「……っ……」
失恋したその日に泣くなんて、思ってなかった。
誰もいないはずの休憩室で。
「……なに泣いてんの」
低い声が、すぐ後ろから落ちてきた。
びくっと肩が揺れる。
振り返る前に――
ふわりと、頭に手が触れた。
シトラスの香りに混じる、優しい体温。
「……泣いてええよ」
その一言で、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
***
『今日のラッキーアイテムは、梅味の飴です』
軽快なBGMと共に、朝の情報番組の占いコーナーが流れる。
いつもは気にしないのに、今日はなんとなく気になって、梅味の飴を買った。
(今日、デートだし……)
――まさか、その日のうちにフラれるなんて思ってもいなかった。
会社を出てすぐ、着信音が鳴った。
画面に表示された名前に、少しだけ胸が弾む。
通話ボタンを押すと、数秒の沈黙のあと。
『ごめん』
『別れよう』
あまりにもあっさりとした声だった。
「……とりあえず、今日の約束は無しにして、週末話そう?」
自分でも驚くくらい、冷静な声が出た。
彼は「わかった」とだけ言って、通話は途切れた。
気づけば、あたしは会社に戻っていた。
(…………何してんだろ、あたし)
適当な言い訳をしてフロアを抜け、足は自然と休憩室へ向かう。
自販機の前で立ち止まり、ブラックの缶コーヒーを押した。
カバンの中で、指先が触れる。
――ラッキーアイテムの梅の飴。
包み紙を破ってそっと口に含むと、梅の香りと酸味がじわりと広がった。
「……すっぱい……なにがラッキーアイテムよ…」
ぽろ、ぽろ。
ぼろぼろ。
涙が、次々とこぼれ落ちていく。
(フラれたんだ……)
理由なんて、わからない。
ただ、それだけが現実だった。
視界が滲んで、何も見えなくなる。
立っていられなくて、ソファに腰を落とした瞬間――
「大丈夫?」
頭上から声が降ってきた。
顔を上げると、知らない男の人が立っていた。
背が高い。
ラフなシャツ姿なのに、妙に目を引く。
目が合った瞬間、なぜか逸らせなかった。
「……すみません……」
そう言ったつもりなのに、声は震えて、うまく出ない。
男の人は少し困ったように眉を下げて、向かいに座った。
眼鏡の奥の瞳は、驚くほど優しい色をしている。
なのにその奥に、逃がさない何かが、確かにそこにあった。
「……なんか、あった?」
その声は、ひどく低くて、耳の奥に心地好く響く、柔らかな関西訛り。
少し優しさが滲んで、涙腺が、心ごと一気に崩れる。
喉がきゅっと詰まって、言葉が出ない。
なのに、なぜか――
「……フラれ……ました……」
言葉が、こぼれた。
止めようとしても止まらない。
支離滅裂なのに、それでも彼は遮らない。
ただ、静かに聞いてくれる。
「……そっか」
たったそれだけなのに、胸の奥がほどける。
少しの間のあと、彼は言った。
「それは……ちゃんと見てへん相手が悪いわ」
その優しい声に、あたしはまた泣いた。
「……すみません……」
「ええよ、甘えても」
その一言で、もう抗えなかった。
「気ぃ済むまで泣いたらええよ」
――たぶん、もう二度と会わない人。
だから、少しだけ甘えた。
苦いはずなのに、今日はその味すら想像できなかった。
ただ、その時間だけは、不思議とあたたかかった。
***
翌朝。
広報課のフロアに、ざわめきが走る。
「関西支社から来た人だって」
「めっちゃ背高い!」
「イケメンすぎるっ!」
「29歳で主任だって!有望株~!」
話題は、新しく異動してきた人物のことで持ちきりだ。
(関西……?)
