ディア マイ ハート

 奇跡なんて、起こらないと思っていた。奇跡なんて、本当にあるんだろうかと、そう思っていた。めったに怒らないから、本当は起こらないから奇跡っていうんだと思っていた。
 日曜日の朝は、パパもママもお兄ちゃんもいつもよりのんびりと朝食を食べている。彩は、パジャマ姿のまま、ダイニングテーブルにつき、皿の上にのっているトーストをおもむろにかじった。一口食べて、ため息をつく。これは、彩の習慣と言うか、くせだ。もうこのようなため息をつく朝を何度繰り返してきただろうか。そんな彩に、お兄ちゃんが言った。
「彩、朝ご飯食べ終わったら、ちょっと外に出ないか?」
彩は、何も答えなかった。彩のかわりにママが言った。
「お兄ちゃん、今日は当番でしょ。電話がかかってくるんじゃない?」
七つ年上のお兄ちゃんは、大学病院でレントゲン技師をしている。今日は仕事は休みだけれど、当番なので何かあったら緊急に呼び出されて、急に仕事になることが多々ある。
「家の近くの公園にでも、彩と行ってくる。そこなら、急な呼び出しがあっても、すぐに行けるし。」
お兄ちゃんはそう言った。彩はかじっていたトーストを皿の上に置き、マグカップのコーヒーを飲んだ。気が進まない。けれど、お兄ちゃんは言った。
「そういう事だからな。それ食べたら着替えろよ。スマホくらい持って行けよ。」
お兄ちゃんはそう言って、自分の食べ終わった食器を流し台に持って行き、その場を離れた。彩は、またため息をついた。しかたなくそうするかと思い、食べ終わった彩は洗面所で歯磨きをした。そして、鏡に映る自分の顔を見た。全然、自分の顔が見えない。彩は、目の病気で、ほとんど視力がない。光を感じる程度にはまだ見えているけれど、こうして鏡に映った自分の顔さえ見ることができない。また、ため息をついた。ブラシを手に取り、肩よりも短い髪の毛を整えた。それから、二階に行き、自分の部屋に入った。ほとんど見えなくても、家の中なら、一人で行動ができる。自分の部屋に入り、クローゼットを開けた。右側にある服を手に取った。これは、時々、お兄ちゃんやママと外に出かける時に着る服だ。四月の下旬で、今日は天気が良い。長袖のカットソーとひざ丈のスカートに着替えた。それから、バッグをななめがけにして、スマホを入れた。支度が終わった時、タイミングよく、お兄ちゃんが部屋のドアをノックした。
「彩、支度はできたのか?」
「うん。」
彩はそう言いながらドアを開けた。
 玄関で靴を履き、傘立てにある白杖を右手に持った。左手で、お兄ちゃんの右の腕をつかんだ。お兄ちゃんは、
「そこ、階段だからな。」
と、玄関を出てからいつものように言ってくれた。彩は、白杖で段差を確認しながら、ゆっくりと会談をおりた。こんな玄関先の三段程度の階段でさえ、外に出ると恐怖に感じる。
「じゃあ、行くぞ。」
お兄ちゃんはそう言って、彩を誘導してくれた。晴眼者にはわからないと思うけれど、白杖があっても彩はもう一人で外出できない。もちろん、白杖があれば、一人で外出する視覚障碍者もいるけれど、彩の場合視野がもうほとんどなくて、中心の視野しかのこっていないうえに、視力もほとんどない。だから、外に出る時はこうして、誰かに誘導してもらわないといけない。
 家から五分程度の場所にある公園は、すべり台が一つとベンチが一つしかない、簡素な公園だ。だから、昔からこの公園にはほとんど子供が遊んでいない。もう少し離れた場所に、ブランコやジャングルジムがある公園があるので、子供たちはみんなそちらの公園に行く。お兄ちゃんは、彩をベンチに座らせて、そして自分も彩のとなりに座った。特別話す事もなく、しばらく二人ともだまっていた。すると、お兄ちゃんが思いついたように言った。
「俺、何か飲み物買ってくる。コンビニまで行くけど、ここで、待ってられるか?」
「うん。」
「何がいい?」
「じゃあ、冷たいお茶。」
「じゃあ、ちょっと行ってくるからな。何かあったら電話しろよ。」
お兄ちゃんは、そう言って公園を出て行った。一人になった彩は、ゆっくりと公園を見回した。何も見えない。明るさはかんじるけれど、何も見えない。
 彩がこの病気になったのは、小学校五年生の頃だった。教科書の文字や、黒板の文字が見えず楽なり、メガネを作ることにした。ところが、どのレンズをかけても視力が良くならない。心配したお母さんが、病院の眼科に連れて行った。そして、そこで診断されたのは、網膜色素変性症という難病になっているという事だった。この病気は、進行性で、治療薬がない。進行を遅くするための薬はあるけれど、進行には個人差があり、視野狭窄、視力の低下、最悪の場合は全盲になるということを告げられた。彩は、それから、盲学校に転校した。そして、中学も盲学校に通った。彩の場合、進行がものすごいスピードで、中学を卒業するころには光を感じる程度にしか視力がないという状態になっていた。彩は、高校に進学することをあきらめた。こんなに見えないのに、勉強する意味なんてあるのだろうかと、そう思ったからだ。本来なら彩は、今年高校二年生だ。でも、高校に行っていないからほとんど毎日家の中にこもっている。点字は、盲学校でべんきょうしたけれど、視覚障碍者のほとんどの人はじつは点字の読み書きができない。高齢になってから視覚障害になった場合、点字の読み書きをおぼえる事は、とても難しいからだ。でも、今は家電にも音声ガイダンスがついていたり、スマホにももちろん音声ガイダンスがついているから、見えなくてもある程度、覚えてしまえばスマホの捜査もできる。彩は、空を見上げた。今日の空は、何色だろうかと思った。そして、すぐにうつむき、ため息をついた。見えない事が、こんなにもつらいなんて。もしも、こんな病気じゃなかったら、自分の人生はどうなっていたんだろうか。普通に高校生になっていて、きっと青春を楽しんでいたはずだ。それなのに、自分は、昨日も今日も明日もなんの変化もない毎日をただただ過ごしている。そのことが、あまりにつらくて涙が一粒頬をつたった。そして、こんな人生がいつまで続くのかと思った時、人生に絶望した。彩は、ついつぶやいてしまった。
「死にたい。」
その時、一瞬強い風がふいた。彩の髪の毛を乱し、彩は右手で乱れた髪の毛をなおした。
「そんなバカな事言うなよな。」
目の前からハスキーな声が聞こえた。見ると、茶髪でブレザーの制服を着た男子高校生が立っていた。彼は、ゆっくり彩の近くに歩いて来た。そして、彩のとなりに座った。彩は、無言のまま彼を見た。
「死にたいなんて、バカな事言うなよな。死んでもなんにも変わらねぇぞ。」
彼は彩の顔を見て言った。その瞳は、悲しげでさみし気で、どこかはかなさを感じた。そして、彩は、はっと思った。
「見える。」
彩は、思わずつぶやいていた。となりに座っている彼の顔が見える。整った顔立ちの彼の顔が、はっきりと見えるのだ。
「どうして?」
彩は、信じられない気持ちで、あたりを見回した。すると、さっきまで見えなかった公園の風景が、くっきり見えた。公園を囲む木々、さびたすべり台、風にそよそよと揺れる草までくっきりとはっきりと見える。そして、ふと見上げると、真っ青な空に、わたあめみたいな白い雲がぷかぷか浮かんでいる様子まで、はっきりと見える。
「どうして?」
彩が動揺してそうつぶやくと、彼が言った。
「何、おどろいてんだ?」
「だって、見えるんだもん。あなたの顔も、公園の風景も空も、全部全部見えるんだもん。」
「それが、どうかしたのかよ。」
「私は、光を感じる程度にしか視力がないの。病気で。それなのに、こんなにはっきり見えるんだもん。どうして?どうしてなの?」
彩は、まだ動揺している。すると、彩のスマホが鳴った。彩はバッグからスマホを取り出した。そして、また声をあげた。
「見える。スマホの画面が見える。」
彩がおどろいていると、彼が言った。
「電話、出ないのかよ。」
「あ、そうだった。」
彩は、応答ボタンをタップした。
「あ、彩。悪い。病院から呼び出されて、これから仕事になった。」
お兄ちゃんがそう言った。走っているのか息が乱れている。
「今から家に帰って病院に行くから、母さんに彩を迎えに行ってもらうから。」
「あ、ちょっとまって。まだ私、ここにいたいの。」
「え。」
「あのね、なんていうか。」
「いや、そんな所に一人でいたらあぶないだろ。すぐに母さんに迎えに行ってもらうから。」
「じゃあ、ちょっとだけまって。そうだな、一時間くらい。もうちょっと私ここにいたいの。」
お兄ちゃんは一拍おいて、
「わかった。じゃあ、一時間くらいたったころに、迎えに行ってもらうように伝えとく。」
そう言って電話を切った。彩は、スマホをバッグに入れてから、もう一度公園を見回した。何もかもが、霧がはれたかのように、くっきりと見える。その事に感激して、涙がこぼれた。
「おい、なんで泣いてんだ?」
彼が聞いて来た。
「だって、見えるんだもん。私。」
「そんなに、見える事がうれしいのか?」
「そうだよ。私の病気、もしかして治ったのかな。だとしたら、私はこれから自由に生きられるね。行きたい所に一人で行けるようになるし、そうだ、高校にも通いたい。」
彼は彩の顔を見てさみしげに微笑んだ。
「そうか。そんなに今までつらかったんだな。」
彼がぼそっと言った。その時、白い猫がやってきて、彼の足元で座った。彼は、その猫の頭を手でなでた。猫は、気持ちよさそうに目を細めている。
「かわいいね。野良猫かな。」
彩はその猫のとなりにしゃがみこんだ。
「おまえも、なでてみるか?」
「うん。」
彩はそっと手を伸ばして猫の頭をなでた。ほのかにあたたかい。
「ニュー。」
猫が鳴いた。
「わぁ、かわいい。」
その猫は、彼の足にじゃれ始めた。
「よくなついてるんだね。」
彩がそう言うと、彼が言った。
「動物って、いい人間がわかるんだろうな。」
「あはは、あなたはいい人間なの?」
「まぁ、そういう事だな。」
「自分でいい人間だなんて。」
彩は笑った。
「ねぇ、この猫何歳くらいかな。」
彩が聞いた。
「猫歴は五年だ。人間にしたら何歳かは知らねぇけどな。」
「そっか。五歳か。」
彼はうれしそうにじゃれてくる猫をなでていた。
「ねぇ、そんなになついてるんだから、この猫あなたが飼ってあげたらいいんじゃない?」
「それはできねぇな。」
「なんで?」
彼はその質問には答えなかった。彩はベンチに座った。しばらく、猫とじゃれているとなりの彼を見ていた。やがて、猫は遊ぶことに満足したのか、どこかに行ってしまった。
「あー、行っちゃってん。」
「ああ。猫って、気まぐれだからな。でも、あの猫はよくここに来るから。」
「そっか。じゃあ、ここに来たらまた会えるんだね。」
彩の声は、弾んでいた。見えることがうれしくて、心がうきうきしていた。そんな彩に彼が言った。
「おまえ、目の病気なのか?」「うん。進行性の難病なんだって。小学校の後半から中学の終わりまでは盲学校に行ってたの。高校もね、そのまま盲学校に行けばいいって先生や親に言われたんだけど、なんだか勉強しても意味ないって思えて。それで、今は高校には言ってないの。ねぇ、あなたは高校生でしょ。何年生?」
彼は一拍おいて答えた。
「二年.」
ぼそっと答えたけれど、しっかりと聞こえた。
「じゃあ、私と同じ年だね。」
彼は、急に無口になった。何かまずいことでも言ってしまったのかと、彩は思った。
「彩。」
公園の向こうからママの声が聞こえた。すると彼が突然早口で言った。
「俺はよくここに来るから、何か話したい事があればまた来るといい。」
そして彼はベンチから立ち上がって公園を出て行った。それといれかわるように、ママの声が聞こえた。
「彩。」
声の方を見た。けれど、ママの顔が見えない。
「え、どうして?」
彩は混乱した。まわりを見ても、公園の風景は見えない。
「彩、どうかしたの?帰るわよ。」
ママは、そう言った。彩は、夢でも見ていたのかと頬をつねってみた。痛い。夢ではないようだ。意味が全くわからないまま、ママにうながされて、ベンチからたちあがった。
「帰るわよ。」
そう言われて、彩は右手に白杖を持った。左手でママの右の腕をつかんだ。そして、混乱したまま公園を出た。意味がわからない。さっきまであんなにクリアに世の中が見えていたのに、これではいつもと同じだ。ほとんど見えない世界。それが悲しすぎて、心が落ちた。ママに誘導されながら家までの道を歩いた。

