる距離。
(……イヤじゃない)
(こんなにすぐ、別の人の声にときめくなんてダメなのに……)
確かな予感に、背筋が少しだけ震えた。
「そういえば、話し合いは明日だっけ?」
耳のすぐそばをくすぐる低い声に、鼓動が小さく跳ねた。
「……そうなんですよ。ちょっと、気が重くて」
エレベーターを降りると、夜の冷たい空気がロビーに流れ込む。
「終わったあと、胸貸したるで?」
鷹宮先輩は、わざとらしくない程度に声を落とす。
「失恋現場に居合わせた責任取ったるわ」
あまりにも清々しい意地悪さに、思わず吹き出してしまった。
「……元気出ました。もしかしたら、お願いします」
一瞬だけ、鷹宮先輩の目が大きく見張ったが、すぐに元通り。
「おぅ。その時は――」
「ちゃんと素直に甘えといで。めちゃめちゃ甘やかしたるから」
低くて、いつもより優しく柔らかな声が、心のどこかに引っかかった。
(……これじゃ、本当に甘えたいみたいじゃない)
寒さのせいにしたかった。
でも、たぶん違う。
心の内を読まれたのか、鷹宮先輩はふっと優しい笑みを浮かべる。
「後悔も、無理も、せんでええからな」
その一言で、本当に明日を乗り切れる気がした。
***
どれだけ憂鬱でも、約束の日時はやってくる。
待ち合わせは午後二時、駅前のカフェ。
足取りは鉛みたいに重いのに、約束より少し早く着いてしまった。
『先に入って、注文しといて』
彼から届いたメッセージ通り席につき、選んだのは――カフェモカ。
「ごめん、葵。待った?」
運ばれてきたコーヒーの湯気の向こうに、彼が立つ。
少し前に会ったはずなのに、もう遠い昔の人みたいに感じる。
「あ……ほんと好きだよね、カフェモカ」
「……うん……」
(本当は、好きじゃないのに……)
――でも、好きって言ってほしかった。
沈黙が落ちる。
彼の指先だけが、画面の上を意味も無くなぞっている。
「……ごめん。好きな人、できた」
視線は最後まで一度も、あたしと交わらないまま。
その一言で、彼との世界が、静かに切り離された気がした。
どれくらい、ぼんやりしていたんだろう。
店内に射し込む光は、気づけば柔らかいオレンジ色に変わっていた。
ホットで頼んでいたカフェモカは、まだ一口も付けずのまま。
その温度は、もうあたしのものじゃないみたいに冷たかった。
(……現実、だよね)
(……家に帰りたくない)
「うわっ、堀川ちゃん?」
聞き慣れた声に、意識が、世界が、現実に引き戻される。
「……たかみや、せんぱい……?」
「……何、その顔」
そこに立っていたのは、休日姿の鷹宮先輩。
それだけで、張りつめていたものが少しだけ緩む。
シトラスの香りが、錆び付いて弱りきったあたしの心に染み渡る。
「買い物帰りに、甘いん飲みたくてな」
「相席してええ?」と聞かれ、断る選択肢なんてあるはずもなく、向かいの椅子をすすめた。
鷹宮先輩が、あたしのカップを指さす。
「カフェモカ。俺のもカフェモカやねん」
「意外です……てっきり、ブラック派かと」
「みんなそれ言うわ。ちゃいますよ~甘党なんです~」
ちょっと高めの声で笑ったあと、真面目な顔であたしのカップを指差す。
「……堀川ちゃんも、本当は違うやろ?」
「……え?」
「この前、休憩室でブラック持ってたやん」
そこまで見てたのか、と驚くより先に、胸がきゅっと掴まれる。
彼でさえ気づかなかった、小さな違和感。
「彼、好きな人が出来たそうです」
気づけば、口が勝手に動いていた。
本当は甘くて、少し苦手なカフェモカ。
彼との初デートでたまたま注文したら、彼も同じものを頼んで「好み一緒だね」と笑ってくれた。
――その笑顔が、嬉しくて。
小さな嘘をひとつついて。
そのあとも、積み重ねた嘘を隠し続けた。
「少しでも喜んでほしくて……少しでも、好きでいてほしくて」
自分でも何を言っているのかわからない。
でも、一度こぼれた言葉を、止める術が無かった。
もう、今までの嘘をカフェモカで流し込めない。
「……あたし、最低です……」
「言うたやん。『我慢せんでええ』って」
「……ここでは、泣きたくない、です」
なけなしの意地を張って、テーブルの下で服の裾を握りしめる。
そんなあたしを見て、鷹宮先輩は小さく息を吐いた。
次の瞬間、有無を言わせない動きであたしの手を取る。
「……え?」
伝票をまとめて差し出し「カードで」と短く言う。
見慣れない色と質感のカードが、一瞬だけ目に入る。
慣れた手つきで会計を済ませると、お店を出て雑踏の中へ。
行き交う人を避けるように、鷹宮先輩はあたしに歩調を合わせた。
やがて人通りの少ない路地で、ようやく足が止まる。
鷹宮先輩の広い背中が、くるりと向き直った。
「無理すんな言うたやろ。……おいで、葵ちゃん」
名前を呼んだ低い声と同時に、広い腕の中へ閉じ込められた。
服越しに伝わる体温は、嘘みたいに優しい。
なのに、その腕は逃がさないみたいに力強かった。
苦しくて顔を上げると、少しだけ切なげで、それでも慈しむような瞳が真っ直ぐにあたしを見ていた。
――あぁ、だめだ。
張り詰めていたものが、ガラガラと音を立てて崩れる。
「……あたし、本当はカフェモカ、甘すぎて苦手なんです」
「うん」
「本当は、雷も怖いです」
「うん」
「本当は……今日なんて、来てほしくなかった……」
「うん」
鷹宮先輩は、否定も肯定もせず、ただ静かに頷き続ける。
それが、どんな慰めの言葉よりもずっと、あたしを優しく包み込んでくれる気がして。
路地裏なのに、子どもみたいに声を上げて泣いた。
通り過ぎる人の足音も、ネオンの光も、全部どうでもよかった。
涙が落ち着いた頃、鷹宮先輩が、そっとあたしの両頬を挟む。
「なぁ」
無理やり顔を上げさせられて、逃げ場をなくした視線が絡まる。
「……その顔、かわええな」
からかわれているだけかもしれない。
それでも、胸の奥がじんと痺れた。
「……鷹宮先輩には、本当に助けられてばっかりです……何か、お礼をさせてください」
震えが残る声で言うと、彼はふっと目を細める。
「ほんなら、そのうち」
「ちゃんと、甘えてこい」
その瞬間、彼の指先があたしの頬を、あの日と同じようにゆっくりと辿った。
慈しむような、でも、どこか「獲物」を見定めているような熱を帯びた瞳。
あたしは小さく頷くことしかできなかった。
鷹宮先輩の優しさを知ってしまったんじゃない。
あたしはもう、彼が丹念に敷き詰めた「罠」の真ん中に、
自ら足を踏み入れていたんだと――。



