夏の大会が近づき、校内はどこか落ち着かない空気に包まれていた。
コウタの足はすっかり良くなり、軽くボールを蹴れるまでに回復していた。グラウンドに立ったときの土の感触も、仲間の声も、以前と同じように胸を高鳴らせる。
それでも、その日だけは練習に集中できなかった。
昼休みになっても、放課後になっても、マリナの姿が見えなかったからだ。
吹奏楽室から聞こえてくるはずのフルートの音も、今日はどこか寂しく感じる。
帰りのホームルームが終わったあと、コウタは校舎の裏庭へ向かった。
そこはあまり人が来ない、小さな木陰のある場所だ。
そして、やっぱりそこにいた。
ベンチに座り、うつむいているマリナ。
肩は小さく震えていた。
「……マリナさん。」
声をかけると、彼女はびくっとして顔を上げた。
目が赤くなっているのを見て、コウタの胸が強く痛んだ。
「コウタ君……どうしてここに?」
「なんとなく、いる気がして。」
コウタはゆっくりと隣に座った。
少しだけ距離をあけながら、でも離れすぎない位置で。
しばらく沈黙が続いた。
蝉の声だけが、夏の空気を震わせている。
やがて、マリナが小さな声で言った。
「私ね……最近、部活に行けてないの。」
コウタは驚かなかった。
どこかで、そうじゃないかと思っていたからだ。
「……何かあったの?」
マリナは膝の上で手をぎゅっと握った。
「同じパートの子たちに、ちょっと無視されたりしてて……。私、うまくできなくて、足引っ張ってるって言われて……」
声が途中で震える。
「最初は気にしないようにしてたんだけど、練習に行くのが怖くなっちゃって……」
ぽろり、と涙が落ちた。
「フルート、好きなのに……音楽も好きなのに……なのに、楽器を見るのも怖くなって……」
コウタは言葉を探した。
簡単な慰めなんて、きっと意味がない。
それでも、何か伝えたかった。
「……悔しいよね。」
その一言に、マリナの肩が大きく揺れた。
「うん……すごく。」
コウタはゆっくり続けた。
「俺さ、怪我してたとき、グラウンド見て泣きそうになったんだ。」
「……覚えてる。」
「みんなが楽しそうに練習してるのに、自分だけ何もできなくてさ。置いていかれてる気がして、めちゃくちゃ悔しかった。」
マリナは静かにコウタの話を聞いている。
「でも、そのときマリナさんが言ってくれたんだよ。」
コウタは少し笑った。
「『休むのも次のための準備だよ』って。」
マリナの目がゆっくり見開かれる。
「今のマリナさんも、同じなんじゃないかなって思う。」
「……同じ?」
「怖くなるくらい好きなんでしょ。フルートも、音楽も。」
コウタはまっすぐ彼女を見た。
「どうでもよかったら、きっと悩まないと思う。」
涙で濡れた瞳が揺れる。
「それにさ、俺は知ってる。」
「え……?」
「放課後、窓から聞こえてくるフルートの音。すごくきれいだった。あれ聴くと、練習頑張ろうって思えたんだ。」
マリナの頬に、また涙が流れた。
でも今度は、さっきとは少し違う涙だった。
「下手だって言われても、怖くなっても、好きな気持ちまでなくなったわけじゃないでしょ?」
コウタは静かに言った。
「だったら、無理に今すぐ行かなくてもいいと思う。でも……やめないでほしい。」
風が木の葉を揺らし、やわらかな影が二人の足元に落ちる。
「俺さ、夏の大会に出られそうなんだ。」
「……本当?」
「うん。でも、正直まだちょっと怖い。前みたいに動けなかったらどうしようって。」
コウタは小さく息を吐いた。
「でも、マリナさんが応援してくれたから、戻ろうって思えた。」
そして、少しだけ照れながら言った。
「今度は、俺の番。」
マリナは驚いたようにコウタを見つめる。
「部活に行けなくてもいい。泣いてもいい。逃げたっていい。」
コウタはやさしく続けた。
「でも、マリナさんが好きなものまで、いじめなんかに取られちゃうのは、もったいない。」
蝉の声が一瞬だけ遠くなったように感じた。
「俺はさ、またフルートの音、聴きたい。」
「……」
「裏庭でもいいし、廊下でもいいし、どこでもいいから。」
マリナは唇を震わせながら笑った。
「コウタ君って……ほんと優しいね。」
「優しくないよ。」
コウタは少しだけ首を振る。
「ただ、マリナさんが元気ないの、嫌なだけ。」
その言葉に、マリナはとうとう声をあげて泣いた。
けれど、その涙は少しずつ穏やかに変わっていく。
「……ありがとう。」
涙をぬぐいながら、彼女は言った。
「もう少しだけ、頑張ってみる。怖いけど……フルート、やめたくないから。」
コウタはほっとしたように笑った。
「うん。無理しすぎないでね。」
裏庭の空には、まぶしい夏の光が広がっている。
二人は並んで座ったまま、しばらく何も言わずに風を感じていた。
その静かな時間の中で、マリナの心には、折れかけていた小さな音が、もう一度ゆっくりと鳴り始めていた。
