鷹宮先輩、ズルいです〜無自覚上司の甘い溺愛〜


『今日のラッキーアイテムは、梅味の飴です』
 
軽快なBGMと共に、朝の情報番組の占いコーナーが始まる。
いつもなら聞き流すだけなのに、今日は久々のデートだったからだろう。
なんとなく気になって、コンビニで梅味の飴を買って、カバンに忍ばせていた。
 
――まさか、その日のうちにフラれるとは思ってもいなかったけど。
 
会社を出てすぐ、着信音が鳴った。
画面に表示された名前を見て、胸が少し高鳴る。
通話ボタンを押すと、数秒の沈黙のあと、彼は淡々と言った。
 
『別れよう』
 
寝耳に水。
青天の霹靂。
 
「とりあえず今日の約束は無しにして、週末話そう?」
 
あたしの口から出たのは、自分でも驚くほど落ち着いた声だった。
彼は「わかった」とだけ言って、あっさりと通話を切る。
 
気づけばあたしは、踵を返していた。
退勤したはずの、自分のデスクの前に立っている。
ついさっきの出来事なのに、もう遠い過去みたいに感じていた。
 
(…………何してんだろ、あたし)
 
無意識とはいえ、なぜ会社に戻ってきたのか。
しかもフロアには、まだちらほら人がいる。
「忘れ物しちゃって~」と適当な言い訳をしながら、デスクに向かう自分の姿が、どこか他人事だった。
 
このまま座っているわけにもいかず、あたしは再び席を立った。
「お先に失礼します」と頭を下げてフロアを出る。
でも、まっすぐ帰る気にはなれなくて、足は自然と自販機のある休憩室へ向かっていた。
 
いつものように、ブラックの缶コーヒーを買う。
ソファに腰を下ろそうとした瞬間、携帯が震えた。
取り出そうとして、カバンの中で指先が触れる。
 
――ラッキーアイテムの梅の飴。
 
包み紙を破ってそっと口に含むと、梅の香りと酸味がじわりと広がった。
 
「……すっぱい……って……なにがラッキーアイテムよ…」
 
わかってる。
しょせん占いは占い。
当たるときもあれば、外れるときもある。
 
八つ当たりだって、わかってるのに。
 
ぽろ、ぽろ。
ぼろぼろ。
 
涙が、次々とこぼれ落ちていく。
 
あたしはようやく、実感した。
 
(フラれたんだ……ほんとに)
 
何がダメだったんだろう。
思い当たる理由も、見当もつかない。
ただ一つ確かなのは、「別れよう」という文字が、メッセージにも残っているという事実だけ。
 
(夢じゃ…ないんだ)

思えば、いつも波風立てないように、相手に合わせてばかりだった。 
自分から何かを強く求めたことなんて、一度もなかったかもしれない。

(そりゃ……愛想尽かされる……のかな……)  
  
視界が滲んで、世界の輪郭が歪む。
堰を切ったみたいに、涙と嗚咽が止まらない。
 
どれくらい立ち尽くしていたんだろう。
手の中の缶コーヒーは、すっかりぬるくなっていた。
猫舌のあたしには、ちょうど飲み頃のはずなのに、プルタブを開ける気力も出ない。
 
