「へぇ……そーなんや」
「逃げ場、もうないで?」
低く落ちた声に、背筋がぞくりと震えた。
気づけば、背中は壁に追い詰められている。
逃げ場を塞ぐように、鷹宮先輩の腕が、あたしのすぐ横につく。
近すぎる距離。
シトラスの香りと、さっき飲んだキャラメルマキアートの甘い匂いが混ざる。
「鷹宮先輩……」
視線を上げた瞬間、ネクタイを緩めた彼の視線に捕まった。
いつもは余裕で、隙なんて見せない人。
――なのに。
今、あたしを見てるその目は、上司のそれじゃない。
「そんな顔されたらな」
低く、笑う声。
「……ほっとかれへんやろ」
ずっと、そういう人だと思ってた。
――でも、違う。
逃げようとした瞬間、顎を軽くすくわれる。
「もう逃がさへんから」
囁きが、耳の奥に落ちる。
心臓が、嫌なほど跳ねた。
――この人は、あたしを“拾った側”だ。
あの夜。 隣家から上がった炎と煙で、帰る場所を失ったあたしを、 迷いなく抱き上げたのが、この人だった。
行き場のないあたしに、 鍵を渡してきたのも――
この人。
「覚悟しぃや?」
その言葉が、逃げ場を奪う。
――この日から。
あたしの居場所も、心も、 全部、この人に奪われていくことになるなんて。
そのときのあたしは、まだ知らなかった。