コウタの足はすっかり良くなり、軽くボールを蹴れるまでに回復していた。グラウンドに立ったときの土の感触も、仲間の声も、以前と同じように胸を高鳴らせる。
それでも、その日だけは練習に集中できなかった。
昼休みになっても、放課後になっても、マリナの姿が見えなかったからだ。
吹奏楽室から聞こえてくるはずのフルートの音も、今日はどこか寂しく感じる。
帰りのホームルームが終わったあと、コウタは校舎の裏庭へ向かった。
そこはあまり人が来ない、小さな木陰のある場所だ。
そして、やっぱりそこにいた。
ベンチに座り、うつむいているマリナ。
肩は小さく震えていた。
「……マリナさん。」
声をかけると、彼女はびくっとして顔を上げた。
目が赤くなっているのを見て、コウタの胸が強く痛んだ。
「コウタ君……どうしてここに?」
「なんとなく、いる気がして。」
コウタはゆっくりと隣に座った。
少しだけ距離をあけながら、でも離れすぎない位置で。
しばらく沈黙が続いた。
蝉の声だけが、夏の空気を震わせている。
やがて、マリナが小さな声で言った。
「私ね……最近、部活に行けてないの。」
コウタは驚かなかった。
どこかで、そうじゃないかと思っていたからだ。
「……何かあったの?」
マリナは膝の上で手をぎゅっと握った。
「同じパートの子たちに、ちょっと無視されたりしてて……。私、うまくできなくて、足引っ張ってるって言われて……」
声が途中で震える。
「最初は気にしないようにしてたんだけど、練習に行くのが怖くなっちゃって……」
ぽろり、と涙が落ちた。
「フルート、好きなのに……音楽も好きなのに……なのに、楽器を見るのも怖くなって……」
コウタは言葉を探した。
簡単な慰めなんて、きっと意味がない。
それでも、何か伝えたかった。
「……悔しいよね。」
その一言に、マリナの肩が大きく揺れた。
「うん……すごく。」
コウタはゆっくり続けた。
「俺さ、怪我してたとき、グラウンド見て泣きそうになったんだ。」
「……覚えてる。」
「みんなが楽しそうに練習してるのに、自分だけ何もできなくてさ。置いていかれてる気がして、めちゃくちゃ悔しかった。」
マリナは静かにコウタの話を聞いている。
「でも、そのときマリナさんが言ってくれたんだよ。」
コウタは少し笑った。
「『休むのも次のための準備だよ』って。」
マリナの目がゆっくり見開かれる。
「今のマリナさんも、同じなんじゃないかなって思う。」
「……同じ?」
「怖くなるくらい好きなんでしょ。フルートも、音楽も。」
コウタはまっすぐ彼女を見た。
「どうでもよかったら、きっと悩まないと思う。」
涙で濡れた瞳が揺れる。
「それにさ、俺は知ってる。」
「え……?」
「放課後、窓から聞こえてくるフルートの音。すごくきれいだった。あれ聴くと、練習頑張ろうって思えたんだ。」
マリナの頬に、また涙が流れた。
でも今度は、さっきとは少し違う涙だった。
「下手だって言われても、怖くなっても、好きな気持ちまでなくなったわけじゃないでしょ?」
コウタは静かに言った。
「だったら、無理に今すぐ行かなくてもいいと思う。でも……やめないでほしい。」
風が木の葉を揺らし、やわらかな影が二人の足元に落ちる。
「俺さ、夏の大会に出られそうなんだ。」
「……本当?」
「うん。でも、正直まだちょっと怖い。前みたいに動けなかったらどうしようって。」
コウタは小さく息を吐いた。
「でも、マリナさんが応援してくれたから、戻ろうって思えた。」
そして、少しだけ照れながら言った。
「今度は、俺の番。」
マリナは驚いたようにコウタを見つめる。
「部活に行けなくてもいい。泣いてもいい。逃げたっていい。」
コウタはやさしく続けた。
「でも、マリナさんが好きなものまで、いじめなんかに取られちゃうのは、もったいない。」
蝉の声が一瞬だけ遠くなったように感じた。
「俺はさ、またフルートの音、聴きたい。」
「……」
「裏庭でもいいし、廊下でもいいし、どこでもいいから。」
マリナは唇を震わせながら笑った。
「コウタ君って……ほんと優しいね。」
「優しくないよ。」
コウタは少しだけ首を振る。
「ただ、マリナさんが元気ないの、嫌なだけ。」
その言葉に、マリナはとうとう声をあげて泣いた。
けれど、その涙は少しずつ穏やかに変わっていく。
「……ありがとう。」
涙をぬぐいながら、彼女は言った。
「もう少しだけ、頑張ってみる。怖いけど……フルート、やめたくないから。」
コウタはほっとしたように笑った。
「うん。無理しすぎないでね。」
裏庭の空には、まぶしい夏の光が広がっている。
二人は並んで座ったまま、しばらく何も言わずに風を感じていた。
その静かな時間の中で、マリナの心には、折れかけていた小さな音が、もう一度ゆっくりと鳴り始めていた。

