スピカと子午線の魔法少女

 一、時計台の秘密

 四月の後半、春の風が少しあたたかくなってきたころ。
 明石の天文科学館の前に、ひとりの女の子が立っていた。

 名前は、津田ひかり。小学五年生、10歳。
 ランドセルを背負ったまま、白い時計台を見上げている。

 ひかりは算数が少し苦手だった。
 時計を読むのも、あまり得意じゃない。
 デジタルの数字ならまだしも、アナログの針が指す「何時何分」を、すぐに正確に答えるのは、どうも自信が持てなかった。

 それなのに、この場所だけは、なぜか気になってしまった。

 この時計台は、東経百三十五度――日本の標準時を決める子午線の、まっすぐ真上に建っている。
 日本中の時計が、明石を基準にして動いている。そのこと自体は、ひかりもずっと前から知っていた。
 幼稚園のころ、遠足で天文科学館を訪れたときに、そう教えてもらったのだ。

 でも、最近になって、その意味が少し変わってきた。

 学校が始まってしばらくたったある日、社会科の時間に、日本の国土について学んだ。
 地図に引かれた緯線と経線。
 世界の中の日本。
 そして、日本の時間を決めている一本の線の話。

「だから、明石なんだよ」

 その一言を聞いたとき、
 ひかりの中で、知っていたはずの言葉が、初めてちゃんとつながった気がした。

 時計を読むのは苦手なのに。
 時間の話になると、不思議と胸の奥が少しだけざわつく。

 それからひかりは、帰り道に天文科学館の前を通るたび、足を止めるようになった。
 友だちと別れ、一人になると、気づけば時計台を見上げている。
 理由は自分でもよくわからない。ただ、通り過ぎることができなかった。

 今日も、そうだった。

 夕暮れの空が、少しずつ青く染まっていく。
 石畳には長い影が伸び、観光客の姿はほとんどない。
 聞こえるのは、遠くを走る車の音と、時計台の中で刻まれているはずの、見えない秒針の気配だけだった。

 ひかりは、白い時計台を見上げた。

 ――そのときだった。

「ねえ、また来たの?」
 突然、声がした。
 ひかりはびくっとして、あたりを見回した。
 けれど、近くに人影はない。夕方の広場には、ひかりしかいなかった。

「……え?」
「こっちよ。上、上よ」
 言われるままに顔を上げると、
 時計台の文字盤のすぐそばに、小さな光の粒がふわふわと浮かんでいた。

 蛍みたいで、でも蛍よりずっと明るい。
 青白く、やさしく光っている。

 ひかりは、思わず息をのんだ。

「……えっ」
 声が、確かにそこから聞こえた。
「というか、あなた、よくここを見てるでしょう。さすがに気になってきたの」
 光の粒はひらりと動き、ひかりの目の前に降りてきた。
 よく見ると、それはとても小さな女の子の形をしていた。透き通った青いドレスをまとい、銀色の長い髪を風もないのに揺らしている。背の高さは、指三本分くらいしかない。

「……しゃ、しゃべってる?」
「しゃべってるわよ。失礼ね」
 小さな女の子は、腰に手を当てて胸を張った。
「わたしはスピカ。おとめ座の一等星の名前から取ったの。まあ、本物の星じゃなくて、星の精霊みたいなものだけど」

 ひかりは、しばらく言葉が出なかった。
 頭の中が、ぐるぐると回っている。

「せ、精霊……?」
「そう。で、あなたは?」
「……津田ひかり」
「ひかり。いい名前ね。光って書くの?」
 ひかりがこくりとうなずくと、スピカはくるりと宙返りをして、うれしそうに笑った。

「やっぱり。ねえ、ひかりちゃん」
 スピカは、さっきまでとは少し違う、まじめな声で言った。
「あなた、時間に興味があるでしょう?」
「時間……?」
「この時計台の真下には、子午線が走ってる。子午線は、時間を決める線。でもね、本当は――」
 スピカの青白い光が、わずかに揺れた。
「時間って、ただの数字じゃないの。時間には命があって、心がある。そして今、その時間が、とても危険な目にあっているの」
 ひかりの胸が、どきんと鳴った。
「あなたに、お願いがあるの」
 スピカは、まっすぐにひかりを見た。
「時間を守る魔法少女になってほしいの」
 夕暮れの空に、時計台の白い影が長く伸びていた。
 聞こえないはずの秒針の音が、ひかりの胸の中で、確かに刻まれている気がした。

 ひかりはまだ、その言葉の重さを知らなかった。
 けれど――この瞬間から、彼女の時間は、確かに動き始めていた。

 二、子午線の下の世界
 
 その日の夜、ひかりはなかなか眠れなかった。
 布団に入って目を閉じても、白い時計台と、青白く光る小さな女の子の姿が浮かんでくる。
 時間を守る魔法少女。
 そんな話が、本当にあるわけがない。そう思おうとするのに、胸の奥がざわざわして、うまくいかなかった。