 家に帰ってきた彩は、自分の部屋のベッドに寝転がって、公園での出来事を考えていた。確かに、あの時は、彼の顔も公園の風景も空の色も見えた。そう、白い猫も見えた。それなのに、ママが来たとたん、見えなくなってしまった。これは、一体どういう事なんだろうか。そもそも自分の目の病気は難病で治る事はないと言われている。だとしたら、やはりあの公園での出来事は白昼夢みたいなものだったのだろうか。
 翌日、みんなが仕事に行った後、彩は自分の部屋で読書をしていた。読書と言っても、目の見えない彩には本は読めない。そのかわりに、音訳された本を耳で聞く。たいてい、家族が仕事でいない日中は、こうして読書をしている。いつもなら、集中して本を聞けるのに、今日はなんだか全然集中できない。やはり昨日の事が頭の中で、ぐるぐると回り考えてしまうからだ。彩は、本を聞くのをやめた。そして、ベッドに背中をあずけてカーペットに座りながら、考えた。どうしても、わからない。あんな不思議な事がどうして起きたのだろうか。昨日から、何度も何度も考えた。でも、どうしても説明がつかないし、意味がわからない。そこで彩は、もう一度昨日の公園に行きたいと思った。でも、一人では歩いて行けない。彼にこの話を聞いてほしい。でも、彼に絶対に会えるかもわからない。ぐるぐると同じことを考えているうちに、パートからママが帰って来た。時刻は四時を過ぎたところだ。彩は、ママに言った。
「ねぇ、お願いがあるんだけど。昨日の公園に行きたいの。」
「え。」
ママはそう言って、彩の顔を見た。
「彩が自分から外に出たいなんて、めずらしいわね。」
「ちょっと、外の空気にふれたいっていうか。それでね、一人で公園にいたいの。」
「一人で公園に?何をするの?」
「特になんにもしないんだけど。」
ママは少し考えてから言った。
「わかったわ。公園に、連れて行くわ。ママがスーパーで、買い物したら迎えに行くからね。」
「うん。ありがとう。」
こうして彩は、ママに誘導されながら、昨日の公園に行った。ベンチに座った彩に、ママが言った。
「何かあったらすぐに電話してね。」
「うん。」
ママはそう言い終えて、公園を出て行った。一人になった彩は公園を見回した。そして、空を仰いだ。やはり、見えない。なにもかもがぼやけて、ただただ光を感じる程度の視力しか自分にはないと思った。ふぅと長い息を吐いた。その時、風が吹いた。木々の葉がざわざわと音を立てた。
「よぉ。」
ハスキーな声が聞こえた。目の前を見ると、いつの間にか昨日の彼が制服姿で立っていた。そして、彼の姿が、彩にははっきりと見えた。
「見える。」
彩は、そう声をもらした。
「なんだよそれ。人を幽霊みたいに。」
彼はそう言ってベンチに近づいて来た。彩は座りなおして、彼は彩の隣に人一人分スペースをあけて座った。
「ねぇ、私あなたの顔が見えるの。」
彩はとなりに座った彼に言った。それから公園の様子も空の色も見えることを確認して、彩は、彼に言った。
「あのね、今私見えるの。何もかも。でもね、昨日あなたが帰ってから、またいつものように見えなくなったの。それって、一体どういう事なのかなって。昨日からずっと考えているの。こうして今は見えるの。ねえ、この不思議な現象について説明できる?」
「できるわけねぇだろ。」
彼は、そう言った。
「そうだよね。意味がわかんないよね。でも、昨日からずっと考えているの。どうしても説明がつかないし、意味がわからないの。」
彩が悲しい声でそう言った。すると、彼がぶっきらぼうに彩に言った。
「べつにいいんじゃねぇのか?」
「え。」
彩は彼の顔を見た。彼も彩の顔を見ていた。彩の顔を見ながら彼が言った。
「べつに、説明がつかなくたって、意味がわかんなくたって、いいんじゃねえのか?今、見えているなら、ラッキーって思えばいいんじゃねぇのか?」
彩は、少し考えてから、ふっと笑った。
「そうだね。考えてもわかんないんだから、説明できなくてもいいよね。見えているんだから、あなたが言うようにラッキーって思えばいいんだよね。」
「やけに素直だな。」
「だって、昨日からずっとぐるぐると頭の中で何度も考えていたんだから。もう、頭が痛くなるほどに。でも、考えてもこんな不思議な事説明できないよね。だったら、こうして今だけでも見えているんだから、ラッキーって思えばいいんだよね。」
彩はそう言って、彼にむかって微笑んだ。その彩の微笑みを見て彼が、なんだか安心したような顔をした。その時、
「ニュー。」
と猫の声が聞こえた。声の方を見ると、昨日の猫が彼の足元にいた。
「よしよし。」
彼が、猫の頭をなでた。
「かわいいよね。その猫。ねぇ、野良猫なんだよね?ご飯食べてるのかな。」
「元気だし、どこかで適当に食ってるんじゃねぇのか。」
「そうだね。元気そう。あ、そうだ、この猫に名前つけてあげない?」
「名前?野良猫に?」
「いいじゃん。あなたにそれだけなついてるんだから、名前くらいつけてあげようよ。」
「じゃあ、おまえが考えろよ。」
「うーん、そうだなぁ。白いから白ちゃん。」
「単純。」
「え、じゃあミルクとかはどうかな。」
「普通。」
「えー、じゃあ、タマ。」。
「古い。」
「えー、じゃあ何がいいかなぁ。」
彩はしばらく考えてから、声を弾ませて言った。
「そうだ、猫ちゃんにしない?」
「猫ちゃん?」
「うん。猫に猫ちゃんってつける人なんていないでしょう。だから逆に新鮮かも。」
「なんだよそれ。逆に新鮮て。」
「いいじゃん。猫ちゃんって、よんであげようよ。」
彩はそう言って、猫に声をかけた。
「猫ちゃん。」
「ニュー。」
「ほらほら、気に入ったみたいでしょ。あなたは今日から猫ちゃんよ。」
彩が猫に話しかけた。猫の頭をなでていた彼が、笑った。彩も笑った。とてもおだやかな時が流れていた。
「あ、そうだ。あなたの名前教えて。私は観月彩。」
「俺は。」
彼は少し間をおいてから、ぼそっと言った。
「佐藤斗真。」
「佐藤君。それとも斗真君ってよんだ方がいいかな。」
「どっちでも。」
「じゃあ、同じ年だし斗真君てよばせてもらうね。私の事は彩でいいよ。」
「俺、女子の事下の名前でよんだ事ねぇ。」
「そうなんだね。うーん、じゃあ気がむいたら名前でよんで。おまえでもなんでもいいや。」
そう斗真君と話をしていると、猫ちゃんは、どこかへ行ってしまった。そして、斗真君もベンチから立ち上がった。
「元気になったみたいだな。」
斗真君が彩の顔を見てそう言った。
「え。」
彩はおどろいた。もしかして自分の事を心配していてくれたのだろうか。だまっている彩に何も言わずに斗真君は歩き出した。
「あ、ねぇ、またここで会えるかな。」
斗真君の背中に声をかけると、立ち止まって振り返り、
「多分な。」
と斗真君が言った。そして、そのまま斗真君は公園を出て行った。

 夕食の時に、彩は思い切って家族に言った。
「私、公園まで一人で歩いて行けるようになりたい。」
パパもママもお兄ちゃんもおどろいて、声をもらした。
「彩、一人でって、そんなあぶないわよ。」
ママがそう言った。
「訓練すれば、行けるようになるよきっと。」
「訓練?」
ママがそう聞き返した。
「うん。全盲の人も、訓練すれば白杖を持って、目的地まで一人で行けるようになるって、盲学校の時に先生が言っていたの。だから、私も訓練してみようと思って。」
みんながしんとした。それから初めに口を開いたのは、いつも無口なパパだった。
「いいじゃないか。彩が外に行きたいって自分で思ったんだから。」
「母さん、俺もいいと思う。」
お兄ちゃんも言った。
「でもねぇ。」
ママは色々心配してくれているみたいだった。
「私、家の近くくらい一人で行けるようになりたいの。」
彩が必死で言った。
「そうねぇ、じゃゆっくり訓練しましょうか。」
ママがそう言ってくれた。
「ありがとう。」
彩は笑顔でお礼を言った。

 次の日から、夕方ママがパートから帰って来た後に、彩は白杖を持ちながら、公園までの道を訓練した。家を出てから、彩の歩幅で何歩あるいたら次は右へ曲がるとか。その次は何歩歩いたら左へまがるとか。数をかぞえながら歩いた。そして、なんとかママと公園のベンチまでついて、一休みをして、今度は家までの帰り道を訓練した。来る時とは逆になるから、ちょっと混乱した。けれど、彩の左側にはママがいて、注意してくれたりアドバイスしてくれる。電柱がある個所とかはちゃんと体で覚えるようにした。そういう訓練が何日も続いた。でも、やはり彩一人で公園に行けるようになるまでには、時間がかかった。気が付けば、五月に入っていた。ゴールデンウィークにも彩はママと訓練を重ねた。また、斗真君に会いたいと言う一心で頑張った。でも、斗真君の事は、なぜだか誰にも言わず秘密にしていた。そして、やっと一人で公園までの道を歩いて行けるようになった。その頃には、ゴールデンウィークを終えて数日がたっていた。

