「……ん……」
薄く目を開けると、暗闇の中でも分かる見慣れた天井。
隣にあるはずの体温を探す前に、声が落ちてきた。
「……起きたん?」
少しだけ掠れた声に、胸がきゅっと締め付けられる。
――今日は、いのさんに会う大事な日。
「起きるには、まだ早いで……」
サイドテーブル上の時計を見ると、朝の五時前。
いつもはまだ眠っている時間だ。
「……緊張してるん?」
「……はい」
正直に答えると、くすっと小さく笑われた。
「大丈夫。俺もおるし、葵は葵らしくでええ」
その一言で、少しだけ呼吸が楽になる。
璋さんの鼓動を聴きながら、あたしはもう一度、瞼を閉じた。
***
四ノ宮会長宅は圧倒されるほど荘厳で、門をくぐるだけでも想像以上に気力がいる。
周りの空気も、都会のはずなのに冷たくて重い。
逃げ場なんて、どこにもなかった。
「璋さん……ちょっとだけ、手を繋いでほしいです」
声と指先が、かすかに震える。
「ちょっとと言わず……」
絡めとられた指が、強く握られる。
璋さんの体温が、強張った心と身体をほどいていく。
「ありがとうございます、行きましょう」
(怖い……でも、璋さんがいてくれるから大丈夫)
深呼吸して、あたしは一歩を踏み出した。
***
案内された部屋で、座って待っている女性――四ノ宮いのさん。
「よく来ましたね、璋さん」
気品ある着物に身を包んだ圧倒的な存在感に、息を飲んだ。
視線ひとつで、すべてを見透かされている気がする。
「そちらの方は?」
形ばかりの問いを向ける声は、すでに答えを知っている響きを含んでいた。
「白々しいな、知ってるくせに――」
「あの」
あたしは一歩、前へ出る。
「はじめまして、堀川葵と申します。四ノ宮璋さんとお付き合いをしています」
「私は四ノ宮いの。璋の祖母です」
口角は上がっているのに、声だけは刺すように冷たい。
すぐに視線は外され、隣の璋さんに移った。
「で、何の用があって、わざわざ来たのかしら」
「茉白との縁談は双方合意で破談やで」
「では、次のお相手を探すまでです」
「ばあちゃん、俺はもう見合いは、金輪際せえへん」
「俺には、葵しかおらん」
璋さんの確かな言葉にも動じず、悠然とした構えのまま言う。
「璋、あなたはこの四ノ宮家の跡取りですよ」
静かな声がこの場を支配し、重苦しくのし掛かる。
「それ相応の相手でなければ、許しません。家名に泥を塗るわけにはいきませんからね」
「彼女では、力不足もいいところです」
いのさんの一挙手一投足が、鋭利な刃物のように刺さっていく。
わかっていても、気持ちが削ぎ落とされそうになる。
「葵を侮辱するなら、俺は四ノ宮を捨てる」
そっと背中に触れる手が、優しくさする。
璋さんは、一歩、前に出た。
「でも、逃げるために捨てるんちゃう」
その声は、迷いなくいのさんに向けられている。
「守るために、全部背負うって決めた」
「璋さんっ」
あたしは思わず口を挟んだ。
――これは、あたしの覚悟も問われている。
「いのさん」
震えそうになる声を、必死に抑える。
「……あたし、神崎さんに言われました」
「四ノ宮に関わるなら、覚悟がないならやめろって」
璋さんの指先が、わずかに強くなる。
「……神崎?」
低く落ちた声。
次の瞬間、視線が鋭くいのさんへ向いた。
「……ばあちゃん、あいつ使ったんか」
「ええ」
「知らずに巻き込まれるほうが、よほど残酷でしょう?」
「綺麗事だけで守れる家なら、私もこんな真似はしません」
璋さんの気配が、わずかに荒れる。
次の言葉を吐き出しかけたその瞬間――
あたしは、そっとその袖を掴んだ。
小さく、でもはっきりと。
「……大丈夫です」
その一言で、璋さんの動きが止まる。
「あたしは、璋さんを幸せにします」
まっすぐ、見据える。
「……そして、幸せにしてもらいます」
璋さんも柔らかな笑みを浮かべている。
「俺も、葵やないとあかん」
気付けば、お互いを強く握りしめあう。
いのさんの視線が、さらに鋭くなった。
「葵さん……あなたは、“好き”で四ノ宮を背負うと言うのね」