 枕元の机の上に、小さな石が置いてある。
 丸くて透明で、中に青い光がゆっくりと渦を巻いている。

 ――夢じゃ、なかった。

 スピカは言っていた。
「明日の朝、子午線の真上に立って、これを空に向かってかざして」

 ひかりは石をそっと手に取った。
 冷たいはずなのに、なぜかぬくもりを感じる。

 もし、全部が本当だったら。
 もし、時間が本当に危険にさらされているのだとしたら。

 考えたくないのに、考えてしまう。
 そして、気づいていた。

 ――行かない、という選択肢は、もう自分の中にないことに。

 翌朝、ひかりはいつもより少し早く家を出た。
 科学館の前には、まだ人がほとんどいなかった。正面玄関の床には、子午線を示す金色のラインが刻まれている。ひかりはそのラインにそっと足を乗せ、石を天に向かってかざした。
 すると。
 世界が、変わった。
 ひかりの足元から、青い光の線がまっすぐ空へ伸びた。時計台の時計が、ゆっくりと逆回りに動き始めた。周りの景色が水面に映った絵のようにゆらゆらと揺れ、気づいた時には、ひかりは全く違う場所に立っていた。
 そこは、薄暗い廊下のような空間だった。頭上には無数の時計が浮かんでいた。柱時計、懐中時計、砂時計、デジタル時計、日時計――ありとあらゆる形の時計たちが、それぞれのリズムで時を刻んでいる。その音が重なり合って、なんとも不思議な音楽のようになっていた。
「来てくれた!」
 スピカが飛んできた。昨日よりも光が弱い気がした。
「ここは、子午線の下に広がる『時の廊下』。時間の流れを管理している場所よ。でも今、ここに侵入者がいるの」
「侵入者?」
「『時食い虫』。時間を食べて大きくなる生き物。本来は時の廊下に迷い込まないように封印されているんだけど、最近その封印が弱くなってきて……あちこちで時間が狂い始めてるの」
 確かに、よく見ると廊下のあちこちに黒いシミのようなものがあった。時計の中にもシミが広がっているものがあり、そこだけ針が止まっている。
「時食い虫が時間を食べると、その時間は二度と戻ってこない。過去も未来も、どんどん欠けていく。最終的には——」
 スピカが言葉を止めた。でも、ひかりにはわかった気がした。時間がなくなれば、すべてがなくなる。
「……わかった。わたし、やる」

三、魔法少女・ひかり

 ひかりが石を強く握ると、体が光に包まれた。
 背負っていたランドセルが消え、代わりに白と青のマントが肩から広がった。スカートのすそに星型の模様が浮かび上がり、手には細い杖が現れた。杖の先には、石と同じ青い光が灯っている。
「かっこいい!」
 とスピカが叫んだ。
 ひかりは少し恥ずかしかったが、杖を持った手に力が入った。
「時食い虫は、時計の中に潜んでいるの。杖の光を当てると封じ込められる。でも近づくと、あなたの時間も食べられちゃうから、気をつけて」
「わたしの時間……?」
「そう。あなたが過ごした時間。思い出、とも言うかもしれない。時食い虫に触れると、大切な記憶が消えていく。だから、絶対に直接触らないように」
 ひかりはごくりとつばを飲んだ。

 廊下を進むと、最初の時食い虫を見つけた。大きな柱時計の文字盤から半分はみ出した、黒くてどろりとした生き物だ。足が六本あり、それぞれの先端がとがっている。目はなく、口だけが大きく開いて、時計の歯車をばりばりと食べていた。
 ひかりは杖を構えた。
「……えい!」
 青い光が時食い虫に当たった。虫は一瞬、ぴたりと止まった。でも次の瞬間、するりと時計の内側に逃げ込んだ。
「逃げた!」
「時計の中に入られると、光が届きにくくなるの。でも……」
 スピカが考えるように宙で止まった。
「ひかりちゃん、あの時計を読んで。何時何分か、言ってみて」
 ひかりは柱時計を見上げた。針は止まっていたが、文字盤に書かれた数字を読んだ。
「三時二十四分」
「じゃあ、杖でその時刻を空中に書いて。大きく、はっきりと」
 ひかりは言われた通り、杖の先で「3:24」と宙に描いた。すると光の数字が空中に浮かび上がり、その輝きが時計の中にまで差し込んだ。
 ぎゃあ、という声がして、時食い虫が飛び出してきた。今度はひかりも慌てずに、杖を振って光を浴びせた。虫はしゅるしゅると小さくなって、やがて黒い煙になって消えた。
「やった!」
「よかった! 時刻を読んで光にすることで、時間そのものを武器にできるの。時食い虫は、正確な時間の光が一番苦手なのよ。さすが子午線の上に建つ科学館ゆかりの魔法少女ね!」