 彩が初めて一人で公園まで歩いて行く日、パートから帰って来たママは何度も彩に同じ事を言った。
「本当に、ママがいなくても平気なの?もしも、何かあったらすぐに電話するのよ。」
ママは、心から心配しているようだった。本当は、彩も不安で緊張していた。でも、一人で行きたいと思って、この何日もママと訓練してきた。だから彩はママに、明るく言った。
「大丈夫だよ。ゆっくり行くし。」
彩は、そう言って、家を出た。
 一人で外に出て歩き始めた彩は、急に不安になった。いつもは左側にママがいたのに、今日はいない。それだけで不安にもなったし、心細くもなった。不安な気持ちにまけないように、心の中で何ポカかぞえながらゆっくり歩いた。そして、なんとか公園のベンチまでたどりついた。手で、ベンチを確認してから、腰をおろした。ふぅと息を吐いて、ちょっとだけ深呼吸した。空気がなんだか新鮮に感じられた。ななめがけしているバッグからハンカチを取り出して、額ににじんだ汗をふいた。そして、ハンカチをかたづけた。その時、優しい風が彩の髪の毛を静かに揺らした。
「よぉ。」
ハスキーな声が聞こえた。斗真君だと、声でわかった。声の方を見ると、やはり目の前に、制服姿の斗真君がいた。彩は、うれしくなって、笑顔で挨拶した。
「こんにちは。」
斗真君は、彩のとなりに座った。
「あのね、私ここまで一人で来たんだよ。毎日、ママとここまで来る訓練をして、白杖を使って一人で来れるようになったの。」
彩は、まっさきにそのことを斗真君に教えた。
「ふーん。すごいじゃん。」
斗真君は涼しそうな顔をして言った。
「私ね、中学を卒業してからずっと、ほとんど毎日を家の中で過ごして他の。高校には行かなかったし。それに、なんにもやる気がなくて。だからね、自分でここまで一人で来れるようになりたいって目標を持って訓練した事が、自分で言うのもなんだけどすごい進歩だなって。こうして、斗真君と会って話したいってそのために頑張ったの。」
「へぇ。」
「見えなくなってから、テレビを見ていてもあんまりおもしろくなくて。映像が見えないから、音だけを聞くって感じだし。唯一の楽しみは読書だけだったの。」
「読書?」
「そう。読書って言ってもね、本を読むわけじゃないの。耳で聞くの、音訳された本を。本を聞いている時だけは、本の世界に浸れるの。見えなくても、想像する事はできるから。」
「ふーん。」
「高校に行かなくて、毎日を家で過ごす私に家族はね、きっと色々思ってたと思うんだ。視覚障碍者自立支援センターって所があるらしくて、そこに行けば、見えなくてもパソコン教室があったり、料理教室があって、そういう所に行かないかってそう言われた事もあったの。」
「え、見えなくてもパソコンってできるのか?」
斗真君がおどろいて聞いた。」
「そう、音声ソフトを使うらしいんだよね。全盲の人もそうやって、パソコンの仕事をしたりしてるんだって。料理をする人もいるって聞いたの。でもね、私はそんな所には行きたくないって、そう思ってたの。見えない人が集まる所に行きたくないって、じつはね、盲学校も行きたくなかったの。でも、義務教育のうちは学校にいかなきゃだったから、しかたなく行ってたの。なんていうか、自分が白杖を持っている姿を、小学校の頃の友達に見られたくないって思ってたし、自分が視覚障碍者だって認めたくなくて。だから今まで、なんにもする気力がなかったの。でもね、こうして斗真君といる時は見えるから、こうしてまた会いたいなって思って。それで自分からママにお願いして、一人で公園まで来られるように訓練したの。私の中では、本当に久しぶりだったの。何か目標に向かって頑張るって、久しぶりで、今ねこうしてここまで一人で来られた事がものすごくうれしいの。」
彩が自分の事をこんなにも誰かに話すのは、初めてだった。斗真君が静かに話を聞いてくれるからなのか、斗真君にはなんでも話せるような気持だった。
「すげぇじゃん。俺、よくわかんねぇけどさ。努力するってやっぱ大事なんだよな。」
「そうだね。頑張って訓練して良かったよ。」
彩はとなりにいる斗真君の顔を見た。斗真君は空を仰いでいた。その横顔は、とても整っていて、かっこいいと思った。少しの間、彩は斗真君の横顔にみとれていた。静かな時が流れていた。
「次の目標はあるのか?」
ふと斗真君が彩の顔を見て聞いた。
「ううん。特にないよ。でもね、私時々ここに来るから、会えるといいなって。」
彩は言いながらなんだかとても恥ずかしくなった。これではまるで斗真君の事が好きみたいだと、自分で言っておきながら思った。
「俺は、ここによく来るから。」
「うん。」
頬があつくなるのを彩は感じていた。何か話をしようと思って、話題を探した。
「あ、そういえば今日は猫ちゃんいないね。」
思いついた事を彩は言った。
「そうだな。猫って気まぐれだしな。」
「猫ちゃんにも会いたいな。」
彩は小さな声で言った。なんだか、急にとなりにいる斗真君の事を意識してしまった。考えてみたら、お兄ちゃん以外の男の人とこうして話をするのは、かなり久しぶりだ。彩は、恥ずかしさをごまかすように立ち上がって言った。
「ママが心配してると思うから、今日は帰るね。また会おうね。」
「おお。」
彩はそう言って、右手に白杖を持って歩き出した。公園を出るまでは見えていた。けれど、公園を出たら、また見えない世界になってしまった。急に不安がつのる。けれど、慎重に数をかぞえながら、なんとか家まで帰った。
 夕食の時、家族は口を開けば彩をほめてくれた。
「すごいな。一人で公園まで行くなんて。彩、よく頑張ったな。」
お兄ちゃんがそう何度も言ってくれた。無口なパパもほめてくれたし、ママは帰って来てからずっと、彩をほめてくれていた。自分でもすごいと思ったので、みんなのほめ言葉をありがたく素直に受け取った。
 夕食を食べてから、彩はお風呂に入った。湯ぶねにつかりながら、考えた。斗真君はとてもかっこいい。きっと高校でも目立つ存在だと思う。モテるんだろうなと彩は思った。そう考えると、急に心がざわざわした。自分は目の見えない女の子だ。斗真君といる時だけはなぜだか見えるけれど、見えない分、人に世話にならなければ生きていけない。それに、自分の顔はどういう顔をしているだろうか。見えなくなるまでは鏡を見れば自分の顔が見えた。特別かわいいわけでもないし、かわいくないわけでもないごく普通の顔だった。斗真君を好きな女の子は、斗真君のとなりにいても恥ずかしくないように、きっとメイクをしたりオシャレをしているだろう。自分が見えないから、普通の女の子みたいにオシャレできない事が、なんだかくやしくさみしく思えた。
 お風呂からあがって、髪の毛をドライヤーで乾かした。そして、ブラシで髪の毛を整える。鏡に映った自分の顔は見えない。もっとかわいくなりたい、彩はそう思った。でも、見えない自分はどうやってオシャレをすればいいのか、悩んだ。

 日曜日、彩はママと美容院に行った。髪の毛を少し切ってもらって、トリートメントもしてもらった。その帰り道に、ドラッグストアに行った。化粧水と乳液、リップクリームを買ってもらった。そして、家に帰って来た。
 帰宅した彩は思った。今まで、あんまりスキンケアには興味がなかった。けれど、メイクをしなくても、素肌がきれいならなんとかなるんじゃないかとそう思って、ママに買ってもらった。本当は、服も新しい物がほしかった。でも、さすがにそこまでお願いできなかった。公園に行くために、オシャレな服を着て行くのは、なんだか不自然だし、自分は学校にも行っていない。仕事もしていない。それなのに、親になんでも買ってもらうのはさすがに申し訳ないと思っていた。彩は、ふと考えた。もしも目が見えていたら、普通の高校生だったら、バイトでもしていたのかなと。そしたら、コスメや服ももっと好きな時に欲しい物を買えていたはずだ。そう考えると、やはり自分だけ、なんでこんな病気になってしまったのかと、くやしくなった。こんな病名もよくわからなかった病気に、どうして自分はなってしまったのか。もっと、普通に暮らしたかった。普通に高校に行って、友達と楽しくアオハルを経験したかった。けれどと、彩は思い直した。あの日、彩はお兄ちゃんと公園に行ったからこそ、たまたま斗真君と出会えたのだ。そう考えたら、もしもこの病気になっていなければきっと斗真君と出会う事はなかったんじゃないかと思えてきた。皮肉だけど、この病気になったからこそ、あの日たまたま斗真君と出会えたのだ。彩はもどかしいやらくやしいやら、感情が、混乱した。けれど、思い直して、せっかくママに買ってもらったんだから、少しでも肌をきれいにして、次に会う時までにちょっとでもかわいくなれたらいいなと思った。
 雨の日がしばらく続いた。斗真君はどうしているかなと、部屋の中にいるとつい考えてしまう。早く会いたいなと思った。いつものように、みんなが仕事に行ってから、彩は本を聞いていた。そして、思う。本はいいなって。想像力があればその本の世界を想像することができる。そして、登場人物の心情も手に取るようにわかる。こんなに、自分が読書に夢中になるなんて思っていなかった。見えていた頃は、小学校の図書室にある本を読んだりもした。けれど、その頃は、本の素晴らしさにここまで気が付いていなかった。彩は、本を聞きながら、自分も本を書いてみたいなとちょっとだけ思った。
 雨がやんで、久しぶりに彩は公園に行った。夕方の公園は遠くから聞こえる車の音や、学校帰りの子供たちの声がする。ふいに優しい風がふいた。
「よぉ。」
ハスキーな声が聞こえた。斗真君だと、声ですぐにわかる。目の前には、いつのまにか制服姿の斗真君がいた。
「斗真君、ひさしぶりだね。元気だった?」
となりに座った斗真君に聞いた。
「まぁな。」
斗真君はそうぶっきらぼうに言った。なんだか久しぶりで、ちょっとだけ緊張した。その時、斗真君の足元から、
「ニュー。」
と猫の声がした。みると、そこには猫ちゃんがいた。
「あれ、いつのまに。」
彩が猫ちゃんを見て言った。斗真君は自分の足元にいる猫ちゃんをなでた。
「ニュー。」
猫ちゃんは斗真君になでてもらいながら彩を見てないた。
「おまえも気に入られたみたいだな。」
ふいに斗真君が微笑みながら彩に言った。
「え、じゃあ私もいい人間てことかな。」
「あはは。多分な。」
斗真君が笑った。その笑顔がなんだか少年みたいでかわいいと彩は思った。彩も猫ちゃんの頭をなでた。しばらくそうやって猫ちゃんは彩と斗真君にかまってもらっていた。そして、満足したのか、どこかに行ってしまった。
「あーあ、行っちゃったね。」
彩が言った。
「気まぐれだからな、あいつ。」
まるで自分の友達みたいに斗真君が言った。二人の間に静かな風がふいた。
「ねぇ、斗真君は何かバイトしてる?」
彩が聞いた。
「してねぇけど。」
「そっかぁ。私ね、もしも見えていたら、きっと高校生の頃にバイトしてただろうなって。」
「バイトかぁ。何かしたいバイトでもあるのか?」
「うーん。そう聞かれると、特にないんだけど。子供の頃にはね、ケーキ屋さんとかアイスクリーム屋さんになりたかったな。」
「食いもんの店ばっかだな。」
斗真君が笑った。
「あはは。そうだね。」
彩もつられて笑った。
「もしもね、見えていたら、好きな仕事をしてたんだろうな。将来。私はなにもかもあきらめたの。見えなくなってしまってから。やりたいこととか、そういうのも全部。」
斗真君は静かに聞いてくれた。
「でもね、何がやりたいかなんて今までちゃんと考えた事なかったんだ。だから、きっともしも見えていても、特に何かになりたいとかそういうのなかったのかな。普通に会社に就職したりしてたのかも。」
「そうか。まぁ、将来の夢がはっきりしてる人間なんて、そういないだろうな。」
「斗真君は将来何かになりたいとか思ってるの?」
「特にねぇな。」
斗真君はぼそっと言った。その横顔は、どこかさみしげだった。そのさみしげな横顔に心が微妙に反応した。もしかして、斗真君は何か悩みでもあるんだろうかと、心配になった。
「斗真君。」
そう声をかけてみた。けれど、その後の言葉がみつからない。二人はしばらくみつめあっていた。
「おまえさ、せっかくやる気になったらそういう時に何かに挑戦してみたらいいんじゃねぇか?」
「え。」
「今は、何もやる気にならないかもしれねぇけど、何かちょっとでもきっかけがあったら、それを機に何かに挑戦してみれば?」
彩はだまったまま斗真君を見た。たしかにそうかもしれないと、彩は思った。このまま一生自分は家の中で過ごすのか。こうして公園まで一人で来られるようになったけど、いつか斗真君も高校を卒業するだろう。そしたら、こんなふうにここで会えなくなるかもしれない。そう考えたら、彩の胸は痛んだ。
「まぁ、いそぐことはねぇからな。何かやりたい事が見つかったらの話。」
斗真君はそう付け加えて言った。
「そうだね。私にもできる事、何か探してみようかな。」
彩は小さな声でそう言った。そう言い終わってから、もっとずっとこんなふうに、ここで斗真君と話をしていたいと思った。何年たっても、何十年たっても、できればこうしてここで斗真君とおだやかな時を過ごしたいとそう思った。

