ドラーク侯爵は、朦朧とした状態で体を動かすと首に激痛が走ることで、自分が生きて居ると確認した。
徐々に意識がはっきりしてきて目を開くと、側に居た医師から声を掛けられた。
「気がつきましたか? まだあまり動かない様にして下さい。傷が開いてしまいますからね。気道や大きな血管は無事ですから、傷が塞がるまでの辛抱です」
そう言って、カラカラだった口の中に濡れた布で水を含ませてくれた。
ようや舌が動くようになり、声にはならなかったが、何とか囁くように問いかけた。
「……娘は……」
それを聞いた医師が、沈痛な面持ちで答えた。
「私は何も聞かされていませんのでお答えすることが出来ません。今は怪我を直す事を最優先にするようにとの事です。後ほど摂政殿下から色々とお話があるそうです」
そう言って、今度は水薬に浸した布を数回に分けて含ませてくれた。そうするうちに少しずつ痛みが和らぎ、意識が遠くなっていった。
次に目が覚めた時はあの日から三日が過ぎていた。
意識もはっきりし、体を起こせるようになった事を確認した医師が助手に指示を出し、程なく摂政アルブレヒトとバルテス公爵、ギルバートと、そしてウェーバー公爵がやって来た。
そこでアルブレヒトから、ユリアと共謀して西の王国キャロライン王女を冤罪に掛け、国外追放を企てた共犯として有罪が確定し、ドラーク侯爵家は公爵位剥奪、家族も貴族籍を剥奪されて国外追放処分になる旨を言い渡された。
合わせて告げられたユリアの処罰を聞いている間も、全てを受け入れた様子で神妙に頭を下げていた。
最後に、長女の嫁ぎ先と妻の実家には咎めなしと聞いた時には、ほっとした様子で深く頭を下げた。
アルブレヒトの通告が終った後、ドラーク元侯爵は顔を上げて問いかけた。
「娘は、レオノーラはどうなりましたか」
その場のみんなが沈痛な面持ちになり、バルテス公爵が口を開いた。
「誠に残念なことだが……」
その言葉に無言で頷き、そのまま顔を上げる事が出来ない様だった。
暫く俯いていたが、顔を上げて聞いて来た。
「追放はいつになりますか? 国境まで家族も一緒でしょうか」
それにはギルバートが答えた。
「ランベルト殿は、この国の貴族籍から離れる前に隣国の伯爵家に望まれてな。養子縁組をしたのだ。奥方の追放は既に執行されたが、国境までランベルト殿が迎えに来て保護したそうだ。今は二人とも隣国で穏やかに暮らしていると聞いている」
ドラーク侯爵は顔を上げてその話を聞いていた。その顔を見ながら、ギルバートが続けた。
「ランベルト殿はレオノーラ嬢と共に古代文学を独学で進めていたようだな。それを高く評価されたらしい。隣国では、その知識を活かせる環境に身を置けるようだ。それからレオノーラ嬢の遺志を継いで、残した資料の発表などもしていくつもりだそうだ」
ドラーク侯爵は、ウェーバー公爵に目を向けると、深々と頭を下げた。
平民となったドラーク氏は、貴族牢から一般牢の病棟に移され、そこで傷が癒えるまで療養したのち、罪人用の幌馬車に乗せられて国境で降ろされた。
そこで、国境警備隊の一人から手紙を渡された。
開いてみると、国境の町のはずれにある教会へ雑務員としての紹介状だった。
手紙の最期には、ランベルト・メイザーの署名と印章が押されている。
その署名を目にしたドラーク氏は、その場に泣き崩れた。
その様子を、ドラーク夫人とレオノーラとランベルトは、こちらの国の国境付近に止まった、紋章の無い馬車の中から見つめていた。
貴族だった彼にとって、人々に頭を下げ、更に肉体労働である教会の雑務員が務まるかどうかは分からない。しかし、家族や使用人を巻き込み、娘を死なせたことを本当に悔いているならこれは贖罪の機会となる。
どう捉えるかは彼次第だ。
立ち上がり、警備隊員たちに頭を下げて去っていくドラーク氏の背中を見送りながら、一緒に馬車に乗っていたヴィクトリアはレオノーラの背に手を当てて言った。