静かな声。
でも、その奥にあるのは試す目だ。
「その“好き”は、どこまで持つのかしら」
いのさんの瞳が、今度は真っ直ぐにあたしを捉える。
「地位も、家も、しがらみも。すべてを飲み込んで、それでも隣に立てる覚悟があなたにはありますか?」
「――途中で壊れても、逃げずにいられる?」
胸の奥が、強く打つ。
怖いけれど、証明したい。
――あたしたちの覚悟を。
「壊れるかどうかは、わかりません」
一度、息を吸う。
「でも――壊れたら、二人で立て直します」
視線を逸らさずに、逃げない。
「ひとりでは背負えません」
「だから二人で背負うって、決めてるんです」
胸の奥から、言葉が溢れる。
ただただ誠実に、いのさんと向き合いたい。
「恋で終わりません」
「だって――」
「愛してる人の人生って、半分くらいは勝手に背負ってしまうもんですよね?」
いのさんはぴたりと動きを止め、初めてあたしを一人の女性として、真っ直ぐに見つめた。
時計の針の音だけが響く、長い、長い沈黙。
「恋は、誰にでもできます」
「でも愛は、覚悟がなければ続かない」
「……罪深いものですよ」
やがて、彼女の口元が、わずかに――
本当にわずかにだけ、綻んだ気がした。
「ばあちゃん」
一歩、前に出る。
「俺はもう、“守るために離す”なんてせえへん」
低く、確かな声。
「全部、抱えたまま、葵と生きる」
その言葉に、空気がわずかに揺れた。
しばらくの沈黙のあと。
「……私はね」
いのさんが、ゆっくりと口を開く。
「四ノ宮に嫁いでから、ずっと戦ってきました」
遠くを見るような目は、過去を辿っているのだろうか。
あたしたちから、視線が外れている。
「だからこそ、簡単に背負うなんて言葉は信じません」
その言葉は、厳しくて――優しかった。
「……だから」
ほんのわずかに、声の温度が変わる。
「……見せてもらいましょうか」
「逃げたら――その時は、私が許しません」
射抜くような瞳が、少しだけ柔らかくなる。
「認めたわけではありません」
「ただ……」
一瞬だけ、孫を大切に想う祖母の顔に戻る。
その厳しさの奥にあるものが、
……少しだけ分かった気がした。
璋さんがあの人を嫌いきれない理由も。
「……あっくん、選んだなら背負いなさい」
その言葉に胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……ばあちゃん」
「私は忙しいの。用が済んだなら失礼します」
「……俺、ばあちゃんのこと好きやで」
いのさんは振り向かない。
けれど、その背中からは、少し微笑んでいるみたい。
その空気は、さっきまでとはまるで違っていた。
***
玄関のドアが閉まった瞬間。
抑えていたものが、音を立てて溢れた。
靴を脱ぐのももどかしいまま。
背後から腕を引かれて、壁に押し付けられる。
璋さんの袖口に、白蝶貝が淡く光った。
「……璋、さん?」
「ごめん、もう我慢できへん」
首筋に、熱い吐息。
触れた瞬間、思考が溶けていく。
「……一週間分。……いや」
低く、掠れた声。
「……一週間分、全部、葵で埋める」
耳元で囁かれて、心臓が跳ねる。
暗かったリビングに、二人の体温が満ちていく。
一週間前、この場所で一人で膝を抱えていたのが嘘みたいに、今のあたしは熱い。
「ちょっと……待って……まだ夕方……」
「『璋さんが足りない』って言うたよな?」
艶やかな言葉の中に、かすかに震える声。
「……俺もや」
「死ぬほど足りんくて、おかしくなりそうやった」
逃がさないと言わんばかりに、深く、何度も。
確かめるように。
奪い返すみたいに。
喉の奥が震えるほどの熱い口付けが降ってきた。
四ノ宮という名前がどれほど重くても、今のあたしには、あなたの腕の重さのほうがずっと心地いい。
あたしはただ、大好きな彼の香りと体温に、全力で身を委ねた。
この人となら、
どんな場所でも、きっと帰る場所になる。
おかえり。
今度こそ、ちゃんと隣にいてくれる人。
――あたしの、帰る場所。