 ある日の夜、リビングのソファで夕食を食べ終わってから、テレビを見ていた。彩は、映像がほとんど見えないから、音を聞いているという感じで、ぼんやりと見ていた。シーエムの時に、お兄ちゃんが言った。
「あ、この映画、小説が原作だって話題になってるよな。」
お兄ちゃんは、そう言って話を続けた。
「俺の友達が趣味で小説を書いてるんだ。小説投稿サイトにアップしてるって言ってた。その小説投稿さいとの、たしか野いちごっていうコンテストで賞を取った人が書いた小説が原作で映画化されるんだってさ。すげぇよな。」
彩は、そのお兄ちゃんの話を聞いてすごいと思った。自分の書いた小説が映画になるなんてと。そして、彩は思った。自分も小説を書いてみたいと。
「お兄ちゃん、その友達って小説を書いてコンテストに応募してるの?」
「する事もあるらしい。でも、そんな夢みたいな話はそうそう叶わないだろうな。」
 彩はお風呂からあがって、さっきのお兄ちゃんの話を考えた。確かに、小説を書いて賞をとるなんて、本当に才能のある人だけだと思う。小説家になれる人なんて、ひとにぎりだとも思う。でも、挑戦してみたいと思った。自分は読書が好きだ。見えなくなってから、ほとんど毎日のように、本を聞いている。だからこそ、自分にしか書けないものが、もしかしたらあるかもしれない。でもと、彩は思った。どうやって書いたらいいのか。点字で応募するわけにもいかない。彩は、色々考えてお兄ちゃんの部屋に行った。
 ノックをしてお兄ちゃんの部屋に入った。
「お兄ちゃん、さっきの話だけど。」
「さっきの話?」
「うん。小説のコンテストの話。」
「ああ、それがどうかしたのか?」
「うん。ちょっと私も挑戦してみたいなって。」
「え、小説を書くのか?」
「できるかわかんないけど。それで、色々調べてほしいの。」
彩はお兄ちゃんに頼んで、野いちごのコンテストの応募要項を教えてもらった。
「そっか、パソコンで書かないと応募できないんだね。」
彩が、ため息まじりに言った。自分はパソコンができない。やっぱりあきらめようかなとそう思った時、お兄ちゃんが言った。
「パソコン、勉強してみればいいだろ。」
「え。」
 彩は、お兄ちゃんの部屋を出てから、自分の部屋で考えた。確かにパソコンを勉強してから、小説に挑戦してみてもいいかもしれない。けれど、自分に覚えられるだろうか。全盲の人も音声ソフトを使って、パソコンをする人もいるというのは知っている。でも、自分にそれができるだろうか。不安だった。パソコン教室に行って、やっぱり続かなかったらと思うと、不安だった。
 翌日、公園で斗真君にその事を話してみた。
「へぇ、小説かぁ。すげぇな。」
話を聞いた斗真君は、そう言った。
「でもね、パソコンを勉強して、パソコンができるようになるかはわからないんだよね。中学を卒業してから、私は勉強なんてしてなかったし。パソコンを習いに行って、やっぱりできなかったらと思うと、勇気がないんだよね。」
斗真君は、不安な気持ちでいる彩に言った。
「やってみればいいだろ。」
となりを見ると、斗真君が彩の顔をまっすぐ見ていた。
「できなくてもいいじゃん。とりあえず、挑戦してみればいいだろ。せっかく小説を書いてみたいって、気持ちが前をむいてるんだから。」
「でもね。視覚障碍者自立支援センターに通うには、一人では行けないし。移動支援をお願いしたりしないと。」
「移動支援?」
「そう。ガイドヘルパーさんと契約をして、送り迎えをサポートしてもらうの。ママはパートで、私の送り迎えはできないから。」
「ふーん。じゃあ、それも契約したらどうだ?」
「そうなんだけどね。なんだか緊張するんだよね。どんなガイドヘルパーさんかもわからないし。それに、やっぱりパソコンを覚えられるようになるかも、わからないし。」
「やってみて、だめならしかたねぇけど、やる前からそんな弱気でどうするんだ。成功か失敗かじゃなくて、挑戦する事に、意味があるんじゃねぇのか。」
彩は、考えた。そうだけど、斗真君の言葉はたしかにそうだけど、ずっと家にいて過ごしてきたのに、通うということが不安でしかたない。
「まぁ、ゆっくり考えれば?」
彩は何も言えなかった。
 家に帰って来てから、考えた。斗真君の言葉はその通りだと思う。自分に勇気がないから、一歩を踏み出せないんだ。でも、やっぱり不安だ。そこで、彩はまたちがう角度から考えてみた。でも、このまま一生仕事もしないでこの家出暮らしてもいいのかと。親だって、いつかは年をとる。今は仕事をして養ってくれているけど、いつかは定年を迎える。それなら、やっぱり自分も何か習得して、仕事をした方がいいんじゃないか。パソコンの仕事をしている全盲の人もいると聞いている。自分にもできるだろうか。彩は、考えに考えてから、階下におりて、夕食の支度をしているママに言った。
「あのね、私、パソコンを習おうかと思って。」
ママは、とてもおどろいて、声をあげた。
「え、彩、パソコン教室に行きたいの?」
「うん。行ってみようかなって。」
ママはいつかパソコン教室の話を彩にそれとなくしてくれた。けれど、その時彩は絶対にそんな所には行きたくないと、そう言った。視覚障碍者が集まるセンターになんて行きたくない、自分が視覚障碍者だということを認めたくないとも思っていた。けれど、実際、今の彩はほとんど見えない。
「彩、じゃあこれから色々手続きしないとね。移動支援の事とか。」
ママの声は少し涙がにじんでいるような声だった。
「彩、前向きになったわね。」
ママは彩の頭をなでてくれた。

 移動支援の手続きを完了させるまでには、一か月ほど時間が必要だった。その間も、彩は時々夕方になると公園に行って、斗真君と話をしていた。彩の前向きな考えを斗真君は自分の事のように喜んでくれた。その事が、ものすごくうれしくて、彩は背中をおされた。そして、七月の中旬に、初めて彩はガイドヘルパーさんと、視覚障碍者自立支援センターに行った。そこのスタッフは、みんなとても明るくて親切だった。利用者はほとんどが高齢者だと聞いた。でも、数人、若い人も利用しているらしい。彩はていねいにパソコンを教えてもらった。勉強の方法は、教えてもらった事をノートに書く事ができないので、ボイスレコーダーに録音して、それを自宅で聞きなおして、家でもパソコンを勉強した。家にいて、わからなくなると、お兄ちゃんからもサポートしてもらった。そうやって、少しづつ、彩はパソコンをできるようになっていった。
 八月に入ると、酷暑のため、夕方になっても気温がさがらずに、公園になかなか行けなかった。彩は、斗真君に会いたかった。でも、こんなに暑いならきっと斗真君も公園には来ないと思って、とにかくパソコンの勉強に集中した。
 ある日、どうしても斗真君に会いたくなって、夕方公園に行ってみた。ベンチに座って汗をハンカチでふいた。ふいてもふいても汗がにじむ。その時、ふと風がふいた。一瞬だけ風がふいたおかげで涼しさを感じた。
「よぉ。」
ハスキーな声が聞こえた。
「斗真君。」
目の前にいる斗真君に、彩は思わず声をあげた。久しぶりに会えて、とてもうれしくなって声が少し大きかった。となりに座った斗真君は、
「なんだか元気そうだな。」
と言ってわらった。
「久しぶりだね。」
「そうだな。」
「私ね、なんとかパソコンの勉強を頑張ってるよ。」
「そっか、よかったじゃん。」
話をしていても、汗がとまらず、自分が汗くさくないかと彩は心配した。ハンカチで汗をふきながら、斗真君を見て彩はあれっと思った。こんなに酷暑なのに、斗真君はブレザーの制服姿だ。
「斗真君、その制服姿で、暑くないの?」
彩はおどろいて聞いた。斗真君はそれには答えてくれなかった。
「そういえば、斗真君ってどこの高校なの?私、その制服見てもどこの高校かわからないの。普通の高校には行けなかったから、どの制服がどこの高校かとか全然わからないんだ。」
斗真君は少し間をおいて、ぼそっと答えてくれた。
「第一高校。」
「え、第一ってすごいレベル高い高校でしょ。それは知ってるよ。斗真君、頭いいんだね。」
斗真君はその事についても何も言わなかった。もしかしたら、高校の話はしたくないのかなと彩は思った。そこで、彩は話題を変えた。
「そういえば、猫ちゃんは元気にしてるかな。」
「どうだろうな。日陰でなんとかやってるんじゃねぇのか。」
「会いたいな。」
斗真君は、何も言わず前を向いていた。その横顔を彩はみつめた。そして、あれっと思った。制服姿なのに、斗真君は汗一つかいていない。
「俺、今日は帰る。」
斗真君がそう言って立ち上がった。
「まって。」
彩も立ち上がった。
「ねぇ、また会えるよね?」
彩はなぜか急に心配になって、気が付いたらそう聞いていた。
「ああ。」
斗真君は短く答えて公園を出て行った。そのうしろ姿を彩は、どこか胸騒ぎを感じながら見つめていた。

 翌日、彩はいつものように夕方公園にいた。もしかして斗真君とはもう会えないんじゃないかという、不安があった。ベンチに座って空を仰いだ。今日の空は何色だろうかと、彩は思った。彩の座っているベンチには、保冷バッグに入ったペットボトルのお茶が二本ある。斗真君と会えたら、一緒に飲もうと思って持ってきていた。
 夕方五時を過ぎても、まだ外は燃えるように暑い。汗をふきながら、待っていると、風がふいて、公園の草をカサカサと揺らした。
「よぉ。」
ハスキーな声が聞こえた。目の前には、いつのまにか斗真君が立っていた。いつものようにブレザーの制服を着ている。
「こんにちは。」
彩はちょっと緊張しながら、挨拶をした。となりに座った斗真君を見た。やっぱり斗真君は、汗一つかいていない。ずっと見つめていると、
「何見てんだ。」
と言われてしまった。
「あ、ううん。なんにもないの。」
彩はごまかすように、空を見た。夕方の色をしていた。
「ニャー。」
猫の鳴き声が聞こえた。見ると、猫ちゃんがこちらに駆け寄ってきている。猫ちゃんは、斗真君の足元に来ると、座って、かまってほしそうに斗真君を見た。
「よしよし。」
斗真君が猫ちゃんの頭をなでた。
「なんだか、久しぶりだね。猫ちゃん、ちょっとやせたんじゃない?ちゃんと食べてるのかな。」
彩が言った。
「適当に食ってるんじゃねぇか。」
「そうかな。まぁ、これだけ暑いと人間も食欲わかないよね私は、最近、ご飯よりアイスが食べたくなってしまうよ。」
彩がそう言った。猫ちゃんは、斗真君に抱きかかえられて、斗真君のひざの上にやってきた。彩も猫ちゃんの頭をなでた。
「今日は特に暑いね。」
猫ちゃんに声をかけた。そこで彩は、自分がペットボトルのお茶を持って来ている事を思い出した。
「斗真君、私お茶持ってきたの。」
彩は保冷バッグから、ペットボトルのお茶を取り出した。その一本を斗真君に差し出した。
「はい。」
彩のその行動尾を見て、斗真君は一拍おいてから言った。
「悪い。気持ちだけもらっとく。」
「え、お茶もしかして嫌いだった?」
「いや、そういうわけじゃ。」
彩は斗真君に差し出したペットボトルを見つめた。
「おまえは、飲んだ方がいいぞ。熱中症になると悪いからな。」
彩は、ゆっくりとペットボトルのキャップを開けた。そして、お茶を一口飲んだ。乾いたのどに冷たいお茶が心地よい。
「斗真君も、飲んだら?」
彩はもう一度すすめてみた。けれど、斗真君はそれには答えてくれなかった。少しの沈黙の後、彩は話題を変えようと思って言った。
「猫ちゃんをね、飼えたらいいなって思ったの。でもね、こうして私は斗真君と一緒にいる時は見えるけど、一緒にいない時は見えないでしょ。だから、私が猫を飼いたいって家族に言ってもきっと反対されると思うの。だって、私は普段、自分の事だけで精一杯だから。家の中ではね、なんとか見えなくてもどこに何があるかとかは、わかってるの。でも、もしも猫ちゃんを家の中で飼ったら、猫ちゃんは、動き回るでしょ。そしたら、私は猫ちゃんのお世話ができないから、結局家族にお世話をしてもらわないといけなくて。こんなにかわいいから、本当は飼ってあげたいんだけどね。」
斗真君は静かに彩の話を聞いてくれた。
「いいんじゃねぇか。このまま野良猫で。きっとこいつも好きにどこにでも行けて、案外野良猫生活を満喫してるかもよ。」
「そうかな。これだけ猛暑だと、ちょっと心配になっちゃうけどな。」
「心配すんな。きっと、こいつはこいつの生活を楽しんでるはずだからな。」
斗真君がそう言うと、
「ニャー。」
と、猫ちゃんが鳴いた。
「そうだね。今まで野良猫だったんだもんね。好きな場所に好きな時に行けて、案外楽しんでるかもね。」
彩は、猫ちゃんをみながらそう言った。
 その日の夜、彩がリビングでテレビを見ていると、お兄ちゃんがお風呂からあがってリビングに入って来た。そのお兄ちゃんの姿を見て、ママが言った。
「ちょっと、お兄ちゃん。いくら暑くても上半身裸でうろうろしないで。」
「え、暑いんだからしかたないだろ。」
お兄ちゃんはそう言って、冷蔵庫をあけた。そして、ペットボトルのサイダーを飲んで言った。
「やっぱ風呂あがりは、サイダーだな。」
お兄ちゃんはソファに座りながら言った。彩は、ふと考えた。もしかして斗真君もお茶よりもサイダーの方が良かったのかなと。コーヒーが苦手な人もいるって聞いた事がある。だったら、もしかして斗真君はお茶が苦手だったのかもしれない。そんな事を考えていると、お兄ちゃんが言った。
「今年入った新入社員は優秀だな。第一高校を卒業していい大学に行って、だから、俺よりも仕事ができるんじゃねぇかって。まぁ、一応俺の方が先輩なんだけど。」
第一高校と聞いて、彩はついお兄ちゃんに聞いてみた。
「ねぇ、第一高校って、夏服ないの?」
「何言ってんだよ。あるにきまってるだろ。冬服はたしかブレザーにネクタイだったよな。夏服もあるだろ。だいたいこんな真夏の暑い時に冬服しかない高校なんて、あるわけねぇだろ。」
「そうだよね。」
彩は、小さな声で言った。
「なんでも、第一高校って高速が厳しいらしいぞ。」
「え。」
「最近の女子高生はメイクしてるけど、メイクは当然禁止だし、髪型も厳しいらしい。だから、女子より男子の数の方が多いんだってさ。」
お兄ちゃんの話を聞いて彩は思った。たしか、斗真君は明るい茶髪だ。あの色で怒られないのかと。
「ねぇ、お兄ちゃん。もしも第一高校で茶髪にしてたら怒られるのかな。」
「まぁ、停学だろうな。」
「え、停学?」
「校則が厳しんだぞ。茶髪なんて一発アウトだろ。」
お兄ちゃんはサイダーを飲みながら言った。
 彩はそれから部屋で考えた。たしかに、校則が厳しいなら、茶髪なんて停学になるかもしれない。でも、斗真君はいつも茶髪だ。それに制服を着ている。学校を停学になったのなら、わざわざ公園に行くのに、制服なんて着てこないだろう。そこまで考えて、さらに疑問に思った。そもそも今は夏休みだ。それなのに、なんで斗真君はいつも制服姿なのか。それも、こんなに暑いのに冬服で。そして、やっぱり気になった。どうして斗真君と一緒の時だけ、彩は目が見えるのか。色々考えて、わからなくなった。斗真君は、一体何者なんだろうか。彩の心の中がざわざわした。