「いつかドラーク氏を許せる日が来るといいわね」
親子の絆を断ち切ることは難しい。
出来る事なら、レオノーラには私のような思いをして欲しくはない。
◆◆◆
この一年の目まぐるしい変化がようやく落ち着き、この度、エリアス王子とキャロライン殿下の婚約が発表された。国王は不在のままだが、摂政アルブレヒト殿下の確かな手腕は議会や近隣国に認められつつある。それに倣い、エリアス王子も父を補佐しつつ研鑽を重ねているようだ。
隣国に渡ったランベルトは、メイザー伯爵家の名を足掛かりに、めきめきと頭角を現しているらしい。独学が功を奏した新しい切り口や目線の考察や論文が評価を得て、この度、隣国の古代契約書を担う公爵閣下の秘書として抜擢されたとか。
その家の跡取りの令嬢に見初められたとかという噂もちらほらと聞こえてくる。
隣国では、ノバク商会の会長が、莫大な資産をほぼ投げ打つ形で子爵位を買ったという話題が社交界を揺るがした。しかも買ってすぐのスコット子爵位を、養女が継いだということも大きな話題となっていたのだ。
継いだ養女とはもちろんレオノーラだ。
彼女は、名をエレオノーラ・スコットと改め、お披露目を兼ねた王宮の夜会に現れたエレオノーラを目にした貴族たちは度肝を抜かれた。
隣国のバルテス前公爵ギルバートにエスコートされ、共に出席したウェーバー公夫爵夫妻とロシュフォール女伯とバルテス公子に囲まれて就任のあいさつを行う様子は、王族にも引けを取らぬ気品と優雅さを備えていた。それもそのはず、侯爵令嬢として厳しく躾けられ、一時は王子妃教育まで施されているのだ。
そんなエレオノーラを、平民上がりと勘違いし蔑みの対象として虎視眈々と狙っていた者たちは、出鼻を挫かれた。
ここでも自国のメイザー伯爵こと、隣国のウェーバー公爵オスカーの苛烈さは轟いている。
手を出してはいけない相手だと認識してくれたようでなによりだ。
レオノーラ改め、エレオノーラは、隣国の学園に通いながらバーナム商会の隣国支店と協力して、私の著書の隣国語への翻訳や出版の手続きを任せている。
原書が読めるエレオノーラは、次に出版する本の内容や現代語訳についても相談し合あえる心強い仲間だ。
古代文学の研究や出版も順調で、学園の講座にも多くの生徒たちが集まってくれており、私は思う存分古代文学の魅力を話す事が出来ている。
マードックの完璧な家政の采配に、愛すべきチーム「沼」の侍女たち、力強く支えてくれる父と優しい義母と可愛い弟。
ヴィッセル侯爵家のサロンも続けており、侯爵夫妻は元より使用人たちも含めて友人として本当に良くしてもらっている。
そして、傍らには自分以上に私を理解してくれるダニエルがいる。
まるで物語のような幸せな世界だ。
そう、物語のように。
何故だろう、幸せそうなみんなの顔を見ていると、ふと、自分がこの物語を外から眺めているような感覚にとらわれる。
もちろん、疎外感があるとか寂しいとかという感覚は全くなく、間違いなく私は今、幸せなのだ。
そんなある日、ハンナがヘンリクに昼食を届けに来たから、ダニエルと一緒にどうかと声を掛けられた。ヴィッセル邸の料理長のサンドイッチは絶品なのだ。
私もダニエルも、喜んで招待を受けて部屋に向かった。
学園の教師にはそれぞれ部屋と続きの応接間が割り当てられている。
今までヘンリクの部屋には入った事がなかったが、扉を開けて笑顔が引きつった。
何と、壁一面に息子のヴィクターの肖像画が掲げられている。数枚ハンナとヴィクターの聖母子像のような絵もあるが、ずらりと掲げられたヴィクターの絵は、さながら成長記録のようになっている。
「みんなに配ろうと思ってたくさん肖像画を描かせたんだが、ハンナの言う通りどの瞬間も手放し難くてね。こうしてここに並べる事にしたんだ。仕事の合間に愛する妻と子の肖像画に囲まれて癒されているんだ。私は本当に幸せ者だよ」