休憩室のソファに腰を落とした瞬間、張り詰めていたものがふっと切れた。
 
「……はぁ……」
 
ため息なのか、嗚咽なのか、自分でもわからない音が漏れる。
 
「大丈夫?」
 
ふいに頭上から降ってきた声に、肩がびくっと跳ねた。
顔を上げると、滲んだ視界の向こう。
見覚えのない男の人が立っていた。
 
背が高い。
崩した髪に、ラフなシャツ。
シンプルだけど、どこか仕立ての良さが見え隠れする。 
 
フロアにいるスーツ姿の社員とは雰囲気が違う。SEさんか、業者の人か――。
そんなことを考える余裕が、まだどこかに残っていた。
 
「……すみません……」
 
そう言ったつもりなのに、声は震えて、うまく音にならなかった。
男の人は、困ったように眉を下げると、少し間を置いてから向かいの椅子に腰を下ろした。
 
「……なんか、あった?」
 
眼鏡の奥の瞳は、驚くほど優しい色をしていた。
喉がきゅっと詰まって、言葉が出ない。
 
「……あー……」
 
彼は小さく息を吐く。
 
「泣かせるつもりはなかったんやけどな」

その声は、ひどく低くて、耳の奥に心地好く響く、柔らかな関西訛り。
少し優しさが滲んで、涙腺が、心ごと一気に崩れる。
 
「……フラれ…ました……」
 
普段なら絶対に言わない。
名前も知らない相手、しかも男の人になんて。
なのに、彼が纏う「拒絶を許さないほどの静かな空気」に、あたしの心は勝手にこじ開けられてしまった。 
自分でも驚くほど、素直に言葉が出る。
 
「今日、デートの予定で……占いで……ラッキーアイテムが……」
 
何を言ってるのか、自分でもよくわからない。
支離滅裂なのに、止まらない。
今、初めて会った、それも男の人に。
 
「……電話で…嫌いになったわけじゃない……けど……別れようって……」
 
言葉も、涙も、次から次へと溢れてくる。
それでも彼は、遮らない。
笑いもしない。
ただ、静かに聞いてくれている。
 
「……そっか」
 
なんてことない一言。
なのに、妙にあたたかかった。
 
「……なんでだろう……」
 
「……ちゃんと、頑張ってたのに……」
 
彼は少しだけ間を置いてから言った。
 
「それは……ちゃんと見てへん相手が悪いわ」

彼はそう言うと、あたしの前に置かれた冷え切った缶コーヒーに、そっと指を触れた。
その指先が驚くほど綺麗で、あたしは自分がひどく惨めな生き物になったような気がして、また泣いた。  
 
「……すみ……ま…せんっ……」
 
「ええよ、甘えても」
 
触れられていないのに、優しく頭を撫でられているみたいだった。
  
「気ぃ済むまで泣いたらええよ」

さっきまで消えてしまいたいと思っていたのに、今は彼の優しさに少しだけ甘えたい。
きっともう、会うことないだろうから……。
   
缶コーヒーはすっかり飲み頃を通り過ぎて、冷たくなってしまったけれど――
今、この瞬間だけは、不思議とあたたかかった。
 
***
 
翌朝。
広報課のフロアに、ざわめきが走る。
 
「関西支社から来た人だって」
 
「すごく背、高くない?」
 
「超絶イケメン!」

「めちゃ良い声っ」
 
「しかも29歳で主任だって。有望株~!」
 
泣き腫らしてパンパンになったあたしの顔より、話題は今日本社に異動してきた人物のことで持ちきりだ。
 
(関西……? そういえば社内報に載ってたっけ?)
 
さほど興味がなかったから、たいして覚えていない。
 
(ま、いっか。仕事で関わるときに覚えれば)

机の上に置かれてある指示書に目を通す。  
パソコンを立ち上げ、始業準備に取りかかった。
 
「ほーりー~♪」
 
聞き慣れた声が、後ろから抱きしめてくる。
 
「おはようございます、雪乃センパイ」
 
「おはよ~。ちょっと急ぎで頼みたいことがあるんだけど、いい?」
 
涼しげなショートカットに、切れ長の瞳。
女子にしては珍しく高身長で、パンツスタイルがよく似合う。 
女子が抱かれたい裏No.1と噂される、広報課のエース・八千草雪乃(やちぐさ ゆきの)さん。 
 
新人研修で担当してくれた、あたしの恩人であり憧れの人。
厳しく鍛えられたおかげで、今のあたしがある。パッとしないし華の無い容姿のあたしを、あれこれ可愛がってくれている。