 八月の最後の日、彩はいつもの公園のベンチに座っていた。斗真君と会うのは、少し久しぶりだった。もっと早くにここに来たかった。でも、彩の中で斗真君に関する事を色々考えていたら、会いたいのに会いたくないような気持になってしまって、ちょっとここに来るまでに時間がかかってしまった。
 ベンチに座っていると、風がふいて、雲が太陽を隠した。そのおかげで、ギラギラした日差しがさえぎられて、少しだけ涼しくなった。
「よぉ。」
斗真君がいつの間にか、目の前にいた。
「こんにちは。」
彩が挨拶すると斗真君は、彩のとなりに人一人分スペースをあけて座った。
「なんだか、ちょっと久しぶりだね。」
彩は少し緊張しながら言った。
「そうか?」
斗真君は涼しい顔をしてそう言った。続きの言葉がみつからなくて、しばらく沈黙になった。色々考えることをやめて、斗真君とおしゃべりできるこの時間を大切にしようと彩は思った。
「パソコン、けっこう覚えたの。」
「へぇ。」
「タイピングもけっこう早くなったよ。」
「すげぇじゃん。」
「そろそろね、小説を書きたいなって思ってるの。」
「そうか。」
「なんていうか、読書はたくさんしてきたはずなのにね、いざ自分で小説を書くとなると、何をどう書いたらいいかわからなくて。」
彩は思っている事を話し始めた。
「私はね、読書は好きなんだけど、文学的なものはあんまり得意じゃないの。ライトノベルが好きなんだ。だから、自分もそういうものを書こうかなって。例えばね、高校生のキュンキュンするアオハルとかね。」
「アオハル?」
「うん。私は、高校には行ってないから、高校生活の事はよくわからないけど、あこがれがあるの。お兄ちゃんが言ってて、購買とか友達と行ったりしてみたかったな。お兄ちゃんが言うに羽根、購買には生徒が殺到するって。お昼休みになると、男子も女子も学年も関係なく、みんなおめあてのパンやジュースを買い求めるんだって。いいなって、思ってるの。私もね、そういうのしてみたかった。友達と、お昼休みに、購買までダッシュして、パン買ったりジュース買ったりして、みんなで食べるの。あとね、休み時間に、友達とお菓子食べて、ああそれからね、帰り道は友達と寄り道して。ドーナツ食べたり。」「おまえ、食う事ばっかだな。」
「えへへ。そうだね。でもね、友達とそういう時間を過ごしてみたかったんだ。あたりまえにみんなは中学を卒業して、高校生になるでしょ。私は高校生にはなれなかった。というか、ならなかった。どうせ見えないんだから、勉強しても意味ないんじゃないかって、思って。でも、本当はものすごく普通の高校生活にあこがれてるの。へんだよね。」
「べつに、あこがれてもいいんじゃねぇか。そのあこがれを小説にしたらいいんじゃねぇか?」
「うん、そうだね。だからね、私は高校生のアオハルを小説に書きたいの。それで、小説の主人公には楽しい高校生活をさせてあげたいんだ。ああそう、好きな人との胸キュンとかも書きたいな。」
「胸キュン?」
「男子にはわかんないかもしれないけど、キュンキュンする小説にしたいの。私と同世代の女の子に共感してほしいから。」
「へぇ。じゃあ、頑張って書いてみれば?」
「うん。でも、どうやって書いたらいいかわからないの。何からどう書いたら小説になるのかなって。小説が書きたいから、パソコンの勉強をしてるのに、すでにいきづまってるよ。」
「いいじゃん。ゆっくりで。まずはパソコン覚えて、それから考えまとめて、ゆっくり進めばいいんじゃねぇか?あんまり追い詰めて頑張ると心が悲鳴あげるからな。」
「心が悲鳴あげる?」
彩は思わず、となりに座っている斗真君を見た。斗真君は空を見ながら言った。
「頑張る事って大切だけど、その人のペースで頑張らねぇと、心が悲鳴を上げるんだ。心がこわれたら、自分もこわれてしまうからな。」
斗真君の瞳はどこか遠くをみつめているようで、それでいて悲しげでさみしそうだった。彩はこの瞳を見て思い出した。初めて斗真君に会った時も、斗真君はこんな瞳をしていた。
「斗真君。」
小さな声でよびかけると、斗真君が彩を見た。
「斗真君は、高校生活楽しい?」
斗真君は答えてくれなかった。しばらくの沈黙の後、彩はまた斗真君に質問した。
「第一高校って、校則がきびしんだよね。その、斗真君の茶髪、怒られないの?」
斗真君は何も言わない。聞いてはいけない事をきいたのだろうかと彩は思った。
「今日は、帰る。」
斗真君が立ち上がった。彩は、とっさに聞いた。
「ねぇ、また会えるよね?」
「ああ。」
斗真君はぼそっと答えて、帰って行った。その後ろ姿を見ながら、彩は思った。どうして答えてくれなかったの?彩は、なんだか不安な気持ちになった。
家に帰ってからも、彩は斗真君の事をずっと考えていた。
「彩、食欲ないの?」
ママが、夕食の時に聞いて来た。気が付くと、彩は斗真君の事ばかり考えていて、せっかく作ってくれたご飯をほとんど食べていなかった。
「いらねぇなら、俺食うぞ。」
お兄ちゃんが言った。
「食べる、食べる。」
彩はあわてて言って、ご飯を食べた。
 夕食を食べ終わって、お風呂に入ってからも斗真君の事をずっと考えていた。もしかしたら自分は、聞いてはいけない質問をしてしまったのではないか。人には聞かれたくない事や、言いたくない事があるはずだ。実際に彩は、小学校から盲学校に転入する時に、クラスメイトに病気の事を興味本位で聞かれて、いやな思いをした。その時の事を思い出して、自分のしたことに、罪悪感を感じた。斗真君は、きっと高校生活の事を聞かれたくなかったんだ。今度会った時に、ちゃんと謝ろうと思った。

 九月に入ってからも、彩はパソコン教室に通っていた。リュックにパソコンを入れて、ガイドヘルパーのサポートで、視覚障碍者自立支援センターまで通った。この日も、ガイドヘルパーにサポートしてもらって、やって来た。
 視覚障害には色々な症状がある。まったく見えない全盲の人もいれば、まだ見えずらいけど見えるという人もいる。この日、彩がパソコンの勉強をしていたら、となりに座っていた人に話しかけられた。
「こんにちは。」
女性の声だった。声からきっと自分よりも年上だと思った。
「こんにちは。」
彩は声のする方を見て、挨拶をかえした。
「ちょっと、話してもいいかしら?」
優しい口調の女性だった。
「はい。」
「私は高瀬と言います。名前、聞いてもいいかしら?」
「観月彩です。」
「じゃあ、彩ちゃんてよんでもいいかしら?」
「はい。」
「いつも一生懸命にパソコンを頑張ってるわね。前からお話をしてみたいなって、思ってたのよ。」
高瀬さんは、話始めた。
「私にも彩ちゃんと同じ年くらいの息子がいるのよ。今ね、高校生。」
彩は話を聞いて、高瀬さんが自分のママやパパと同じくらいの年齢かなと思った。
「私はね、二十歳の時に病気が発症したの。普通の学校を卒業して、普通に就職もしてたの。子供の頃から、人よりも視力が悪くて、メガネをかけてもほとんど視力があがらないから、なんでかなって思ってたの。病気がわかった時に羽根、ショックも大きかったけど、謎がとけたみたいな気持ちになったの。」
「謎がとけた?」
思わず彩は聞き返した。高瀬さんは、優しい口調のまま話を続けた。
「そう、病気だったからメガネをかけても視力がほとんどあがらなかったんだって。納得したの。見えず楽て、学校生活もちょっとだけ困ったし、仕事してても困る事はあったの。それでも、まだ見えてたから仕事も続けてたのよ。若い時に結婚して、子供も出産して、子育てもして。それがね、子供が小学校高学年になった頃から、視力の低下が急激にすすんで、眼科医から白杖を持つことをすすめられたのよ。でも、どうしても白杖を持つことが、できなかったの。もしも私が白杖を持ってて、その事が原因で子供がいじめられたらとか、学校の父兄の人や先生からどう思われるかなって、考えた時にどうしても白杖を持つことに抵抗があってね、ずっと白杖をもてなかったの。外出する時は旦那にサポートしてもらって歩いたり、見えているふりをしたりして。でもね、最近になって子供が言ったのよ。白杖を使った方が安全に歩けるんじゃないかって。私が、気にしてた事に気づいていたんだと思うの。それで、勇気を出して、白杖を使う事にしたのよ。もちろん、近所の人の目もきになったけど。それから、ここにこうして来るようになってね、今はパソコンを覚えて仕事ができたらなって思ってるの。」
「仕事ですか?」
「そう。仕事ができたらいいなって。」
彩は高瀬さんの話を聞いて思った。きっと、つらい事もたくさんあったはずだろう。でも、それを乗り越えて、仕事をしたいと前向きになったんだからすごいなと思った。
「すごいですね。仕事できるようになるといいですね。」
「ありがとう。でも、むずかしいわよね。」
「そうですね。」
「私は、大人になってから視力が急激に悪くなったけど、それまでは、けっこう見えてたから、料理もメイクも見えなくなってもなんとかできてるのよ。」
「え、メイクもですか?」
「そう。彩ちゃんは、メイクに興味あるかしら?」
「あるけど、私は光を感じる程度にしか見えないから、メイクはできなくて。」
「私もね、今は光を感じる程度にしか見えないのよ。」
「え、それなのに料理をしたり、メイクをしたりしてるんですか?」
「そう。さっきも言ったけど、前は見えてたからね、見えてた時にできてたことは、なんとか工夫してできるのよ。」
彩はちょっと考えて、たどたどしく聞いてみた。
「あの、メイクってどうやるんですか?私もしてみたいけど、どうやるのか、わからなくて。」
「そうね、基本的には感覚かな。化粧下地もリキッドファンでも私は指で塗るのよ。アイシャドウは二色だけで、右手のくすり指でアイホール全体にぬって、もう一色を二重の幅くらいにチップで塗るのよ。アイラインとかマスカラは、見えていた時の感覚を思い出してしてるのよ。」
「へぇ、すごいなぁ。」
「興味があったら、今度やってみたらどうかしら。やっぱりメイクすると気分もあがるしね。」
彩はその言葉で、自分がメイクをする姿を想像した。
「できるかなぁ、メイク。」
「きっとできるようになるわよ。」
高瀬さんは、そう言った。
 帰ってきてから、彩は鏡の前で自分の顔を見ていた。ほとんどみえない鏡に映った自分の顔。今、どんな顔をしているんだろうか。でも、高瀬さんの教えてくれた方法で、メイクをしたら斗真君はかわいいと思ってくれるかもしれない。彩は、色々考えた。そして、いつか自分も仕事がしたいと思うようになった。コスメを買うにもお金がかかる。いつまでも親に頼るのは良くないとそう思った。でも、自分は中卒だ。こんな自分が仕事なんて、できるのだろうか。不安は考えたらきりがないほどに、浮かんだ。でも、こんなふうに「仕事がしたい。」と思えるほどに、彩は少しづつ前を向いて人生を歩いていけるようになっていた。