ハンナに目を向けると、可憐な顔で微笑まれた。
以前、息子の肖像画を贈ると言われて、どうやって断ろうかと身構えていたのだが、一枚も届かなかったのはこういうことだった。
食事が終わり、お茶の準備を頼んだところで、ヘンリクとダニエルが席を立ち、肖像画の前で説明を受けながら真剣に話し合っている。
それを横目に、ハンナにこっそり話しかけた。
「ヴィクターが元気に育っている様子がよくわかるわね。それにしても凄い量だわ」
それを聞いたハンナは、ヘンリクをちらりと見やり、口元に手を添えてくすりと笑った。
「両親以外には贈っていませんの。だって、ねえ」
その時の二人のやり取りを思い浮かべると、微笑ましくも可笑しかった。
ダニエルに目を遣ると、ヘンリクの話を真剣に聞いて相槌を打っている。もしかして感化されているのかしら? もしダニエルが同じように子どもの肖像画を配るなんて言い出したらどうしよう。
そんな気の早い想像をしてしまい、思わず頬が染まった。
私のその顔を見て柔らかく目を細めていたハンナが囁いた。
「それに、もう一つ狙いもあったのですよ」
そして、内緒話をするように顔を寄せて来た。
「こうしておけば、悪い虫は勝手に退散していきます」
流石【恋のカリスマ】優しく絆されやすいヘンリクには最重要の処置かもしれない。
しかし、美丈夫ではあるが大柄で威圧感を漂わせたダニエルが、子どもと妻の肖像画で埋め尽くされた部屋に座っている姿を思い浮かべると、思わず声を立てて笑ってしまった。
その声に振り返ったダニエルが私を見て、なぜか安心したような顔を向けられた。
お茶の準備が整い、みんながソファーに座った時、ハンナの手を取り見つめ合ったヘンリクから告げられた。
「今日、二人に来てもらったのは、一番に知らせたいことがあったからなんだ」
そう言ってハンナのお腹に手を当てた。
「二人目が出来たんだ」
その報告に、ダニエルと二人で心からお祝いの言葉を掛け、男の子と女の子のどちらだろうか、今度はどちらに似るだろうかと大いに盛り上がったのだった。
「今度こそ肖像画を贈るからね!」
帰り際にそう言われた言葉に「ありがとう」と返しながら、思わずハンナに目配せをしてしまった。
『いつになったら【常春の君】から卒業できるのかしらね』
思わず魂の声が漏れてしまった。
その日の帰りの馬車の中で、いつにもましてにこにこして私の手を握るダニエルに、何か良いことがあったのかと聞いてみた。
「やっと戻ってきてくれたから嬉しくてね」
思いがけない言葉に、驚いてダニエルの顔を見つめた。
「隣国の夜会辺りからだったと思う。あなたが私やみんなを見ている目が、まるで遠くから見守っているようだった。近くにいるはずなのに心は遠くにいるようで、ずっともどかしかった。でも、ハンナ夫人と話して笑った顔を見て、やっと笑えるようになったと思って安心したんだ。心の声も戻ってきたしね」
ダニエルには分かっていたんだ。
私は、ずっと物語を見ているような感覚だった事を話した。そこから抜け出せたことが実感できた今、笑えるきっかけになった事を正直に話した。
ダニエルが、壁一面に掲げられた子どもと妻の肖像画に囲まれ、漏れ出る威圧感を抑えることなく部屋の真ん中に座っている場面を想像してしまって、思わず笑ってしまったのだと。
すると、耳まで真っ赤になったダニエルに抱きしめられた。
「私との将来を想像してくれて本当にうれしい」
その言葉で気がついた。
私に足りなかったのは、幸せになっている自分の将来の姿だったのだ。
これからダニエルと二人で、幸せな未来をたくさん話し合おう。
そして、それを実現して行けば、私たちは必ず幸せになれる。
「これから私と一緒に、二人の幸せな物語を紡いで行ってくれますか?」
ダニエルは、私を抱きしめたまま呟いた。
「また先を越されてしまった……」