机に向かいながら、ぼんやり思う。
(ま、いっか)
「ほーりー~♪」
聞き慣れた声が、後ろから抱きしめてくる。
涼しげなショートカットに、切れ長の瞳。
女子にしては珍しく高身長で、パンツスタイルがよく似合う。
女子が抱かれたい裏No.1と噂される、広報課のエース・八千草雪乃(やちぐさ ゆきの)さん。
「おはようございます、雪乃センパイ」
「おはよ~。今日ランチ、一緒して?」
「大丈夫です!」
即答すると、雪乃先輩があたしの目元をなぞる。
「……で? それ、何かあった目だよね?」
「……お昼に聞いてもらってもいいですか?」
そう言いかけた、そのとき。
「きゃーっ!!」
アイドルのライブ会場並みの黄色い悲鳴に、フロアが揺れた。
「関西支社から参りました、本日付で経営戦略企画部に配属になりました、鷹宮璋(たかみや あきら)です」
入り口に立って挨拶をする男性。
整った顔立ち、落ち着いた声音。
一瞬で空気が変わる。
隣で雪乃先輩がニヤニヤしている。
「おーおー、相変わらずだなぁ~」
「雪乃先輩、知ってるんですか?」
「知ってるも何も、同期だよ? あれ、ほーりー知らなかった?」
うわさ話に疎いというか、他の男性社員に興味を持ったことがほとんどない。
――そうだった。
あたし、昨日フラれたんだ。
(やば……仕事しよ)
気持ちを切り替えるように、パソコンに向き直る。
(そういや、今日のラッキーアイテム、見てなかったなぁ)
そんなことをぼんやりと思いながら。
あたしは、キーボードを叩き始めた。
***
お昼休み。
会社近くのカフェに入ると、雪乃先輩が手を振った。
「こっちこっち!」
顔を上げる。
「……え?」
営業部のエースで、雪乃先輩の同期でもある真鍋和巳(まなべ かずみ)さん。
そして、その隣にいるのは――見覚えのある顔。
でも、違う。
スーツ姿で、完璧に整ったその人は――
「待たせた?」
「よー、雪乃」
三人の砕けたやり取りが耳に入る。
でも、それどころじゃない。
「彼女なら知ってる。……昨日会ったやろ?」
時間が、止まった。
意地悪な笑みを浮かべた彼と、ゆっくりと視線が絡む。
その目の奥にある熱は、昨日と同じで――
「まーだ、わからへん?」
そう言って、彼は少しだけ距離を詰めた。
取り出した眼鏡、シトラスの香り。
耳に馴染み始めた、あの関西訛りの声音。
「……っ!」
声にならない声が漏れる。
間違えるはずがない。
昨日、あたしの前で笑っていた人だ。
「薄情なヤツやなぁ~。昨日あんなに泣いとったのに」
(覚えてる!?)
「「え?」」
雪乃先輩と真鍋さんの声が見事に重なった。
ケラケラと楽しそうに笑う彼に、顔が一気に熱くなる。
あたしは慌てて「じゃ、注文しましょう!」と話題を変えた。
***
結局、失恋話で盛り上がってしまった。
「こーんな健気でカワイイほーりーを振るとかないわ。次よ、次!」
「そうそう。堀川の良さがわからん男は忘れろ、忘れろ」
「え? 君ら親なん?」
ふたりの掛け合いに、思わず笑ってしまう。
胸の奥に残っていた重たいものは、少しだけ軽くなっていた。
お手洗いを済ませてレジに向かおうとすると、鷹宮さんに呼び止められた。
手にある使い込まれたのにどこか質感の良い財布。
それを見てあたしは慌ててカバンを探る。
「これ、あげる」
差し出されたのは、割引券。
ということは――もう会計は済んでいる。
「そんな――」
言いかけたところで、彼がふっと「会計はええから」顔を寄せてきた。
さっきよりも、シトラスの香りが濃厚になる。
「今日は、泣かんで済みそう?」
耳をくすぐるような、少し低めの艶やかな声。
近い。
昨日より、ずっと。
「あの……鷹宮さん」
「先輩やしな。これからよろしくな、堀川葵ちゃん」
(……なんで名前知ってるの?)
「……よろしくお願いします」
名前を呼ばれて、胸がまたひとつ跳ねる。
「昨日あれだけ泣いとったのに、今日はちゃんと笑えるんやな」
「しかも、パスタは完食するんやもんなぁ。意外と食い意地張ってる?」
くすっと笑うその顔に、少しだけ意地悪さが混じる。
(……ズルい)
頬が熱くなるのを誤魔化すように、あたしは慌てて「知りませんっ」と横を向いた。
***
午後の仕事。
キーボードを叩きながら、何度も思い出す。
『ええよ、甘えても』
甘い毒のように頭の中で繰り返される。
昨日の声と、今日の声。
優しさと、少しの意地悪。
あの時の先輩の目が、少しだけ違ったことを、
この時のあたしは、まだ知らない。
(……なんなの、この人)
口の中に、梅飴のすっぱい味が蘇る。
でも――
さっきより、少しだけ甘く感じた。
そして、ふと気づく。
この人に、名前を呼ばれるのが、少しだけ嬉しくなっていることを。
そのときのあたしは、まだ知らなかった。