 九月になったある日、彩はいつもの公園のベンチに座っていた。今日は、この前の事を斗真君に謝ろうと思ってやってきた。一瞬とても強い風がふいて、思わず彩は目をつぶった。ゆっくりとまぶたをあけると、いつの間にか目の前に斗真君が立っていた。
「よぉ。」
斗真君はいつもの制服姿で、彩に声をかけてからとなりに座った。
「こんにちは。」
彩は少し緊張しながら、言った。その時、
「ニャー。」と猫の鳴き声がした。どこからかなと思ったら、ベンチの下から猫ちゃんが出てきた。
「よしよし。」
斗真君が猫ちゃんの頭をなでた。
「いつからいたのかな。気がつかなかったよ。」
彩が言うと、斗真君は言った。
「多分、このベンチの下が家なんだろうな。」
「え。」
「夜になると、こいつよくこのベンチの下にいるからな。」
「そうだったんだね。わからなかったよ。」
彩はそう言ってから、猫ちゃんの頭をなでている斗真君を見た。そして、思い切って言った。
「あの、この前はごめんなさい。」
彩がそう言って頭をさげると、斗真君は涼しい顔で、
「何が?」
と言った。彩は、となりに座っている斗真君に言った。
「なんていうか、私聞いてはいけない質問をしちゃったかなって。それで、なんていうのかな、人には言いたくない事とか、聞かれたくない事があるから、それで。」
彩は、斗真君の顔を見てゆっくりと思っていた事を言葉にした。すると、猫ちゃんの頭をなでていた斗真君が手をとめて、だまりこんでしまった。彩は、また何か気にさわる事を言ってしまったのかと思った。すると、少しの沈黙の後で、斗真君が真剣な顔をして言った。
「今から言う事、信じられねぇかもしれねぇけど、聞いてくれるか?」
彩は、その真剣な顔をみつめて、うなづいた。斗真君はゆっくりと話を始めた。
「俺は、五年前の秋に死んだんだ。」
「え。」
思いもよらない言葉に彩は、声をもらした。
「この公園を出て、こいつがまだ小さな子猫だった時、車にひかれそうになったのを助けて、俺は車にひかれて死んだんだ。即死だった。」
彩は、頭が真っ白になった。
「信じられねぇよな。こんな話。」
斗真君はぼそっと言った。彩は必死に頭の中を整理した。死んだのに、彩の目の前にはこうして斗真君がいる。こうして、話もできる。でも、考えてみたら、おかしい事がある。斗真君はいつも急に彩の目の前に現れる。足音一つたてずに、いつの間にか彩の目の前に現れる。そして、彩は斗真君と一緒の時だけ、なぜか目が見える。色々と不思議な現象がある。それを、斗真君が五年前に死んだというなら、目の前にいるこの斗真君は幽霊になるのかと彩は思った。そして、その幽霊と一緒の時だけ、彩は目が見えると言う、きっと科学では説明がつかない事がおきているんだと思った。
「その話、信じるよ。」
彩が言った。斗真君は、少しほっとしたように、話を始めた。
「俺は、小学校の頃テストでいい点をとると親がほめてくれるのがうれしくて、勉強が好きだった。それで、中学受験して、さらに親がいい大学に行くためには高校受験もして、第一高校に入った方がいいって言ったんだ。そして、その第一高校に入った。その頃から、両親が顔を合わせれば夫婦ケンカするようになって、家庭の中がぎくしゃくした。それと同時に、俺の成績も少しづつさがった。どこの中学でも成績トップのやつらが集まった高校なんて、ハイレベルすぎて俺には合わなかったんだ。でも、その事を誰にも言えなかった。両親は夫婦ケンカがたえない。でも、俺が大学を卒業するまでは、離婚しないって言った。俺はそれがすごくいやだった。ケンカするくらいなら、とっとと離婚しろって思った。そうして高校二年の秋、俺はなにもかもがいやになった。髪の毛を茶髪にした夜、両親から怒られた。家に帰って来てから、自分で茶髪にしたんだ。両親は、激怒して、すぐに黒髪にもどせって言った。それでも俺はいやだった。翌朝、いつものように学校に行こうと思って家を出た。両親も言ってたけど、こんな茶髪で登校したらすぐに停学になるとわかってた。そう考えると、高校に行くのがバカらしくなって、俺は高校をさぼってこの公園のベンチに座ってたんだ。その時、つい死んでしまいたいと思った。なにもかもがいやになって、なげだしたくなって。それで、いつまでもここにいても暇だし、家に帰ろうと公園を出た所で事故にあったんだ。救急車とパトカーが来て、俺はタンカで救急車に運ばれて行った。その様子を俺は見ていたんだ。きっと俺の肉体から魂がぬけだして、すでに俺は幽霊になっていたんだと思う。病院で即死と判定されて、俺の通夜と葬式が行われた。両親、特に母親は泣きくづれていた。俺の通学バッグから母親が作った弁当が出てきたのを見て、俺は思ったんだ。こんな茶髪にしても、母親は俺のためにちゃんと弁当を作ってくれたんだって、その時なぜだか弁当を毎日作ってくれる母親の気持ちが心にしみたんだ。俺のために毎朝早起きして、弁当を作ってくれたのに、俺は感謝の言葉の一つも言った事がなかった。それが悔やまれた。幽霊になった俺は、どこでもすり抜けられるようになった。物をつかもうとしても物をすりぬけてつかめない。それで、だいたいは家とこの公園をぶらぶらしてた。死んでも死にきれない、そんな事がどうにもならなくて幽霊になったまま、この世をさまよっていた。母親はずっと五年間ふさぎこんでいて、いつ見てもぬけがらみたいになってるし、そんなふうにさせてしまった事を申し訳ないと思うようになった。なぜだか、この猫には俺が見えるみたいだし、この猫だけはさわることができた。俺の相棒みたいになったこいつとこの五年間を過ごして来たんだ。おまえに初めて会った時、おまえは死にたいって言ってただろ。そんな事を考えて越えに出したら本当に死んでしまうと思って思わずおまえに声をかけた。そしたら、なぜだかおまえには俺が見えて、俺の声も聞こえる。幽霊が見えて、話ができる人間なんて今までいなかったから、俺もその事に関しては不思議に思った。でも、こうしておまえと話ができて、この幽霊生活も少しはましになったんだ。」
彩は斗真君の話を最後まで聞いてから、もう一度その話の事を頭の中で整理した。物をすり抜けてつかめないから、差し出したペットボトルが受け取ってもらえなかったんだと気が付いた。そして、酷暑の中でも幽霊だったから汗一つかいていなかったんだと納得した。五年前の秋に死んだのなら、その時来ていた制服は冬服だ。だから、真夏でも冬服の制服をいつも着ているんだ。彩は、一つづつ頭の中でこれまでの事を考えて、納得していった。
「全部、信じるよ。」
彩が言った。
「ありがと。こんな嘘みたいな話を信じてくれて。」
彩は思った。斗真君の中に悔いや未練があるから、きっと成仏できないんだと。
「お母さんの事で、斗真君は悔やんでるんだよね。それが未練になって、きっと成仏できないんだよね。」
「多分な。」
「それを解決したら、斗真君は成仏できるのかな。」
「多分。よくわかんねぇけどな。」
彩はどうしたら斗真君が成仏できるか考えた。そして、考えている途中で気が付いた。
「ねぇ、もしも成仏したら、こんなふうにもう斗真君には会えなくなるの?」
斗真君は静かな声で言った。
「多分な。」
彩は、その言葉を聞いて、胸が苦しくなった。