次の日、私は跪いたダニエルから、真っ赤なバラの花束を受け取った。
徐々に意識がはっきりしてきて目を開くと、側に居た医師から声を掛けられた。
「気がつきましたか? まだあまり動かない様にして下さい。傷が開いてしまいますからね。気道や大きな血管は無事ですから、傷が塞がるまでの辛抱です」
そう言って、カラカラだった口の中に濡れた布で水を含ませてくれた。
ようや舌が動くようになり、声にはならなかったが、何とか囁くように問いかけた。
「……娘は……」
それを聞いた医師が、沈痛な面持ちで答えた。
「私は何も聞かされていませんのでお答えすることが出来ません。今は怪我を直す事を最優先にするようにとの事です。後ほど摂政殿下から色々とお話があるそうです」
そう言って、今度は水薬に浸した布を数回に分けて含ませてくれた。そうするうちに少しずつ痛みが和らぎ、意識が遠くなっていった。
次に目が覚めた時はあの日から三日が過ぎていた。
意識もはっきりし、体を起こせるようになった事を確認した医師が助手に指示を出し、程なく摂政アルブレヒトとバルテス公爵、ギルバートと、そしてウェーバー公爵がやって来た。
そこでアルブレヒトから、ユリアと共謀して西の王国キャロライン王女を冤罪に掛け、国外追放を企てた共犯として有罪が確定し、ドラーク侯爵家は公爵位剥奪、家族も貴族籍を剥奪されて国外追放処分になる旨を言い渡された。
合わせて告げられたユリアの処罰を聞いている間も、全てを受け入れた様子で神妙に頭を下げていた。
最後に、長女の嫁ぎ先と妻の実家には咎めなしと聞いた時には、ほっとした様子で深く頭を下げた。
アルブレヒトの通告が終った後、ドラーク元侯爵は顔を上げて問いかけた。
「娘は、レオノーラはどうなりましたか」
その場のみんなが沈痛な面持ちになり、バルテス公爵が口を開いた。
「誠に残念なことだが……」
その言葉に無言で頷き、そのまま顔を上げる事が出来ない様だった。
暫く俯いていたが、顔を上げて聞いて来た。
「追放はいつになりますか? 国境まで家族も一緒でしょうか」
それにはギルバートが答えた。
「ランベルト殿は、この国の貴族籍から離れる前に隣国の伯爵家に望まれてな。養子縁組をしたのだ。奥方の追放は既に執行されたが、国境までランベルト殿が迎えに来て保護したそうだ。今は二人とも隣国で穏やかに暮らしていると聞いている」
ドラーク侯爵は顔を上げてその話を聞いていた。その顔を見ながら、ギルバートが続けた。
「ランベルト殿はレオノーラ嬢と共に古代文学を独学で進めていたようだな。それを高く評価されたらしい。隣国では、その知識を活かせる環境に身を置けるようだ。それからレオノーラ嬢の遺志を継いで、残した資料の発表などもしていくつもりだそうだ」
ドラーク侯爵は、ウェーバー公爵に目を向けると、深々と頭を下げた。
平民となったドラーク氏は、貴族牢から一般牢の病棟に移され、そこで傷が癒えるまで療養したのち、罪人用の幌馬車に乗せられて国境で降ろされた。
そこで、国境警備隊の一人から手紙を渡された。
開いてみると、国境の町のはずれにある教会へ雑務員としての紹介状だった。
手紙の最期には、ランベルト・メイザーの署名と印章が押されている。
その署名を目にしたドラーク氏は、その場に泣き崩れた。
その様子を、ドラーク夫人とレオノーラとランベルトは、こちらの国の国境付近に止まった、紋章の無い馬車の中から見つめていた。
貴族だった彼にとって、人々に頭を下げ、更に肉体労働である教会の雑務員が務まるかどうかは分からない。しかし、家族や使用人を巻き込み、娘を死なせたことを本当に悔いているならこれは贖罪の機会となる。
どう捉えるかは彼次第だ。
立ち上がり、警備隊員たちに頭を下げて去っていくドラーク氏の背中を見送りながら、一緒に馬車に乗っていたヴィクトリアはレオノーラの背に手を当てて言った。
「いつかドラーク氏を許せる日が来るといいわね」