四、時間が食べられるということ

 ひかりとスピカは廊下を奥へ奥へと進んだ。
 途中、ひかりは気づいた。自分の頭の中が、なんとなくぼんやりしている。
「スピカ、なんか……うまく思い出せないことがある気がする」
「時食い虫のせい。もうここの時間がかなり侵されてるから、廊下の中にいるだけで少しずつ影響を受けるの。急がないといけないわ」
 ひかりは杖を握り直した。
 思い出せないことが増えるのは、怖かった。先月、お母さんと海を見に行ったこと。それはまだ思い出せる。友達のあおいちゃんと、給食のカレーをおかわりしたこと。それも大丈夫。でも、もし時食い虫に全部食べられたら?
 ひかりは走った。
 廊下の突き当たりに、巨大な時計があった。
 科学館の時計台と同じデザインの、白くて丸い時計。でも、その中に時食い虫の親玉がいた。体が子供のひかりと同じくらいの大きさで、全身が黒いぬめりに覆われている。無数の足がうごめき、文字盤をじりじりと侵食していた。
 この時計が食べ尽くされると、子午線の時間そのものが壊れる。日本全国の「今」そのものが、狂う。
「ひかりちゃん!」
 スピカが叫んだ。その声に、ひかりは我に返った。
 恐ろしかった。膝が震えていた。でも——
 この時計は、日本の時間を守っている。何万人、何千万人もの人々が、この時計を信じて生きている。朝起きて、学校に行って、ごはんを食べて、眠る。そのすべてが、時間のリズムの上に成り立っている。
 ひかりは深く息を吸った。
「スピカ。一番大きい時食い虫を倒すには、どうすれば?」
「……一番大切な時刻を、一番大きな声で読み上げること」
「一番大切な時刻?」
「今よ。今この瞬間。今が一番大切な時刻」
 ひかりは時計を見た。
 針はぐるぐると乱れていた。でも、ひかりは目を細めて、集中した。針の向こうに、正しい時刻が見える気がした。
 午前七時五分。
 春の朝、子午線の真上、明石の空が一番美しく輝く時間。
「七時五分!」
 ひかりは声の限りに叫んだ。杖を時計に向け、光の数字を大きく大きく書いた。「7:05」——その輝きが、廊下全体を満たした。
 親玉の時食い虫が、断末魔のような声を上げた。
 黒いぬめりが焼けるように消えていく。足が一本ずつ、溶けるように消える。体が縮んで、縮んで——最後に黒い煙となって、散った。
 時計の針が、正しい位置に戻った。
 七時五分。

五、時の廊下に朝が来た

 カチ、カチ、と時を刻み始めた。

 そのときだった。
 時の廊下の奥で、ほんの一瞬、小さな影が動いた。

 ひかりは、はっとして目を上げた。
 スピカが何か言うよりも早く、ひかりの方が先に気づいていた。

 けれど、影はすぐに消えた。
 何事もなかったかのように、時計たちは正しい時を刻み続けている。

 ひかりは、そっと息を吸った。
 大丈夫。次は、ちゃんと間に合う。

 そう思えたことに、自分で少し驚いた。

 時食い虫が消えると、廊下全体の時計たちが一斉に動き出した。
 止まっていた針が回り、割れていた文字盤が元に戻り、廊下のあちこちにあった黒いシミが消えていく。重なり合う時を刻む音が、ハーモニーのように響いた。
 ひかりは膝をついた。全身の力が抜けていた。
「すごい……やったね、ひかりちゃん!」
 スピカが飛んできてひかりの頬に触れた。小さな手のひらは、ひんやりとしていて、でもとても優しかった。
「スピカ、さっきわたし、思い出せないことがあった気がしたんだけど」
「大丈夫。虫が消えたから、全部戻ってくるはずよ」
 ひかりは目を閉じた。
 お母さんの顔。あおいちゃんの笑い声。カレーの匂い。海の音。——全部、ちゃんとそこにある。
「よかった」
 しばらくして、ひかりは立ち上がった。
「スピカ、子午線って何なんだろうって、ずっと思ってた。ただの線かと思ってたんだけど」
「ただの線じゃないよ」
 とスピカは言った。
「子午線は、世界中の人が時間を分かち合うための約束の線。この線があるから、みんなが同じ『今』を生きられる。離れた場所にいても、同じ時刻を共有できる」
「……なんか、すごいね」
「そう。だから、この線の真上に時計台が建ってるの。時間は、人間が作った一番大切な約束かもしれない」
 ひかりは天井を見上げた。無数の時計が輝いていた。
「時食い虫はまた来る?」
「来るかもしれない。封印は修復されたけど、完璧じゃないから。でも——」
 スピカがひかりをまっすぐ見た。
「あなたが守ってくれるでしょう?」
 ひかりは少し考えて、それから笑った。
「うん。守る」