 その夜、彩は眠れなかった。ベッドに寝転がって何度も考えた。五年前に事故にあって即死してしまった斗真君。この世に未練があって、成仏できずにさまよっている。五年間も。どんな気持ちだろうか。きっととてもつらくて、悲しくて、さみしいはずだ。なぜだか彩には、斗真君の姿が見えるし、声も聞こえる。でも、彩以外の人には、その姿も見えなければ、声も聞こえない。この世にある未練をなくしてあげたい。そして、安心して成仏してほしい。けれど、それと同時に、もう斗真君と会えなくなってしまうことが悲しい。さみしい。つらい。こんな気持ちをなんというのだろうか。斗真君と一緒にいる時は、なんだか素直に自分の事を話せる。斗真君が聞いてくれるから。その相手がいなくなってしまったら、ひとりぼっちになってしまうみたいで、考えただけで涙があふれてくる。でも、本当に斗真君の事を一番に考えてあげたなら、やはり未練をなくして、成仏できる方がいいはずだ。もう会えなくなるかもしれないというさみしさと、それと同じくらい斗真君のためを思う気持ちがいりまじって彩はその夜ねむれなかった。
 翌日、彩はパソコン教室に行って、高瀬さんと話をした。高瀬さんには高校生の子供がいる。だから、なにかヒントをもらえるかもしれないと、彩は相談してみようと思った。
 となりに座っている高瀬さんに、彩はまず挨拶をした。
「こんにちは。」
「彩ちゃんね、こんにちは。」
よく見えない人は声で相手を判断することがある。高瀬さんは、彩の声を覚えてくれて、そう言ってくれた。彩は、どう話をきりだしたらいいのか、迷った。そして、なんとか考えをまとめて、聞いてみた。
「あの、高瀬さんに、ちょっと相談があるんですけど。」
「あら、なにかしら?」
「ええと。」
彩は言葉を慎重に選びながら話した。
「私の知り合いの人なんですけど。その人は高校生の息子さんを交通事故で亡くされて。」
「え、それは気の毒ね。」
「はい。息子さんが亡くなってから、なんていうかそのお母さんが、ぬけがらみたいになってしまって。それで、きっとその。」
彩は言葉を選びながらも、やはりちょっと理解できないだろう事を言ってみた。
「ええと、亡くなった息子さんが、お母さんがぬけがらみたいになっていて、きっとそれが原因で、心配で成仏できないみたいなんです。」
「え。」
高瀬さんは、おどろいた声をだした。それもそのはずだ。亡くなった息子の立場を聞いてもおどろくだけだろう。でも、彩は必死に相談した。
「なんていうか、息子さんはきっと、ぬけがらみたいになったお母さんが心配なんだと思います。それが未練になっていて、その成仏できないんだと思います。どうしたら、息子さんとそのお母さんのためになるでしょうか。」
きっとこんな相談をされたのは、初めてだと思う。彩自身も斗真君の事がなければ、こんな事をもし誰かに相談されても、信じられないし、困惑するだけだと思う。それでも高瀬さんは、考えてくれた。しばらく考えた高瀬さんは困ったように答えてくれた。
「なんていうのかしらね、私だったらやっぱり自分の子供がもしも交通事故で突然亡くなってしまったら、きっと生きていけなくなるわ。子供のために頑張っているところがあるから。だから、そのお母さんが、息子さんを亡くされて、ぬけがらみたいになってしまうっていうのは、よくわかるのよ。」
高瀬さんは、さらに考えてから話を続けてくれた。
「ええとね、きっと息子さんもお母さんを心配してると思うのよ。そうね、ぬけがらみたいになったお母さんが心配で成仏できないっていうのも、そうかもしれないわね。どうしたらいいのかしらね。そのお母さんと息子さんが、話でもできればいいのにね。でも、亡くなってしまってるのよね。亡くなった息子さんと話なんてできないしね。ごめんなさい。上手に答えてあげられなくて。」
「ええと、ありがとうございます。へんな事聞いてこちらこそすみませんでした。」
 彩はパソコン教室から帰ってきて、考えた。高瀬さんは、あんな質問に精一杯考えてくれて、答えてくれた。優しい人だと思う。高瀬さんの言う通り、斗真君とお母さんがきちんと話せればいいのにと、彩も思った。どうしたらいいのか。斗真君のために、自分は何をしてあげられるのか。そして、考えに考えた後で、一つのアイディアが浮かんだ。
 その日の夕方、彩はいつもの公園のベンチに座っていた。早く斗真君に会って、自分の考えをきいてほしい。そう思っていると、風がふいて、斗真君が目の前に現れた。
「よぉ。」
斗真君はいつものように挨拶をしてから、彩のとなりに座った。そして、彩はいきなり考えていたことを斗真君に話始めた。
「あのね、私考えたんだけど。斗真君と斗真君のお母さんが、話をしたらいいんじゃないかって。」
「え。」
斗真君がおどろいて彩の顔を見た。彩はそのまま思っている事を話し続けた。
「私が、斗真君と斗真君のお母さんの通訳になってあげる。」
「通訳?」
斗真君がさらにおどろいて言った。彩は、そんな斗真君にさらに言った。
「斗真君の気持ちとかを言葉にして、それを私が斗真君のお母さんに通訳してあげるの。私は、斗真君と一緒にいる時なら、こうして見えるし、斗真君の声も聞こえるから。だから、斗真君の気持ちを私が、斗真君のお母さんに通訳してあげる。そして斗真君の気持ちが斗真君のお母さんに伝わったら、二人とも安心して次の人生に歩けるんじゃないかなって。斗真君はきっと安心して成仏できるだろうし、斗真君のお母さんも斗真君の死を乗り越えられるんじゃないかなって。」
彩は必死に話した。それが彩の出した答えだったからだ。斗真君のために、そして斗真君のお母さんのために、こうしてあげるのが一番だと思ったからだ。斗真君はしばらく考えてから、言った。
「通訳って、それを信じてもらえるか?」
「ちゃんと信じてもらえるようにうまく説明するから。斗真君の気持ちを素直に話してもらえたら、私がそれを斗真君のお母さんに、ちゃんと伝えるから。」
斗真君はしばらくだまった。何か考えているようだった。そして、長い沈黙のあとで言った。
「そうだな。一応、やってみるか。」
「うん。」
斗真君は下を見たままさらに何か考えていた。また長い沈黙が続いた。そして、長い沈黙の後で話した。
「俺の命日は十月の二日だ。その日に、母親は必ず事故現場に花束を供えてくれるんだ。チャンスはその時一回だけだな。」
「うん、わかったよ。十月の二日ね。何時ごろに花束を供えに来るのかな。」
「だいたい午前十一時前後だ。その時間に俺は事故にあったから。」
「わかったよ。その日は、パソコン教室はお休みするね。」
「悪いな。」
「いいよ、私にできることがあったら、なんでも言ってね。」
彩は斗真君にそう言った。

 それから、家に帰ってきた彩はまた考えた。命日までもう一か月もない。その間に、なるべく斗真君と会って、たくさんおしゃべりをしておきたい。成仏したらもう二度と斗真君とは会えなくなるから。そう思うと、彩の胸がきゅっとなった。
 その夜、夕食を食べ終わってから、彩はママに言った。
「あのね、私メイクしてみたいの。」
「メイク?」
ママはおどろいて声をあげた。
「そう、パソコン教室に来てる人でね、高瀬さんていう女性と最近話をするようになってね。その人、高校生の子供がいるんだって。それで、あんまり見えないけど、料理もメイクもしてるって教えてもらったの。その人はね、パソコンを覚えて仕事がしたいんだって。それで、私も考えたの。すぐには無理かもしれないけど、いつか私もパソコンの仕事をしたいなって。それで、お給料をもらって。」
「彩、そんな先の事を考えているの?」
「うん。メイクするにも、コスメ買うでしょ。そのコスメ買うのもできれば自分のお給料で買いたいの。でも、すぐには仕事はできないと思う。だから、お願い。いつか必ずお金返すから、コスメを買ってほしいの。」
彩が両手を合わせて、ママにお願いすると、ママは涙ぐんで言った。
「いいわよ。」
泣いているのだろうか。声が震えていた。
「彩、よくそこまで気持ちが前に向いたわね。えらいわ。中学を卒業してから、ママはずっと心配してたのよ。いつまでもこうして家の中で過ごすのかしらって。でも、仕事がしたいって思えるほどに、彩はなったのね。強くなったわね。」
ママの話を聞いて彩は思った。自分が高校に進学しなかった事で、ママをどれだけ心配させていたのだろうかと、今になってきがついた。自分も中学を卒業してから、ほとんど毎日を家の中ですごすことに、なんの気力ももてなかった。そして、絶望さえ感じる事が多々あった。将来なんて考える事ができなかった。でも、彩はいつも自分の事だけしか考えていなかった。でも、ママはちがった。いつだって、彩のこれからの事を誰よりも心配してくれていて、考えてくれていた。それでいて、口うるさく言わなかった。それがママをどれほどに、悩ませていたのかと彩は初めて気がついた。そんなママの気持ちを知って、言葉を失った。
「彩、そうね、メイクしたら気持ちも変わるかもしれないわね。今度コスメを買いに行きましょうね。ママも、彩のメイクした顔が見てみたいわ。」
きっと今、ママは笑顔だと彩は思った。自分の事をこんなにも大切に考えてくれているママに彩は心から感謝した。

 日曜日に、彩はママとコスメを買いに行った。初めてメイクをするということで、何もわからないので、お店のお姉さんに位置から相談した。ファンでの色や、アイシャドウの色、グロスの色を見てもらった。自分では、見えないので、お店のお姉さんとママが似合うと言ってくれたコスメを買って来た。
 家に帰ってきてから、彩は部屋でメイクを練習した。見えないと何がどこにあるのかをちゃんと覚えていないといけない。このファンではここに、アイシャドウはここにと場所を決めてそれからメイクを始めた。ファンではリキッドタイプでワンプッシュして使うから、量を出し過ぎたり、逆に少なすぎたりというまちがえはない。ていねいに、顔全体にぬっていく。それから、アイシャドウを塗った。高瀬さんのアドバイスを思い出して、二色入りのパレットをお店のお姉さんに作ってもらった。パレットの右側の色を右手のくすり指にとってアイホールに塗った。左側の色をチップでとって、二重の幅に塗った。アイラインとマスカラは失敗すると思ったので、買わなかった。最後にグロスを唇に塗った。塗る前に指で自分の唇をさわって、それからゆっくりと慎重に塗った。メイクを終えると、階下におりていき、ママに仕上がりをみてもらった。
「よく似合っているわよ。」
ママはそうほめてくれた。初めてのメイクがうまくいって、彩の心は弾んだ。
 翌日、彩はいつもよりも早く起きた。そして、ていねいに洗顔をし、化粧水糸乳液で肌を整えてから、メイクをした。そして、やはり仕上がりをママに確認してもらった。
「かわいくメイクできているわよ。」
そうほめられて、彩は早く斗真君に会いたいと思った。
 夕方になり、彩はいつもの公園に行った。ちょっとドキドキしていた。初めてメイクをした顔を斗真君に見てもらう。なんて言うだろうかと、考えただけでドキドキした。ベンチに座っていると、優しい風がふいて、彩の前髪をふわっとゆらした。
「よぉ。」
目の前に斗真君がいた。
「こんにちは。」
挨拶をすると、斗真君はゆっくり近づいてきて、彩のとなりに座った。彩は思わず斗真君を見た。自分のメイクをどう思うだろうか気になった。しかし斗真君は、そんな彩のドキドキなんてこれっぽっちも気にしていない。いつものように、話を始めた。頑張ってメイクをしたのになと、彩はちょっとがっかりした。
「ニャー。」
猫ちゃんが斗真君の足元にいた。斗真君は猫ちゃんを自分のひざの上に乗せた。
「よしよし。」
いつものように、斗真君は猫ちゃんの頭をなでてあげて、かわいがっている。そんな姿を見たら、彩はちょっとだけ猫ちゃんになりたいとそんな事を思ってしまった。
「猫ちゃんは、斗真君が好きなんだね。」
彩はちょっと嫉妬しながらそう言った。
「俺はこいつだけは、さわれるから、だからかわいいんだ。こいつも、俺に助けてもらったってこと、わかってるみたいだし。」
斗真君の話を聞いてそうかと彩は思った。この猫ちゃんを助けて、それで斗真君は事故で死んでしまったんだと改めて思った。となりにいる斗真君は、幽霊なんだと彩今一度思った。
「ねぇ、斗真君が成仏したら、この猫ちゃんはどうなるのかな。もう斗真君とあえなくなるから、猫ちゃんもさみしいと思うんだろうね。」
「まぁそうかもな。でも、おまえがたまにここに来て、こいつをかわいがってやればいいだろ。」
「そうだね。でもさ、斗真君と会えなくなったら私は目が見えないから。この猫ちゃんをちゃんとかわいがることできるかな。」
「おまえが見えなくても、こいつにはおまえが見える。だから、こいつはおまえにかまってほしいと思うぞ。」
「そうだね。私には、猫ちゃんが見えなくなっても、猫ちゃんには私が見えるんだもんね。これからもよろしくね。」
彩は手をのばして、猫ちゃんの頭をなでた。しばらくかまってもらったから、満足したのか猫ちゃんはどこかに行ってしまった。
「私ね、いつか仕事をしようと思ってるの。」
彩が、ふと言った。
「いつまでも、親に頼ってばかりじゃなくて、ちゃんと仕事してお給料もらって。いつになるかはわからないけどね、頑張ってみようと思ってるの。」
「そうか、すげぇじゃん。」
斗真君はそう言ってくれた。そのあとで、つけたすように斗真君は言った。
「でも、あんまり頑張りすぎるなよ。」
「え。」
思わず斗真君の顔を見た。斗真君も彩の顔を見ていた。
「自分がおいつめられるほど、頑張るなよな。心が死んでしまうと体も死ぬからな。無理するなよ。ゆっくりおまえのペースでやれよ。」
「うん。」
彩は小さな声で答えた。彩の顔を見ていた斗真君が空を見上げた。そんな斗真君を見て、彩は言った。
「もっと早くに斗真君と出会えてたら。」
「え。」
「だって、斗真君は、一人で悩んでいたんだもんね。だから、その時にちゃんと斗真君の悩みを聞いてあげれたら良かったのにな。」