親子の絆を断ち切ることは難しい。
出来る事なら、レオノーラには私のような思いをして欲しくはない。
◆◆◆
この一年の目まぐるしい変化がようやく落ち着き、この度、エリアス王子とキャロライン殿下の婚約が発表された。国王は不在のままだが、摂政アルブレヒト殿下の確かな手腕は議会や近隣国に認められつつある。それに倣い、エリアス王子も父を補佐しつつ研鑽を重ねているようだ。
隣国に渡ったランベルトは、メイザー伯爵家の名を足掛かりに、めきめきと頭角を現しているらしい。独学が功を奏した新しい切り口や目線の考察や論文が評価を得て、この度、隣国の古代契約書を担う公爵閣下の秘書として抜擢されたとか。
その家の跡取りの令嬢に見初められたとかという噂もちらほらと聞こえてくる。
隣国では、ノバク商会の会長が、莫大な資産をほぼ投げ打つ形で子爵位を買ったという話題が社交界を揺るがした。しかも買ってすぐのスコット子爵位を、養女が継いだということも大きな話題となっていたのだ。
継いだ養女とはもちろんレオノーラだ。
彼女は、名をエレオノーラ・スコットと改め、お披露目を兼ねた王宮の夜会に現れたエレオノーラを目にした貴族たちは度肝を抜かれた。
隣国のバルテス前公爵ギルバートにエスコートされ、共に出席したウェーバー公夫爵夫妻とロシュフォール女伯とバルテス公子に囲まれて就任のあいさつを行う様子は、王族にも引けを取らぬ気品と優雅さを備えていた。それもそのはず、侯爵令嬢として厳しく躾けられ、一時は王子妃教育まで施されているのだ。
そんなエレオノーラを、平民上がりと勘違いし蔑みの対象として虎視眈々と狙っていた者たちは、出鼻を挫かれた。
ここでも自国のメイザー伯爵こと、隣国のウェーバー公爵オスカーの苛烈さは轟いている。
手を出してはいけない相手だと認識してくれたようでなによりだ。
レオノーラ改め、エレオノーラは、隣国の学園に通いながらバーナム商会の隣国支店と協力して、私の著書の隣国語への翻訳や出版の手続きを任せている。
原書が読めるエレオノーラは、次に出版する本の内容や現代語訳についても相談し合あえる心強い仲間だ。
古代文学の研究や出版も順調で、学園の講座にも多くの生徒たちが集まってくれており、私は思う存分古代文学の魅力を話す事が出来ている。
マードックの完璧な家政の采配に、愛すべきチーム「沼」の侍女たち、力強く支えてくれる父と優しい義母と可愛い弟。
ヴィッセル侯爵家のサロンも続けており、侯爵夫妻は元より使用人たちも含めて友人として本当に良くしてもらっている。
そして、傍らには自分以上に私を理解してくれるダニエルがいる。
まるで物語のような幸せな世界だ。
そう、物語のように。
何故だろう、幸せそうなみんなの顔を見ていると、ふと、自分がこの物語を外から眺めているような感覚にとらわれる。
もちろん、疎外感があるとか寂しいとかという感覚は全くなく、間違いなく私は今、幸せなのだ。
そんなある日、ハンナがヘンリクに昼食を届けに来たから、ダニエルと一緒にどうかと声を掛けられた。ヴィッセル邸の料理長のサンドイッチは絶品なのだ。
私もダニエルも、喜んで招待を受けて部屋に向かった。
学園の教師にはそれぞれ部屋と続きの応接間が割り当てられている。
今までヘンリクの部屋には入った事がなかったが、扉を開けて笑顔が引きつった。
何と、壁一面に息子のヴィクターの肖像画が掲げられている。数枚ハンナとヴィクターの聖母子像のような絵もあるが、ずらりと掲げられたヴィクターの絵は、さながら成長記録のようになっている。
「みんなに配ろうと思ってたくさん肖像画を描かせたんだが、ハンナの言う通りどの瞬間も手放し難くてね。こうしてここに並べる事にしたんだ。仕事の合間に愛する妻と子の肖像画に囲まれて癒されているんだ。私は本当に幸せ者だよ」
ハンナに目を向けると、可憐な顔で微笑まれた。