六、子午線の光の下で

 気づくと、ひかりは科学館の前の石畳に立っていた。
 手の中には、青い石。マントも杖も消えて、制服姿に戻っている。
 時計台を見上げると、七時五分を指していた。春の朝日を受けて、白い塔が輝いている。
 ひかりは石畳に刻まれた子午線のラインをそっと踏んだ。
 この線の下に、時の廊下がある。無数の時計がある。そして今この瞬間も、日本中の人たちがこの線から生まれた時刻を信じて朝を迎えている。
「おはよう、スピカ」
 空に向かってつぶやくと、どこからか青い光がきらりと光った気がした。返事なのかどうかは、わからない。でも、ひかりはそれでいいと思った。

 その日、社会科の時間に、先生が日本の時間の話をしていた。

——知っているはずの言葉。

でも、ひかりの胸の中では、
時計台と、子午線と、「今」という時間が、
静かにつながっていった。

七、スピカが語った星の話

 その夜、窓の外に星を見つけたひかりが、窓を開けると、スピカが入ってきた。
「今日の夜空、きれいよ」
 ふたりで窓枠に腰をかけた。——もちろんスピカは親指くらいしかないので、窓枠に立っているだけだが。
「スピカって、本当に星なの?」
「精霊って言ったでしょ。でも、本物のスピカとは繋がってる。おとめ座の一等星、地球から約250光年先にある星。その光が届くまでに、二百五十年かかるのよ」
「……二百五十年?」
「そう。あなたが今夜見てるスピカの光は、250年前に旅立った光。江戸時代に出発した光が、今夜あなたに届いてるってこと」
 ひかりはぽかんとした。
「じゃあ、光も……時間を旅してるの?」
「そう言えるかもね」
 スピカが青く光った。
「時間はね、川みたいなものよ。上流から下流へ、ずっと流れ続けてる。過去が上流で、今が今いる場所で、未来が下流。川は止められないし、逆には流れない。でも、時の廊下の時計たちは、川の流れが乱れないようにずっと働いてる」
「だから守らなきゃいけないんだ」
「そう。……でも、ひかりちゃんは知ってた?」
「何を?」
「あなたの名前、ひかりって、光でしょう。光は宇宙で一番速くて、時間を超えることができるの。だからあなたが魔法少女に選ばれたのかもしれない」
 ひかりは自分の名前を心の中でつぶやいた。ひかり、ひかり、ひかり——。
 お父さんとお母さんがつけてくれたこの名前に、こんな意味があったとは知らなかった。
「スピカ、ありがとう」
「何に対して?」
「なんか……いろいろ」
 スピカはくすっと笑った。
「こちらこそ。今日はちゃんと一人で立ち向かってくれたね」
「怖かったけど」
「怖くても立ち向かえることを、勇気って言うのよ」
 南の空に、青白い星が輝いていた。

八、明石の空を見上げながら

 それから、ひかりの日常は少しだけ変わった。
 科学館の前を通る時、少し立ち止まるようになった。子午線のラインを踏む時、足の裏から時間の流れを感じるような気がするようになった。
 時食い虫はその後もたまに現れた。時の廊下に呼ばれるたびに、ひかりは時刻を読んで光を放ち、一つずつ封じ込めた。最初は怖かったが、だんだんと慣れてきた。
 スピカはいつも一緒にいた。でも、すべてをひかりの代わりにやるわけではなかった。ヒントをくれたり、励ましてくれたりはするが、最後はいつもひかりが自分で考え、自分で動かなければならなかった。

 五月の終わり、クラスで明石天文科学館の見学があった。
 プラネタリウムで星の説明を聞きながら、ひかりはふと思った。
 ここにいるクラスメートたちは、時の廊下のことを知らない。時食い虫のことも、スピカのことも。でも、彼らが今日の授業を受けて、夜空を見上げて、「星ってすごいな」と思うなら、それは時間が守られているからこそできることだ。
 明日があるから、昨日を振り返れる。今があるから、未来を夢見られる。
 時間は、みんなの毎日の中にある。
 プラネタリウムの天井に、スピカが映し出された。おとめ座の一等星、青白い輝き。
 ひかりは小さくほほえんだ。
 夜空に向かって、心の中でつぶやいた。
 また後で、ね。
 どこかで、青い光がきらりと答えた。
 子午線の上に建つ時計台が、正確な時を刻み続けた。
 カチ。カチ。カチ。
 今日も、日本中の時間が正しく流れている。

――おわり――