――雪乃先輩みたいになりたくて、口紅の色を真似したのも、若気の至りというもので……。  
 
そんな雪乃先輩から「頼みたいこと」なんて言われたら――
もちろん、全力で引き受けるに決まってる。
 
「大丈夫ですよ! なんでしょうか?」
 
「ありがと~。今日のランチ、一緒してほしいの。急だけど、大丈夫?」
 
即答でうなずく。
そのとき、雪乃先輩の細く綺麗な指が、あたしの目の下をそっとなぞった。
その仕草は、同性のあたしでもグラッとくる色気だ。 
 
「……で? それはメイクで誤魔化した“何かあった目”だよね?」
 
「……お昼に聞いてもらってもいいですか?」
 
バツが悪く笑うと、雪乃先輩が何か言いかけたとき――
 
「きゃーっ!!」
 
アイドルのライブ会場並みの黄色い悲鳴に、フロアが揺れた。
 
「関西支社から参りました、本日付で経営戦略企画部に配属になりました、鷹宮璋(たかみや あきら)です」
 
入り口に立って挨拶をする男性。
「よろしくお願いします」と軽く会釈しただけで、ざわめきはさらに色めき大きくなる。
 
あたしの席からは少し遠いけれど、それでもわかる。
背の高さも、整った顔立ちも、纏っている空気も――たしかに、整っている。
 
隣で雪乃先輩がニヤニヤしている。
 
「おーおー、相変わらずだなぁ~」
 
「雪乃先輩、知ってるんですか?」
 
「知ってるも何も、同期だよ? あれ、ほーりー知らなかった?」
 
うわさ話に疎いというか、入社当初から彼氏一筋だったあたしは、他の男性社員に興味を持ったことがほとんどない。
 
――そうだった。
あたし、昨日フラれたんだ。
遠距離も乗り越えたはずの彼氏に。
 
(やば……仕事しよ)
 
気持ちを切り替えるように、パソコンに向き直る。
 
(そういや、今日のラッキーアイテム、見てなかったなぁ)
 
そんなことをぼんやりと思いながら。
あたしは、キーボードを叩き始めた。 
 
***
 
お昼休み。
雪乃先輩に誘われて、会社近くのカフェにやって来た。
Aのパスタランチか、Bのドリアランチか。
どっちも美味しそうで決めきれない。
雪乃先輩はとっくに決めていて、あたしの返事待ちだ。
 
「ごめんなさい、ちょっと待ってくださいね」
 
「いいよ~。……あ、ちょうど来た。おーい、こっちこっち!」
 
雪乃先輩が手を振る。
あたしはメニューから顔を上げた。
 
「……え?」
 
近づいてきた二人組の男性。
ひとりは、営業部のエースで、雪乃先輩の同期でもある真鍋和巳(まなべ かずみ)さん。
そして、その隣にいるのは――
 
今日、会社中の女子社員の悲鳴をさらっていった、“関西支社から来た男“。
 
「待たせた?」
 
「よー、雪乃。久しぶり」
 
「いや、ひと月前に会ったじゃん」
 
三人の砕けた笑いから、昔からの気心知れた仲なのが伝わる。
あたしは置いてけぼりで、状況がうまく飲み込めない。
 
「璋は、直接は初めましてだよね?」
 
「そうそう。昔、話したでしょ?この子が、あたしたちのカワイイ後輩、堀川――」
 
「知ってる。昨日会ったよね?」
 
「「え?」」
 
雪乃先輩と真鍋さんの声が見事に重なった。
あたしはと言うと、その瞬間、時間が止まった。
 
目の前に座っているのは、非の打ち所がないスーツ姿の、冷徹なまでのエリート。
でも、瞳の奥の熱は、昨日のあの夜と、全く同じで。 
昨日? 
昨日、どこで――?
あまり思い出したくない「昨日」という単語を探っていると、
少し意地悪そうな笑みを浮かべた彼と、目が合った。
 
「まーだ、わからへん?」
 
そう言って、彼は胸ポケットから眼鏡を取り出し、前髪を崩す。
少しだけ身を乗り出すと、清潔なシトラスの香りに混じって、大人の男の体温が空気を震わせた。 
耳に馴染み始めた、あの関西訛りの声音。
 
「……っひぅっ!!」
 
変な声が出たあたしを、彼は楽しそうに細めた目で眺めている。  
髪型も服装も、昨日のラフさとは違うけれど、
――間違えるはずがない。
 
「薄情なヤツやなぁ~。昨日あんなに俺の胸貸したったのに」
 
(貸したって……あたし、縋り付いて泣いたっけ!?) 
 