以前、息子の肖像画を贈ると言われて、どうやって断ろうかと身構えていたのだが、一枚も届かなかったのはこういうことだった。
食事が終わり、お茶の準備を頼んだところで、ヘンリクとダニエルが席を立ち、肖像画の前で説明を受けながら真剣に話し合っている。
それを横目に、ハンナにこっそり話しかけた。
「ヴィクターが元気に育っている様子がよくわかるわね。それにしても凄い量だわ」
それを聞いたハンナは、ヘンリクをちらりと見やり、口元に手を添えてくすりと笑った。
「両親以外には贈っていませんの。だって、ねえ」
その時の二人のやり取りを思い浮かべると、微笑ましくも可笑しかった。
ダニエルに目を遣ると、ヘンリクの話を真剣に聞いて相槌を打っている。もしかして感化されているのかしら? もしダニエルが同じように子どもの肖像画を配るなんて言い出したらどうしよう。
そんな気の早い想像をしてしまい、思わず頬が染まった。
私のその顔を見て柔らかく目を細めていたハンナが囁いた。
「それに、もう一つ狙いもあったのですよ」
そして、内緒話をするように顔を寄せて来た。
「こうしておけば、悪い虫は勝手に退散していきます」
流石【恋のカリスマ】優しく絆されやすいヘンリクには最重要の処置かもしれない。
しかし、美丈夫ではあるが大柄で威圧感を漂わせたダニエルが、子どもと妻の肖像画で埋め尽くされた部屋に座っている姿を思い浮かべると、思わず声を立てて笑ってしまった。
その声に振り返ったダニエルが私を見て、なぜか安心したような顔を向けられた。
お茶の準備が整い、みんながソファーに座った時、ハンナの手を取り見つめ合ったヘンリクから告げられた。
「今日、二人に来てもらったのは、一番に知らせたいことがあったからなんだ」
そう言ってハンナのお腹に手を当てた。
「二人目が出来たんだ」
その報告に、ダニエルと二人で心からお祝いの言葉を掛け、男の子と女の子のどちらだろうか、今度はどちらに似るだろうかと大いに盛り上がったのだった。
「今度こそ肖像画を贈るからね!」
帰り際にそう言われた言葉に「ありがとう」と返しながら、思わずハンナに目配せをしてしまった。
『いつになったら【常春の君】から卒業できるのかしらね』
思わず魂の声が漏れてしまった。
その日の帰りの馬車の中で、いつにもましてにこにこして私の手を握るダニエルに、何か良いことがあったのかと聞いてみた。
「やっと戻ってきてくれたから嬉しくてね」
思いがけない言葉に、驚いてダニエルの顔を見つめた。
「隣国の夜会辺りからだったと思う。あなたが私やみんなを見ている目が、まるで遠くから見守っているようだった。近くにいるはずなのに心は遠くにいるようで、ずっともどかしかった。でも、ハンナ夫人と話して笑った顔を見て、やっと笑えるようになったと思って安心したんだ。心の声も戻ってきたしね」
ダニエルには分かっていたんだ。
私は、ずっと物語を見ているような感覚だった事を話した。そこから抜け出せたことが実感できた今、笑えるきっかけになった事を正直に話した。
ダニエルが、壁一面に掲げられた子どもと妻の肖像画に囲まれ、漏れ出る威圧感を抑えることなく部屋の真ん中に座っている場面を想像してしまって、思わず笑ってしまったのだと。
すると、耳まで真っ赤になったダニエルに抱きしめられた。
「私との将来を想像してくれて本当にうれしい」
その言葉で気がついた。
私に足りなかったのは、幸せになっている自分の将来の姿だったのだ。
これからダニエルと二人で、幸せな未来をたくさん話し合おう。
そして、それを実現して行けば、私たちは必ず幸せになれる。
「これから私と一緒に、二人の幸せな物語を紡いで行ってくれますか?」
ダニエルは、私を抱きしめたまま呟いた。
「また先を越されてしまった……」
次の日、私は跪いたダニエルから、真っ赤なバラの花束を受け取った。