彩は、そう言った。

 いよいよ、斗真君の命日の日になった。今日はパソコン教室をお休みした。家族がみんな仕事にでかけた後、彩は何度もスマホの時計を確認した。時計は音声で言ってくれる。そして、斗真君と約束した時間に間に合うように彩は家を出た。
 公園のベンチで座っていると、いつものように風がふいて、目の前に斗真君が現れた。
「よぉ。」
「おはよう。」
彩は、そう挨拶をした。いつものように斗真君がとなりに座った。なんだか緊張してしまう。
「ニャー。」
猫ちゃんが、ベンチの下から出てきた。
「あ、猫ちゃん。ここにいたんだね。」
彩は猫ちゃんにそう言った。猫ちゃんは、斗真君の足元で、かまってほしいという顔をした。
「おまえとも、今日で最後かもな。」
斗真君が猫ちゃんにそう話しかけた。その言葉を聞いて、彩は胸が痛んだ。そうだ、今日で斗真君とは、もう会えなくなるんだ。彩は、胸がきゅっとした。猫ちゃんの頭をなでながら、斗真君が言った。
「うまくいくんだろうか。」
「大丈夫だよ。私は、ちゃんと斗真君の言葉をそのまんま斗真君のお母さんに伝えるから。」
「でもなぁ、それを信じてもらえるか。」
「きちんと誠意をもって、一生懸命に通訳するからね。きっと大丈夫だよ、伝わるよ。」
彩はそう言った。それから、彩も、猫ちゃんの頭をなでた。なでながら彩は猫ちゃんに言った。
「ねぇ、私は斗真君がいないと、よく見えないの。でも、猫ちゃんのことはこれからもかわいがるからね。ここに来たら、私に会いに出て来てね。」
猫ちゃんは何も答えてくれなかった。それでも、彩はここに来たら、きっとこうして猫ちゃんには会えるんだと信じた。
「そろそろ行くか?」
猫ちゃんの頭をなでていた斗真君が、手をとめてそう言った。
「そうだね。」
彩もそれに答えた。
「あ、そうだ。」
彩は持っていた白杖をたたみ始めた。
「あのね、この白杖折りたためるんだよ。今日はリュックで来たから、たたんだ白杖をリュックにいれておくね。」
彩はそう言って、白杖を折りたたんで、リュックにいれた。
「へぇ、白杖って折りたためるのか。」
斗真君がそう感心した。彩はちゃんと考えていたのだった。いきなり、知らない女の子に、それも白杖を持った女の子に話しかけられたら、斗真君のお母さんはきっと困惑してしまうと思った。だから、せめて、白杖を持っていない姿で、斗真君のお母さんと会おうと思っていた。
 彩と斗真君は静かにベンチを立った。斗真君と一緒の時は目が見えるので、白杖を使わなくても、彩は歩くことができる。斗真君に案内されて、事故現場に向かった。二人の間に、特に会話はなかった。きっと斗真君は緊張しているんだと、彩は思った。何個目かの曲がり角を曲がった。そして、斗真君の足がとまった。
「そこだ、事故現場。」
斗真君が指をさしてつぶやいた。電柱のある場所だった。誰かの家のブロック塀が見えた。そして、二人でそこに立ち止まっていると、向こうから一人の女性が花束を持ってやって来た。長い髪の毛を後ろで結んでいる。その長い髪の毛にはたくさんの白髪がまじっていた。




「もしかして、あの人が斗真君のお母さん?」
彩はとなりに立ち尽くしている斗真君に聞いた。
「ああ。」
斗真君は、そう答えてくれた。斗真君のお母さんが、事故現場に花束を供えてから、目をとじて両手を合わせた。その姿が、痛々しくて、なんともみていられないと彩は思った。この五年間、斗真君はこんなふうにぬけがらみたいになってしまった自分の母親を見ていたんだなと思うと、斗真君のさみしさや悲しみが彩には手に取るようにわかった。斗真君のお母さんが、目をあけた。その時、彩は思い切って、声をかけた。
「あの、佐藤斗真君のお母さんですよね。」
斗真君のお母さんは、急にはなしかけられて、目を大きくして彩を見た。
「私は、斗真君の知り合いで、観月彩と言います。」
彩はそう言って斗真君のお母さんのそばに行った。斗真君も彩について斗真君のお母さんの目の前に行った。
「あの、斗真君が言っていたんです。」
彩はそう言ってから、となりにいる斗真君を見た。斗真君のお母さんには斗真君の姿が見えていない。斗真君は、言葉をつまらせながら言った。
「母さん、俺ちゃんとお礼を言いたくて。毎朝、起こしてくれて、弁当を作ってくれて、それから家の事をしてくれて、ありがとう。」
斗真君のその言葉を彩は一字一句聞き逃さないで、ちゃんと斗真君のお母さんに伝えた。
「あの、あなた何を言っているの?」
斗真君のお母さんは、彩にそう言った。
「あの、信じられないかもしれないけど、ここに斗真君がいます。」
「え。」
「それで、斗真君が、そう話しています。」
「あなたね、何を言っているのよ。斗真は五年前に死んだのよ。」
斗真君のお母さんが、怒って言った。
「母さん、俺はここに今いるんだ。」
斗真君がそう言った。それを彩はちゃんと斗真君のお母さんに伝えた。
「そんな事言われても、しんじられるわけないでしょ。」
斗真君のお母さんが怒って帰ろうとした。
「母さん、俺は生まれたばかりの頃体が弱かったんだよな。それで、入院したんだよな。」
斗真君が言った。その言葉を彩が斗真君のお母さんに伝えると、斗真君のお母さんは目を大きくして言った。
「そんな事、どうしてあなたが知っているのよ。」
斗真君のお母さんが言った。
「あの、信じられないかもしれないけど、本当にいまここに斗真君がいるんです。斗真君はお母さんにちゃんと感謝の気持ちを伝えたかったって、後悔してるんです。」
「斗真が?」
「母さん、俺が茶髪にした時、すげぇ怒ったよな。それなのにちゃんといつものように弁当作ってくれて、ありがとう。」
斗真君の声が少し震えていた。彩は斗真君の言葉を一生懸命に斗真君のお母さんに伝えた。
「母さん、俺が死んだあと、ぬけがらみたいになって、俺はそれが心配で。だから、どうか母さんは母さんの人生をしっかり歩いてほしいんだ。」
彩がその言葉を斗真君のお母さんに伝えた。すると、斗真君のお母さんは泣きながら怒鳴った。
「そんな事できるわけないでしょ。」
斗真君のお母さんは、顔をぐしゃぐしゃにしながら彩に言った。
「自分の息子が事故で死んだのよ。どうやって生きていけばいいのよ。あなたにこの苦しみがわかるの?」
「母さん、どうかしっかり前を向いて生きてほしいんだ。頼む。」
彩は一生懸命に斗真君の言葉を斗真君のお母さんに伝えた。その時、猫ちゃんがとことこ駆け寄って来た。猫ちゃんは斗真君の足元で、立ち止まると、
「ニャー。」
と一声鳴いた。すると、一瞬あたりがまばゆく光った。そして、そのまばゆさに彩も斗真君のお母さんも思わず目をつぶった。そして、二人がゆっくりまぶたをあけると、斗真君の姿が斗真君のお母さんにも見えたみたいだった。
「斗真。斗真。」
斗真君のお母さんは、まっすぐ斗真君の顔を見て言った。
「母さん、母さんがそんなんじゃ、俺は死にきれない。どうか、母さんは母さんの人生をしっかりと歩いてほしいんだ。」
斗真君のその声がどうやら斗真君のお母さんにも、聞こえたらしい。さっきとはちがう涙が斗真君のお母さんの頬をぬらした。
「斗真、そんな事を言っても、斗真がいなくなってどうやって生きていったらいいのかわからないのよ。」
「俺は、いつだって母さんを空から見てるから。近くにいるから。だから、母さんは母さんの人生を死んだように生きてほしくないんだ。頼む。母さんは母さんの人生をしっかりと生きてほしい。」
斗真君の必死な声が斗真君のお母さんに届いたみたいだった。泣きながら、斗真君のお母さんは、なんども何度もうなづいた。
 それからしばらくして、あたりがしんとした。もう斗真君のお母さんには斗真君の姿が見えなくなったみたいだった。
「わかったわ。ここに、斗真がいたのね。」
斗真君のお母さんがそう言った。
「斗真が、心配しているのね。わかったわ。」
その言葉を聞いて、彩のとなりにいる斗真君が言った。
「母さんは母さんのペースでしっかり生きてくれたらそれでいいんだ。」
その斗真君の切実な言葉を彩が斗真君のお母さんに伝えた。
「わかったわ。」
斗真君のお母さんはそう言って、ぬれた頬を両手でふいた。

 斗真君と一緒に彩は公園に戻ってきた。斗真君の足元には猫ちゃんがいる。
「猫ちゃん、ありがとう。」
彩は猫ちゃんにお礼を言った。猫ちゃんがさっき、斗真君の姿を斗真君のお母さんに見せてくれたんだと、彩は思った。自分を助けて事故で死んでしまった斗真君に、猫ちゃんはありったけの力を使って奇跡を起こしてくれたんだ。
「おまえにも、感謝してる。」
斗真君が彩に言った。
「私は、ただ斗真君の言葉を斗真君のお母さんに伝えただけだよ。」
「おまえに、感謝してる。ありがとう。」
斗真君はまっすぐ彩をみつめてそう言ってくれた。彩は斗真君をみつめて、おもいっきり笑顔で言った。
「これで斗真君は安心して成仏できるね。」
「ああ。」
彩の目に涙があっというまにたまった。その涙を彩はこぼさないように、笑顔で言った。
「私ね、斗真君に出会えて本当に良かったよ。毎日ふさぎこんでた私が、公園まで一人で来られるようになったし。パソコン教室に行ってみようって思って、パソコンの勉強をするようになったし。それに、今はいつか仕事がしたいって思えるようになったし。こんなに前向きになれたのは、斗真君と出会えたからだよ。本当にありがとう。」
必死にこらえていた涙が、こぼれ落ちた。それを彩はあわてて右手でふいて、笑顔で言った。
「斗真君、出会えて良かった。こんなたくさんの気持ちをくれて本当にありがとう。」
彩がそう言うと、斗真君は言った。
「俺じゃない。おまえはおまえ自身の力で前に進んだんだ。俺はこれからもおまえを応援してるからな。」
斗真君がそう言って自分の右手を彩に差し出した。彩も右手をさしだして、あくしゅした。彩の手は斗真君にふれる事ができなかった。斗真君の手は彩の手をすりぬけてしまったからだ。それでも、二人はあくしゅをやめなかった。
「これで、安心して成仏できるね。」
彩が最後の一言を言うと、斗真君は、
「ありがとな。」
と言って消えていった。斗真君が消えた後、彩の目は光を感じる程度にしか見えなくなってしまった。ああ、奇跡が終わったんだと彩は思った。いなくなった斗真君を彩はいつまでもわすれないようにしようと心に誓った。

 それから一週間がたった。彩は、いつもの夕方に公園にやってきて、ベンチに座った。もう二度と会えない斗真君を恋しく思った。
「ニャー。」
猫の鳴き声が聞こえた。
「あれ、もしかして猫ちゃん?」
彩がそう言うと、そうだよと言うように、また猫の鳴き声が聞こえた。ここで、斗真君と出会った。一生忘れない。そして、斗真君のお母さんが頑張っているから、私もまけないように、私の人生を一生懸命歩いて行こうと思う。そう、自分のペースで。その時、風がふいた。公園をふきぬけたその風はすっかり秋風になっていた。いつのまにか季節が変わったんだと彩は思った。その時、公園のまわりにある木々の葉がざわざわと音をたててゆれた。そして、もう一度、秋風がふいて、彩の髪の毛を静かに揺らした。
「応援してるからな。」
空の上から斗真君の声が聞こえた気がした。