ケラケラと楽しそうに笑う彼に、雪乃先輩と真鍋さんが「相変わらずだな~」と嬉しそうに突っ込む。
これ以上、あること無いことを話されても困る。 
あたしは慌てて「じゃ、注文しましょう!」と話題を変えた。
 
それに……大事な先輩たちの再会の場で、あたしの辛気くさい失恋話なんて水を差すだけだ。
経緯だけ簡単に話すと、雪乃先輩はあっという間に元カレに怒りモードになり、
「そんな男こっちから願い下げ!」と、終始その話題で盛り上がってしまった。
 
――それはそれでありがたくて、嬉しくて。
さっきまで胸の中で重く沈んでいた何かが、少しずつ軽くなっていく。
 
「こーんな健気でカワイイほーりーを振るとかないわ。次よ、次!」
 
「そうそう。堀川の良さがわからん男は忘れろ、忘れろ」
 
「え? 君ら親なん?」
 
ふたりの掛け合いに、思わず笑ってしまう。
 
お手洗いを済ませてレジに向かおうとすると、鷹宮さんに呼び止められた。
手にある使い込まれたのにどこか質感の良い財布。
それを見てあたしは慌ててカバンを探る。
  
「これ、あげる」
 
差し出されたのは、この店の割引券。
ということは――もう会計は済んでいる。
 
「そんな、悪いです。割引券は皆さんで――」
 
言いかけたところで、彼がふっと「会計はええから」顔を寄せてきた。
耳元すれすれに落ちてくる声。
さっきよりも、シトラスの香りが濃厚で、少しだけ胸が跳ねる。 
 
「今日は、泣かんで済みそう?」
 
耳をくすぐるような、少し低めの艶やかな声。
昨日より、ぐっと近い距離。
頭の中が真っ白になる。
その混乱を楽しむみたいに、彼は昨日と同じ余裕の笑みを浮かべた。
 
「あの……鷹宮さん」
 
「先輩やしな。これからよろしくな、堀川葵ちゃん」
 
名前をフルネームで呼ばれて、胸がまたひとつ跳ねる。
 
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。……あと、ご馳走さまでした……えっと、鷹宮……先輩」
 
「ええよ、甘えても」
 
お礼を言った瞬間、
彼の口元に、今度は少し意地悪そうな笑顔が浮かんだ。
 
「あんなに泣いとったのに、パスタは完食するんやもんなぁ。意外と食い意地張ってる?」
 
(……もしかして……とんでもない人に、弱いとこ見られたかも)
 
頬が熱くなるのを誤魔化すように、あたしは慌てて「知りませんっ」と横を向いた。
 
***
 
ランチから戻り、午後の仕事に取りかかる。
いつもより早くキーボードを叩くのは、手を止めると余計なことを思い出しそうだから。
 
『ええよ、甘えても』
 
その一言だけが、何度も頭の中でリフレインする。
 
失恋の痛みだけじゃない。
休憩室でくれた、さりげない優しさ。
 
そして今日見せた、あの意地悪な笑顔。
 
(……うぅ……しっかり覚えてた……恥ずかしい)
 
口の中に、すっぱかった梅飴の味がふわっと蘇る。
ただ、胸の奥は――
じわりと甘く、
まだ名前のつかない予感みたいに、軋んだ。
 
――思い出してしまうのは、
 
『ええよ、甘えても』

甘い毒のように頭の中で繰り返される、その声だけだった。